166 / 173
九章 呂充儀
17、花園で
しおりを挟む
春は夜明けが早い。宮女の宿舎の窗からも、容赦なく明るい光が射しこんでくる。
「まぶしい……」
瞼を閉じていても、視界が橙色で満たされる。
休日の翠鈴は、布団を上げて顔を隠した。すでに仕事を終えた由由が、部屋へ戻ってくる。
「もー、翠鈴ったら。休みだからって寝坊なんだから」
「ゆるして……昨日はさすがに、限界を超えたわ」
「あぁ、大変だったみたいね。でもすごいじゃない。陛下にお言葉をかけていただいたんでしょ。畏れ多いけど、一生に一度はそんな経験をしてみたいわぁ」
布団の隙間から翠鈴が覗くと、由由は目をきらきらと輝かせている。
「思い出したくない」
このまま布団とお友だちでいたい。外の世界は大変だし厳しいのだから。翠鈴は心からそう願った。
「そういえば呂充儀さま。まだ夜が明けきらぬうちに、文彗宮に帰ったわよ」
「そうなの?」
由由の報告があまりにも意外で。翠鈴は、布団をばさりとはねのけた。
「そんな暗いうちにお戻りになったの?」
「うん。見たことのない侍女が迎えにきてた。蘭淑妃はまだ眠ってらっしゃる時間だったから。別な日に、ご挨拶に来るのかなぁ」
「さぁ、どうかしら」
自分でも気づかぬうちに、翠鈴は棘のある声を発していた。
夜明け前を選んだのなら、誰にも見られぬようにだ。蘭淑妃への感謝の心があるならば、呂充儀は出立前に挨拶をしただろう。
「たぶん日を改めて、侍女頭が礼を述べに来ると思うわ」
起きてしまったものはしょうがない。翠鈴は寝台から立ち上がって、寝衣を脱いだ。
よく晴れているからだろうか。まだ日の昇らない早朝は、素肌に感じる空気がひんやりとしている。
朝食を終えた翠鈴は、後宮の奥にある花園へと向かった。
どうしてだろう。光柳と雲嵐がいるような気がしたのだ。会いたい、といった方がいいかもしれない。
花園では、すでに花海棠は散っていた。
うすくれないの世界は、今は失われ。午前の澄んだ陽射しが、若葉の緑を透かしている。
「約束してるわけでもないし。そもそも今日がお休みってわけでもないだろうし」
翠鈴の独り言に、鳥のさえずりが重なった。
朱色の柱の四阿に入り、座席に腰を下ろす。
この四阿にひとりきりで座るのは初めてかもしれない。
隣にいてほしい人は、今は仕事中だ。待っていても来るわけではない。
「ま、こんな時もあるよね」
これまでなら、休みがあればせっせと薬効のある草を集めていた。今も未央宮の庭の端では白三葉草が咲いている。煎じた液を、切れちゃった痔の出血に塗ると効くのだ。
復讐を終えて。お金とお茶で興味が占められていた自分の頭に、他のものが入りこんできて。それがどんどん大きくなって。
四阿の外を、白い蝶がふわふわと飛んでいる。
自分の体を蝶に乗せることができたなら。きっと書令史の部屋の前へと行くのだろう。
これまでの疲れが出たのだろうか。翠鈴は瞼が重くなってきた。
(そういえば、光柳さまと雲嵐さまが浜辺で野宿したことがあるっておっしゃってたっけ)
昼間だから、ちょっとくらい外で寝ても大丈夫かな。こんな奥まった花園には、めったに人も来ないし……。
思考がまばらになり、翠鈴は眠りに沈んでいった。
短い夢が泡のように浮かんでは、行方不明になる。
墨汁の香りがした。
まず気づいたのは匂いだった。次に音。さらさらと筆が走っている。そしてぬくもり。
(え? なに?)
