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十章 青い蓮
5、長い回廊
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皇后が住まう寿華宮に着く頃には、小雨が降りはじめた。翠鈴は湿った前髪を手で払う。
蘭淑妃と侍女頭の梅娜も同行している。
寿華宮は未央宮よりも広く、そびえる紅色の壁もひときわ高い。
他の妃嬪の宮と違い、寿華宮の入り口は二か所あり、後宮の外である宮城にも開かれている。当然、閽人という門番が昼夜を問わずに不審者が入らぬように守っている。
外の世界と繋がることのできる皇后と、後宮でしか暮らすことのできない妃嬪との差は大きい。
寿華宮の侍女に案内され、翠鈴たちは路地の奥へと進む。
壁が途切れた。視界が開け、花ざかりの庭が広がる。霧雨に濡れた花は、まるで色を失ったかのかのようだ。
景色に目を留めることもなく、翠鈴は進んだ。
「皇后陛下は、急にお腹が苦しいとおっしゃって」
侍女は早足で回廊を歩きながら、説明した。未央宮の柱や軒よりも装飾が多い。そして回廊はどこまでも長い。
「産医は、歩かなければ、元気な子が生まれないとおっしゃっていたので。頭が痛むことが多くて、ふだんは、あまり歩いておられないのですが。今朝は庭を、散歩なさって、いたんです」
早歩きどころか、もはや小走りの速度だ。侍女の言葉は切れ切れに風にさらわれる。
「途中までは、お元気でした。今日は頭痛もなくて。なのに、急にお腹が張って苦しいと、うずくまっておしまいで」
「どう思われますか、淑妃さま」
翠鈴は遅れて続く蘭淑妃に声をかけた。妊娠の経験者の話を聞いた方がいいだろう。
「動くのは間違いではないけれど。無理をなさってはいけないわ。安静が一番ね」
蘭淑妃は、梅娜に背を押されている。淑妃は歩きやすそうだが、すでに梅娜は息が上がっている。
「お腹が張る、苦しい、痛い。皇后陛下はこれまで同じような症状を訴えておいででしたか?」
「いえ。今日が初めてです。まず、産医に診ていただいたのですが。横になるようにと、おっしゃる、だけで。せめて、原因が分からないと、不安で、不安で」
翠鈴の問いかけに、侍女が答える。
ようやく皇后の寝室である殿が見えてきた。扉の前には、ずらっと侍女たちが並んでいる。誰もが不安そうに翠鈴たちを見つめている。
重々しい扉が開かれる。室内は仄暗いが、窗は開かれているようで空気はこもっていない。
「皇后娘娘」
蘭淑妃は、紗の帷が掛かる寝台である架子牀に駆けよった。皇后と蘭淑妃ふたりの、囁くように互いを思いやる言葉が聞こえる。
(おふたりは、まるで姉妹のように仲睦まじいと聞くけれど。本当にそうなのだわ)
「皇后娘娘」との呼称を、皇后が許しているのは蘭淑妃にだけと耳にしたことがある。
蘭淑妃に尋ねたことはないけれど。それでも翠鈴が知る限り、蘭淑妃以外に皇后娘娘という言葉を使う人はいない。
「娘娘」は女神や皇后に対する敬称だ。だが施暁慶皇后陛下にとっては、ただの敬称ではないのだろう。
たったひとり、蘭淑妃だけが使える呼び名だ。
皇后が、梅娜と翠鈴に顔を向けた。
「そちらが陸翠鈴ですか」
架子牀で上体を起こそうとした皇后を、翠鈴は止めた。
「どうぞ、そのままで。直接、お話しする無礼をどうぞお許しください」
「気にせずともよろしい。わたくしがそなたを呼んだのです」
横になっていても、皇后には威厳がある。だが、皇帝ほどの威圧感はない。緊張はするが、声の震えや舌がうまく回らないということはない。
侍女に椅子を勧められて、翠鈴は寝台の側に座る。隣の椅子に蘭淑妃が腰を下ろした。
「失礼ですが。出血はございませんか?」
「そうね、ないわ。産医にも話したけれど。安静にしていればいいとのことでした。だけど」
皇后は言葉を途切れさせた。瞼を伏せて、ため息をつく。
「これまでもお腹が張ることはありました。けれど、痛みはなかったのです。今朝のは引き絞られるような、お腹の子が苦しいともがいているような、そんな感覚でした」
それは明らかに異常だ。翠鈴は息を呑んだ。
産み月にはまだ少し早い。出産の予定日を確認すると、もし何かあれば流産ではなく早産となるだろう。
だが十月十日を母の胎内で過ごさなければ、赤子は小さく弱いままに生まれてしまう。
「わたしをお呼びになった理由をお聞かせ願えますか?」
翠鈴は問うた。
蘭淑妃と侍女頭の梅娜も同行している。
寿華宮は未央宮よりも広く、そびえる紅色の壁もひときわ高い。
他の妃嬪の宮と違い、寿華宮の入り口は二か所あり、後宮の外である宮城にも開かれている。当然、閽人という門番が昼夜を問わずに不審者が入らぬように守っている。
外の世界と繋がることのできる皇后と、後宮でしか暮らすことのできない妃嬪との差は大きい。
寿華宮の侍女に案内され、翠鈴たちは路地の奥へと進む。
壁が途切れた。視界が開け、花ざかりの庭が広がる。霧雨に濡れた花は、まるで色を失ったかのかのようだ。
景色に目を留めることもなく、翠鈴は進んだ。
「皇后陛下は、急にお腹が苦しいとおっしゃって」
侍女は早足で回廊を歩きながら、説明した。未央宮の柱や軒よりも装飾が多い。そして回廊はどこまでも長い。
「産医は、歩かなければ、元気な子が生まれないとおっしゃっていたので。頭が痛むことが多くて、ふだんは、あまり歩いておられないのですが。今朝は庭を、散歩なさって、いたんです」
早歩きどころか、もはや小走りの速度だ。侍女の言葉は切れ切れに風にさらわれる。
「途中までは、お元気でした。今日は頭痛もなくて。なのに、急にお腹が張って苦しいと、うずくまっておしまいで」
「どう思われますか、淑妃さま」
翠鈴は遅れて続く蘭淑妃に声をかけた。妊娠の経験者の話を聞いた方がいいだろう。
「動くのは間違いではないけれど。無理をなさってはいけないわ。安静が一番ね」
蘭淑妃は、梅娜に背を押されている。淑妃は歩きやすそうだが、すでに梅娜は息が上がっている。
「お腹が張る、苦しい、痛い。皇后陛下はこれまで同じような症状を訴えておいででしたか?」
「いえ。今日が初めてです。まず、産医に診ていただいたのですが。横になるようにと、おっしゃる、だけで。せめて、原因が分からないと、不安で、不安で」
翠鈴の問いかけに、侍女が答える。
ようやく皇后の寝室である殿が見えてきた。扉の前には、ずらっと侍女たちが並んでいる。誰もが不安そうに翠鈴たちを見つめている。
重々しい扉が開かれる。室内は仄暗いが、窗は開かれているようで空気はこもっていない。
「皇后娘娘」
蘭淑妃は、紗の帷が掛かる寝台である架子牀に駆けよった。皇后と蘭淑妃ふたりの、囁くように互いを思いやる言葉が聞こえる。
(おふたりは、まるで姉妹のように仲睦まじいと聞くけれど。本当にそうなのだわ)
「皇后娘娘」との呼称を、皇后が許しているのは蘭淑妃にだけと耳にしたことがある。
蘭淑妃に尋ねたことはないけれど。それでも翠鈴が知る限り、蘭淑妃以外に皇后娘娘という言葉を使う人はいない。
「娘娘」は女神や皇后に対する敬称だ。だが施暁慶皇后陛下にとっては、ただの敬称ではないのだろう。
たったひとり、蘭淑妃だけが使える呼び名だ。
皇后が、梅娜と翠鈴に顔を向けた。
「そちらが陸翠鈴ですか」
架子牀で上体を起こそうとした皇后を、翠鈴は止めた。
「どうぞ、そのままで。直接、お話しする無礼をどうぞお許しください」
「気にせずともよろしい。わたくしがそなたを呼んだのです」
横になっていても、皇后には威厳がある。だが、皇帝ほどの威圧感はない。緊張はするが、声の震えや舌がうまく回らないということはない。
侍女に椅子を勧められて、翠鈴は寝台の側に座る。隣の椅子に蘭淑妃が腰を下ろした。
「失礼ですが。出血はございませんか?」
「そうね、ないわ。産医にも話したけれど。安静にしていればいいとのことでした。だけど」
皇后は言葉を途切れさせた。瞼を伏せて、ため息をつく。
「これまでもお腹が張ることはありました。けれど、痛みはなかったのです。今朝のは引き絞られるような、お腹の子が苦しいともがいているような、そんな感覚でした」
それは明らかに異常だ。翠鈴は息を呑んだ。
産み月にはまだ少し早い。出産の予定日を確認すると、もし何かあれば流産ではなく早産となるだろう。
だが十月十日を母の胎内で過ごさなければ、赤子は小さく弱いままに生まれてしまう。
「わたしをお呼びになった理由をお聞かせ願えますか?」
翠鈴は問うた。
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