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九章 呂充儀
18、共に歩む者
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知らぬ内とはいえ、眠っていたとはいえ。翠鈴は、光柳に膝枕されていた事実に、心臓がバクバクと音を立てた。
(なんで気がつかないのよ、わたし。きっと雲嵐さまがわたしの頭を持ちあげて、光柳さまの膝に載せたに違いないのに)
熟睡するにもほどがある。
皇帝陛下や呂充儀の件で疲れていたといっても、ちょっとは目を覚ましなさいよ。
自分自身に突っ込むが。よくよく考えれば、翠鈴はふだんから眠りが深い。
夜中に雷が鳴っても、目が覚めないのだ。由由のみならず、未央宮の皆さんが「雷、怖かったわよね」「落ちなくてよかったわ」「音がすごくて、朝まで目が冴えちゃって」と、あくびを噛み殺していても。
翠鈴だけは「え? 鳴ってましたっけ?」と尋ねる始末だ。そして呆れられるのも定番となっている。
そもそもすぐに眠りに落ちる特性がなければ、夜中の薬売りなどできはしない。
「ほら、もう一度寝てもいいぞ」
光柳が、自分の太ももの辺りを軽く手で叩く。
「いや、無理です。ご遠慮いたします」
「別に重くもないから、問題ない」
「問題は大ありです」
「そうかなぁ?」と光柳は首を傾げた。
どうやら今日も詩作のために、この花園を訪れたらしい。風に残る、朝の青さを確かめようとしているのだろうか。
「鳥の羽毛ほどの重さだな。心というのは」
「何かひらめきましたか?」
四阿の向かいの席に座る雲嵐が、静かに問いかける。
「今は心が軽い。だが、雨ほどではなくとも露に濡れたとしても、羽毛は重さを増してしまう。風に舞うことなく、地面に落ちてしまうよな」
光柳は、雲嵐と会話をすることによって、雲のようにほわほわと形のはっきりしない思考をまとめようと試みているようだ。
花ざかりの庭なので、また蝶が舞っているのが見えた。
まぶしい太陽と重なって、その姿が消えてしまう。翠鈴は目を細めた。
「呂充儀の侍女……南蕾だったな。正式に未央宮への異動が決まったぞ」
「早いですね」
現実的な話を始めたからだろうか。それまで逆光で輪郭がぼやけていた光柳だが、今はその姿が明瞭だ。
「蘭淑妃からの申し出で、陛下が即決なさった。もう誰もこの人事に口出しはできん」
「速さを重視なさるのは、すぐにでも南蕾さまを呂充儀さまから離さないと、文彗宮で虐めが始まるからですね」
「ああ。南蕾の実家には、蘭淑妃からの手紙を届けさせる。九嬪よりも位の高い四夫人から請われたのであれば、南蕾の両親も納得するだろう」
光柳の声は低い。
虐めは、誰にでも簡単に想像できることだからだろう。すでに文彗宮の侍女は、南蕾が暇を出されたことを知っている。
そこに主である呂充儀がいるのに。同僚である南蕾の味方になる者など、いるはずがない。
ただでさえ雑用や面倒なことを、南蕾に押しつけていた侍女たちだ。
未央宮で呂充儀を取りなさなかったことも。今後、残された者が厄介な主の面倒を見なければならないことも。南蕾が、蘭淑妃の侍女になるという事実も。
何もかもが、文彗宮の者の恨みを買う。
ほんの一日であっても、南蕾をそんな輩の中には置いておけない。
「ちゃんと頑張っている人が、認められるのはいいことです」
視線を感じて、翠鈴は顔をあげた。
隣に座る光柳に見つめられている。落ちついた琥珀の瞳だ。
「義兄にな、話をした」
いつものように「陛下」と言わなかった。だからこれは、家族としての話なのだと翠鈴は察した。
「私と雲嵐がいずれ後宮を出ることは、常々伝えている」
光柳はそこで話を切った。
四阿の近くに咲く花に、ミツバチが寄ってきたのだろう。ジジジ、という翅音が聞こえた。
それほどに、静かだった。
「翠鈴も一緒に連れていきたい。いや、連れていく。彼女の意思はすでに確認している。義兄にそう話したんだ」
「……なんと、おしゃっておいででしたか」
問いかける声がかすれる。翠鈴は口の渇きを覚えた。
どんなに未来を望もうとも。皇帝陛下のお気持ち次第だ。
しかも陛下は、義弟である光柳をことのほか大事になさっている。
どこの馬の骨とも知れぬ自分と一緒など。「身分を考えろ。この恥知らずが」と罵られてもおかしくはない。
「考えておこう、だそうだ」
ほんのわずかに、光柳の口角が上がる。
「それは……どういう」
「義兄も変わったものだ。以前なら、私が後宮を出ると言えば『無謀なことはやめておきなさい』『ここにいなさい』と、反対してばかりだったのにな」
前向きに考えておこう、の意味だ。
自分でも気づかぬうちに、体に力が入っていたのだろう。翠鈴は緊張が解けて、肩を落とした。
「あの木が見えるか?」
光柳が指さしたのは、緑濃い葉を茂らせた木だった。高さは翠鈴の身長の半分くらいだろうか。小さな蕾がついている。
「梔子だ。私と雲嵐が後宮に暮らすようになった時。義兄が記念にと植えてくれたのだ。最初は七寸ほどの小さな苗木だったのだが、今では毎年香り高い花を咲かせてくれる」
一重の梔子で、涼し気で端正な花だと光柳は教えてくれた。花が開けば、高貴な香りがするのだろう。光柳たちによく似合っていると翠鈴は思った。
「あの木ももう大きくなっているのに。義兄にとって、私と雲嵐はまだ子供のままなのだろうな。だが、共に未来を歩む翠鈴がいれば、安心なのかもしれない」
風が吹いた。
梔子の葉も、丈の高い草もまったくそよいでいないのに。
翠鈴の頬は、温かな南風を感じていた。
(なんで気がつかないのよ、わたし。きっと雲嵐さまがわたしの頭を持ちあげて、光柳さまの膝に載せたに違いないのに)
熟睡するにもほどがある。
皇帝陛下や呂充儀の件で疲れていたといっても、ちょっとは目を覚ましなさいよ。
自分自身に突っ込むが。よくよく考えれば、翠鈴はふだんから眠りが深い。
夜中に雷が鳴っても、目が覚めないのだ。由由のみならず、未央宮の皆さんが「雷、怖かったわよね」「落ちなくてよかったわ」「音がすごくて、朝まで目が冴えちゃって」と、あくびを噛み殺していても。
翠鈴だけは「え? 鳴ってましたっけ?」と尋ねる始末だ。そして呆れられるのも定番となっている。
そもそもすぐに眠りに落ちる特性がなければ、夜中の薬売りなどできはしない。
「ほら、もう一度寝てもいいぞ」
光柳が、自分の太ももの辺りを軽く手で叩く。
「いや、無理です。ご遠慮いたします」
「別に重くもないから、問題ない」
「問題は大ありです」
「そうかなぁ?」と光柳は首を傾げた。
どうやら今日も詩作のために、この花園を訪れたらしい。風に残る、朝の青さを確かめようとしているのだろうか。
「鳥の羽毛ほどの重さだな。心というのは」
「何かひらめきましたか?」
四阿の向かいの席に座る雲嵐が、静かに問いかける。
「今は心が軽い。だが、雨ほどではなくとも露に濡れたとしても、羽毛は重さを増してしまう。風に舞うことなく、地面に落ちてしまうよな」
光柳は、雲嵐と会話をすることによって、雲のようにほわほわと形のはっきりしない思考をまとめようと試みているようだ。
花ざかりの庭なので、また蝶が舞っているのが見えた。
まぶしい太陽と重なって、その姿が消えてしまう。翠鈴は目を細めた。