翠鈴はがばっと上体を起こした。
「うわっ。急にどうした。危ないぞ」
「光柳さま、筆を落とさぬように」
目の前に光柳と雲嵐がいる。状況が理解できずに、翠鈴は瞬きをくり返した。
「え……っと、どういうことでしょうか」
「君の膝ほどには柔らかくはないが。固い枕よりはマシだと思うぞ」
「はい?」
これ以上は聞かない方がいいような気がする。けれど、ぴったりと膝をそろえて座っている光柳の体勢が、妙に気になるのも事実だ。
「この間、膝枕をしてくれただろう? そのお返しだ」
「それってつまり」
だから訊いちゃダメなんだって。翠鈴は自分に突っ込むが、もう遅い。
「私の膝は、寝心地がよかろう?」
笑顔の光柳が逆光になる。淡い影に沈んでいるのが幸いした。はっきりと日光に照らされていたら。きっと翠鈴の目は神々しさにやられていたかもしれない。
「まぶしい……」
瞼を閉じていても、視界が橙色で満たされる。
休日の翠鈴は、布団を上げて顔を隠した。すでに仕事を終えた由由が、部屋へ戻ってくる。
「もー、翠鈴ったら。休みだからって寝坊なんだから」
「ゆるして……昨日はさすがに、限界を超えたわ」
「あぁ、大変だったみたいね。でもすごいじゃない。陛下にお言葉をかけていただいたんでしょ。畏れ多いけど、一生に一度はそんな経験をしてみたいわぁ」
布団の隙間から翠鈴が覗くと、由由は目をきらきらと輝かせている。
「思い出したくない」
このまま布団とお友だちでいたい。外の世界は大変だし厳しいのだから。翠鈴は心からそう願った。
「そういえば呂充儀さま。まだ夜が明けきらぬうちに、文彗宮に帰ったわよ」
「そうなの?」
由由の報告があまりにも意外で。翠鈴は、布団をばさりとはねのけた。
「そんな暗いうちにお戻りになったの?」
「うん。見たことのない侍女が迎えにきてた。蘭淑妃はまだ眠ってらっしゃる時間だったから。別な日に、ご挨拶に来るのかなぁ」
「さぁ、どうかしら」
自分でも気づかぬうちに、翠鈴は棘のある声を発していた。
夜明け前を選んだのなら、誰にも見られぬようにだ。蘭淑妃への感謝の心があるならば、呂充儀は出立前に挨拶をしただろう。
「たぶん日を改めて、侍女頭が礼を述べに来ると思うわ」
起きてしまったものはしょうがない。翠鈴は寝台から立ち上がって、寝衣を脱いだ。
よく晴れているからだろうか。まだ日の昇らない早朝は、素肌に感じる空気がひんやりとしている。
朝食を終えた翠鈴は、後宮の奥にある花園へと向かった。
どうしてだろう。光柳と雲嵐がいるような気がしたのだ。会いたい、といった方がいいかもしれない。
花園では、すでに花海棠は散っていた。
うすくれないの世界は、今は失われ。午前の澄んだ陽射しが、若葉の緑を透かしている。
「約束してるわけでもないし。そもそも今日がお休みってわけでもないだろうし」
翠鈴の独り言に、鳥のさえずりが重なった。
朱色の柱の四阿に入り、座席に腰を下ろす。
この四阿にひとりきりで座るのは初めてかもしれない。
隣にいてほしい人は、今は仕事中だ。待っていても来るわけではない。
「ま、こんな時もあるよね」
これまでなら、休みがあればせっせと薬効のある草を集めていた。今も未央宮の庭の端では白三葉草が咲いている。煎じた液を、切れちゃった痔の出血に塗ると効くのだ。
復讐を終えて。お金とお茶で興味が占められていた自分の頭に、他のものが入りこんできて。それがどんどん大きくなって。
四阿の外を、白い蝶がふわふわと飛んでいる。
自分の体を蝶に乗せることができたなら。きっと書令史の部屋の前へと行くのだろう。
これまでの疲れが出たのだろうか。翠鈴は瞼が重くなってきた。
(そういえば、光柳さまと雲嵐さまが浜辺で野宿したことがあるっておっしゃってたっけ)
昼間だから、ちょっとくらい外で寝ても大丈夫かな。こんな奥まった花園には、めったに人も来ないし……。
思考がまばらになり、翠鈴は眠りに沈んでいった。
短い夢が泡のように浮かんでは、行方不明になる。
墨汁の香りがした。
まず気づいたのは匂いだった。次に音。さらさらと筆が走っている。そしてぬくもり。
(え? なに?)
翠鈴はがばっと上体を起こした。
「うわっ。急にどうした。危ないぞ」
「光柳さま、筆を落とさぬように」
目の前に光柳と雲嵐がいる。状況が理解できずに、翠鈴は瞬きをくり返した。
「え……っと、どういうことでしょうか」
「君の膝ほどには柔らかくはないが。固い枕よりはマシだと思うぞ」
「はい?」
これ以上は聞かない方がいいような気がする。けれど、ぴったりと膝をそろえて座っている光柳の体勢が、妙に気になるのも事実だ。
「この間、膝枕をしてくれただろう? そのお返しだ」
「それってつまり」
だから訊いちゃダメなんだって。翠鈴は自分に突っ込むが、もう遅い。
「私の膝は、寝心地がよかろう?」
笑顔の光柳が逆光になる。淡い影に沈んでいるのが幸いした。はっきりと日光に照らされていたら。きっと翠鈴の目は神々しさにやられていたかもしれない。
122
お気に入りに追加
704
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?
朱音ゆうひ
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!
「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」
王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。
不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。
もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた?
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる