170 / 175
十章 青い蓮
3、薬草酒
しおりを挟む
侍女頭の晩溪が持ってきた薬酒を、呂充儀は自分で碗に注いだ。
こぽこぽと音を立てて、壺から焦げ茶色の液体が現れる。
芹の一種である過泥子、イナゴ豆、竜胆、薫衣草や薄荷に甘草など多くの種類の生薬を浸けこんだ薬草酒だ。
とろりとした酒を口にすると、独特の甘くて苦い味が広がっていく。
かつて地上に青蓮娘娘がいらした時に、伝えられたお酒だという。
「女炎帝といわれる薬師が、後宮に現れるそうね」
晩溪は返事をしない。呂充儀はひとりで話を続けた。
「そんな偽者の女神に傾倒している女官や宮女が多いんでしょ。馬鹿ね。どうせなら青蓮娘娘を信仰すればいいのに」
薬草種の酒精はきつい。だが、呂充儀は一息に碗を空にした。
待っていても晩溪は、二杯目を注いでくれない。これまでなら複数の侍女が側にいたのに。仕事が忙しいと、主の元に寄りつかない。
しょうがないから、呂充儀は手酌をした。
薬酒はいい。いくら飲んでも薬草を浸けてあるのだから、健康にいい。
煎じ薬に似た苦さに重なる甘さは、クセがあるが。後を引く味でもある。
「女炎帝さまは、ご立派です」
思いもがけない晩溪の反論に、呂充儀は碗を卓に置いた。唇の端から茶色いひとすじが、とろりと垂れる。
「病気とまではいかぬ、医局を頼りにくい症状ですら、女炎帝さまは治してくださいます。品階の差を気にかけることもなく、侍女も下女も差別することなく。安価で安全な薬を分けてくださるのです」
何を愚かなことを。呂充儀は、三杯目の薬酒を飲み干した。
「女炎帝はただの人間でしょ。青蓮娘娘は違うわ、真の女神よ。地上に生薬や薬酒を伝えてくださったのよ」
「ですが。そのお酒は碗一杯で、宮女のふた月ぶんの給金を越えます。充儀さまはすでに宮女の半年分の金額をお召しあがりになりました」
どうして自分が説教をされなければならないのだろう。
子を喪って、こんなにもつらいのに。
「女炎帝さまは、宮女からお金をむしり取りません。呂充儀さまが、天堂教の高額なお酒や生薬を取り寄せることがお出来になったり、法外な値の弔いを依頼できるのは、故郷のお父さまのお力があってのことです」
どうして女神のふりをした女への褒め言葉を、侍女頭から聞かなければならないのだろう。
何か……何かを間違えている気がする。
これまでは南蕾がいたから。
口ごたえもせず、主張もしない地味な南蕾に仕事を振ることで、侍女たちは後宮で楽に暮らせていたから。
不満が、主である呂充儀に向くことがなかったのだ。
「充儀さまはご存じないでしょうけれど。天堂教に入信できるのは、地位や財産がある者だけ。それが証拠に、この間のお弔いでは大勢の女官や宮女、宦官が集まっておりました。富のあるなしで信者を選ぶんですよ、天堂教は」
晩溪の声は冷たい。
いけない。このままでは。
お酒でぼうっとした頭で、呂充儀は考えを巡らせる。
「でも侍女でも天堂教の信者はいるわ。皇后の侍女も信者であると、巫女が話していたわ」
「充儀さま」
侍女の言葉は、ため息と共に発せられた。
「皇后陛下の侍女が、平民のわけがございませんよ」
これもだめだ。
女炎帝なんて、女神を騙る詐欺師に負けるわけにはいかない。
真の女神である青蓮娘娘の信徒として。そしてこの文彗宮の主として。
青蓮娘娘がすべての人を等しく愛して、慈愛に満ちているかを知らしめなければ。
そうだ。確か皇后は頭痛に悩んでいるはずだ。
未央宮の生意気な下女は、丁子のお茶は妊娠時は飲むことを禁じたが。
丁子以外のお茶が悪いとは聞いていない。
皇后の頭痛を治して恩を売れば。皇帝陛下は感動して、また自分の元に通ってくるに違いない。侍女たちも「さすがは充儀さま」と見直してくれるだろう。
なによりも、皇后自らが感謝をするだろう。今は蘭淑妃にしか許されていない「皇后娘娘」の呼称を、充儀にも認めるかもしれない。
皇后は偏屈なのか、普通の敬称である皇后娘娘を己が心を許したものにしか使わせない。
「充儀さま。宮女がこの部屋を掃除しますので、床の青い花はすべて捨てさせていただきます」
「いいわよ。その代わり、持ってきた紙を藍で染めてちょうだい。それから蓮の花の形に切り抜くのよ」