「呂充儀の侍女……南蕾だったな。正式に未央宮への異動が決まったぞ」
「早いですね」
現実的な話を始めたからだろうか。それまで逆光で輪郭がぼやけていた光柳だが、今はその姿が明瞭だ。
「蘭淑妃からの申し出で、陛下が即決なさった。もう誰もこの人事に口出しはできん」
「速さを重視なさるのは、すぐにでも南蕾さまを呂充儀さまから離さないと、文彗宮で虐めが始まるからですね」
「ああ。南蕾の実家には、蘭淑妃からの手紙を届けさせる。九嬪よりも位の高い四夫人から請われたのであれば、南蕾の両親も納得するだろう」
光柳の声は低い。
虐めは、誰にでも簡単に想像できることだからだろう。すでに文彗宮の侍女は、南蕾が暇を出されたことを知っている。
そこに主である呂充儀がいるのに。同僚である南蕾の味方になる者など、いるはずがない。
ただでさえ雑用や面倒なことを、南蕾に押しつけていた侍女たちだ。
未央宮で呂充儀を取りなさなかったことも。今後、残された者が厄介な主の面倒を見なければならないことも。南蕾が、蘭淑妃の侍女になるという事実も。
何もかもが、文彗宮の者の恨みを買う。
ほんの一日であっても、南蕾をそんな輩の中には置いておけない。
「ちゃんと頑張っている人が、認められるのはいいことです」
視線を感じて、翠鈴は顔をあげた。
隣に座る光柳に見つめられている。落ちついた琥珀の瞳だ。
「義兄にな、話をした」
いつものように「陛下」と言わなかった。だからこれは、家族としての話なのだと翠鈴は察した。
「私と雲嵐がいずれ後宮を出ることは、常々伝えている」
光柳はそこで話を切った。
四阿の近くに咲く花に、ミツバチが寄ってきたのだろう。ジジジ、という翅音が聞こえた。
それほどに、静かだった。
「翠鈴も一緒に連れていきたい。いや、連れていく。彼女の意思はすでに確認している。義兄にそう話したんだ」
「……なんと、おしゃっておいででしたか」
問いかける声がかすれる。翠鈴は口の渇きを覚えた。
どんなに未来を望もうとも。皇帝陛下のお気持ち次第だ。
しかも陛下は、義弟である光柳をことのほか大事になさっている。
どこの馬の骨とも知れぬ自分と一緒など。「身分を考えろ。この恥知らずが」と罵られてもおかしくはない。
「考えておこう、だそうだ」
ほんのわずかに、光柳の口角が上がる。
「それは……どういう」
「義兄も変わったものだ。以前なら、私が後宮を出ると言えば『無謀なことはやめておきなさい』『ここにいなさい』と、反対してばかりだったのにな」
前向きに考えておこう、の意味だ。
自分でも気づかぬうちに、体に力が入っていたのだろう。翠鈴は緊張が解けて、肩を落とした。
「あの木が見えるか?」
光柳が指さしたのは、緑濃い葉を茂らせた木だった。高さは翠鈴の身長の半分くらいだろうか。小さな蕾がついている。
「梔子だ。私と雲嵐が後宮に暮らすようになった時。義兄が記念にと植えてくれたのだ。最初は七寸ほどの小さな苗木だったのだが、今では毎年香り高い花を咲かせてくれる」
一重の梔子で、涼し気で端正な花だと光柳は教えてくれた。花が開けば、高貴な香りがするのだろう。光柳たちによく似合っていると翠鈴は思った。
「あの木ももう大きくなっているのに。義兄にとって、私と雲嵐はまだ子供のままなのだろうな。だが、共に未来を歩む翠鈴がいれば、安心なのかもしれない」
風が吹いた。
梔子の葉も、丈の高い草もまったくそよいでいないのに。
翠鈴の頬は、温かな南風を感じていた。
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