「侍女頭である私がですか?」
「当然よ。下女になんて任せられないわ。天堂教に奉納するのよ、丁寧にね」
晩溪は自分が持ってきた紙の束に目を向けると、肩を落とした。
これまで清めのために床に散り敷いていた紙の青い花を、呂充儀は決して片づけさせなかった。
だが、今後の見通しが立った今。いつまでも仄暗い弔いの中に留まってはいられない。
こぽこぽと音を立てて、壺から焦げ茶色の液体が現れる。
芹の一種である過泥子、イナゴ豆、竜胆、薫衣草や薄荷に甘草など多くの種類の生薬を浸けこんだ薬草酒だ。
とろりとした酒を口にすると、独特の甘くて苦い味が広がっていく。
かつて地上に青蓮娘娘がいらした時に、伝えられたお酒だという。
「女炎帝といわれる薬師が、後宮に現れるそうね」
晩溪は返事をしない。呂充儀はひとりで話を続けた。
「そんな偽者の女神に傾倒している女官や宮女が多いんでしょ。馬鹿ね。どうせなら青蓮娘娘を信仰すればいいのに」
薬草種の酒精はきつい。だが、呂充儀は一息に碗を空にした。
待っていても晩溪は、二杯目を注いでくれない。これまでなら複数の侍女が側にいたのに。仕事が忙しいと、主の元に寄りつかない。
しょうがないから、呂充儀は手酌をした。
薬酒はいい。いくら飲んでも薬草を浸けてあるのだから、健康にいい。
煎じ薬に似た苦さに重なる甘さは、クセがあるが。後を引く味でもある。
「女炎帝さまは、ご立派です」
思いもがけない晩溪の反論に、呂充儀は碗を卓に置いた。唇の端から茶色いひとすじが、とろりと垂れる。
「病気とまではいかぬ、医局を頼りにくい症状ですら、女炎帝さまは治してくださいます。品階の差を気にかけることもなく、侍女も下女も差別することなく。安価で安全な薬を分けてくださるのです」
何を愚かなことを。呂充儀は、三杯目の薬酒を飲み干した。
「女炎帝はただの人間でしょ。青蓮娘娘は違うわ、真の女神よ。地上に生薬や薬酒を伝えてくださったのよ」
「ですが。そのお酒は碗一杯で、宮女のふた月ぶんの給金を越えます。充儀さまはすでに宮女の半年分の金額をお召しあがりになりました」
どうして自分が説教をされなければならないのだろう。
子を喪って、こんなにもつらいのに。
「女炎帝さまは、宮女からお金をむしり取りません。呂充儀さまが、天堂教の高額なお酒や生薬を取り寄せることがお出来になったり、法外な値の弔いを依頼できるのは、故郷のお父さまのお力があってのことです」
どうして女神のふりをした女への褒め言葉を、侍女頭から聞かなければならないのだろう。
何か……何かを間違えている気がする。
これまでは南蕾がいたから。
口ごたえもせず、主張もしない地味な南蕾に仕事を振ることで、侍女たちは後宮で楽に暮らせていたから。
不満が、主である呂充儀に向くことがなかったのだ。
「充儀さまはご存じないでしょうけれど。天堂教に入信できるのは、地位や財産がある者だけ。それが証拠に、この間のお弔いでは大勢の女官や宮女、宦官が集まっておりました。富のあるなしで信者を選ぶんですよ、天堂教は」
晩溪の声は冷たい。
いけない。このままでは。
お酒でぼうっとした頭で、呂充儀は考えを巡らせる。
「でも侍女でも天堂教の信者はいるわ。皇后の侍女も信者であると、巫女が話していたわ」
「充儀さま」
侍女の言葉は、ため息と共に発せられた。
「皇后陛下の侍女が、平民のわけがございませんよ」
これもだめだ。
女炎帝なんて、女神を騙る詐欺師に負けるわけにはいかない。
真の女神である青蓮娘娘の信徒として。そしてこの文彗宮の主として。
青蓮娘娘がすべての人を等しく愛して、慈愛に満ちているかを知らしめなければ。
そうだ。確か皇后は頭痛に悩んでいるはずだ。
未央宮の生意気な下女は、丁子のお茶は妊娠時は飲むことを禁じたが。
丁子以外のお茶が悪いとは聞いていない。
皇后の頭痛を治して恩を売れば。皇帝陛下は感動して、また自分の元に通ってくるに違いない。侍女たちも「さすがは充儀さま」と見直してくれるだろう。
なによりも、皇后自らが感謝をするだろう。今は蘭淑妃にしか許されていない「皇后娘娘」の呼称を、充儀にも認めるかもしれない。
皇后は偏屈なのか、普通の敬称である皇后娘娘を己が心を許したものにしか使わせない。
「充儀さま。宮女がこの部屋を掃除しますので、床の青い花はすべて捨てさせていただきます」
「いいわよ。その代わり、持ってきた紙を藍で染めてちょうだい。それから蓮の花の形に切り抜くのよ」
「侍女頭である私がですか?」
「当然よ。下女になんて任せられないわ。天堂教に奉納するのよ、丁寧にね」
晩溪は自分が持ってきた紙の束に目を向けると、肩を落とした。
これまで清めのために床に散り敷いていた紙の青い花を、呂充儀は決して片づけさせなかった。
だが、今後の見通しが立った今。いつまでも仄暗い弔いの中に留まってはいられない。
85
お気に入りに追加
706
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
旦那様に離婚を突きつけられて身を引きましたが妊娠していました。
ゆらゆらぎ
恋愛
ある日、平民出身である侯爵夫人カトリーナは辺境へ行って二ヶ月間会っていない夫、ランドロフから執事を通して離縁届を突きつけられる。元の身分の差を考え気持ちを残しながらも大人しく身を引いたカトリーナ。
実家に戻り、兄の隣国行きについていくことになったが隣国アスファルタ王国に向かう旅の途中、急激に体調を崩したカトリーナは医師の診察を受けることに。
七年間の婚約は今日で終わりを迎えます
hana
恋愛
公爵令嬢エミリアが十歳の時、第三王子であるロイとの婚約が決まった。しかし婚約者としての生活に、エミリアは不満を覚える毎日を過ごしていた。そんな折、エミリアは夜会にて王子から婚約破棄を宣言される。
口は禍の元・・・後悔する王様は王妃様を口説く
ひとみん
恋愛
王命で王太子アルヴィンとの結婚が決まってしまった美しいフィオナ。
逃走すら許さない周囲の鉄壁の護りに諦めた彼女は、偶然王太子の会話を聞いてしまう。
「跡継ぎができれば離縁してもかまわないだろう」「互いの不貞でも理由にすればいい」
誰がこんな奴とやってけるかっ!と怒り炸裂のフィオナ。子供が出来たら即離婚を胸に王太子に言い放った。
「必要最低限の夫婦生活で済ませたいと思います」
だが一目見てフィオナに惚れてしまったアルヴィン。
妻が初恋で絶対に別れたくない夫と、こんなクズ夫とすぐに別れたい妻とのすれ違いラブストーリー。
ご都合主義満載です!
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
別に構いませんよ、離縁するので。
杉本凪咲
恋愛
父親から告げられたのは「出ていけ」という冷たい言葉。
他の家族もそれに賛同しているようで、どうやら私は捨てられてしまうらしい。
まあいいですけどね。私はこっそりと笑顔を浮かべた。
【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。
文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。
父王に一番愛される姫。
ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。
優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。
しかし、彼は居なくなった。
聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。
そして、二年後。
レティシアナは、大国の王の妻となっていた。
※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。
小説家になろうにも投稿しています。
エールありがとうございます!
私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?
新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。
※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる