後宮の隠れ薬師は、ため息をつく~花果根茎に毒は有り~

絹乃

文字の大きさ
上 下
166 / 184
九章 呂充儀

17、花園で

しおりを挟む
 春は夜明けが早い。宮女の宿舎のまどからも、容赦なく明るい光が射しこんでくる。

「まぶしい……」

 瞼を閉じていても、視界が橙色で満たされる。
 休日の翠鈴は、布団を上げて顔を隠した。すでに仕事を終えた由由ヨウヨウが、部屋へ戻ってくる。

「もー、翠鈴ったら。休みだからって寝坊なんだから」
「ゆるして……昨日はさすがに、限界を超えたわ」
「あぁ、大変だったみたいね。でもすごいじゃない。陛下にお言葉をかけていただいたんでしょ。畏れ多いけど、一生に一度はそんな経験をしてみたいわぁ」

 布団の隙間から翠鈴が覗くと、由由は目をきらきらと輝かせている。

「思い出したくない」

 このまま布団とお友だちでいたい。外の世界は大変だし厳しいのだから。翠鈴は心からそう願った。

「そういえば呂充儀ルーじゅうぎさま。まだ夜が明けきらぬうちに、文彗宮ぶんけいきゅうに帰ったわよ」
「そうなの?」

 由由の報告があまりにも意外で。翠鈴は、布団をばさりとはねのけた。

「そんな暗いうちにお戻りになったの?」
「うん。見たことのない侍女が迎えにきてた。蘭淑妃はまだ眠ってらっしゃる時間だったから。別な日に、ご挨拶に来るのかなぁ」
「さぁ、どうかしら」

 自分でも気づかぬうちに、翠鈴は棘のある声を発していた。
 夜明け前を選んだのなら、誰にも見られぬようにだ。蘭淑妃への感謝の心があるならば、呂充儀は出立前に挨拶をしただろう。

「たぶん日を改めて、侍女頭が礼を述べに来ると思うわ」

 起きてしまったものはしょうがない。翠鈴は寝台から立ち上がって、寝衣を脱いだ。
 よく晴れているからだろうか。まだ日の昇らない早朝は、素肌に感じる空気がひんやりとしている。

 朝食を終えた翠鈴は、後宮の奥にある花園かえんへと向かった。
 どうしてだろう。光柳と雲嵐がいるような気がしたのだ。会いたい、といった方がいいかもしれない。
 花園では、すでに花海棠はなかいどうは散っていた。
 うすくれないの世界は、今は失われ。午前の澄んだ陽射しが、若葉の緑を透かしている。

「約束してるわけでもないし。そもそも今日がお休みってわけでもないだろうし」

 翠鈴の独り言に、鳥のさえずりが重なった。
 朱色の柱の四阿あずまやに入り、座席に腰を下ろす。
 この四阿にひとりきりで座るのは初めてかもしれない。
 隣にいてほしい人は、今は仕事中だ。待っていても来るわけではない。

「ま、こんな時もあるよね」

 これまでなら、休みがあればせっせと薬効のある草を集めていた。今も未央宮びおうきゅうの庭の端では白三葉草シロツメクサが咲いている。煎じた液を、切れちゃった痔の出血に塗ると効くのだ。
 復讐を終えて。お金とお茶で興味が占められていた自分の頭に、他のものが入りこんできて。それがどんどん大きくなって。

 四阿の外を、白い蝶がふわふわと飛んでいる。
 自分の体を蝶に乗せることができたなら。きっと書令史の部屋の前へと行くのだろう。
 これまでの疲れが出たのだろうか。翠鈴は瞼が重くなってきた。

(そういえば、光柳さまと雲嵐さまが浜辺で野宿したことがあるっておっしゃってたっけ)

 昼間だから、ちょっとくらい外で寝ても大丈夫かな。こんな奥まった花園には、めったに人も来ないし……。
 思考がまばらになり、翠鈴は眠りに沈んでいった。
 短い夢が泡のように浮かんでは、行方不明になる。

 墨汁の香りがした。
 まず気づいたのは匂いだった。次に音。さらさらと筆が走っている。そしてぬくもり。

(え? なに?)

 翠鈴はがばっと上体を起こした。

「うわっ。急にどうした。危ないぞ」
「光柳さま、筆を落とさぬように」

 目の前に光柳と雲嵐がいる。状況が理解できずに、翠鈴は瞬きをくり返した。

「え……っと、どういうことでしょうか」
「君の膝ほどには柔らかくはないが。固い枕よりはマシだと思うぞ」
「はい?」

 これ以上は聞かない方がいいような気がする。けれど、ぴったりと膝をそろえて座っている光柳の体勢が、妙に気になるのも事実だ。

「この間、膝枕をしてくれただろう? そのお返しだ」
「それってつまり」

 だから訊いちゃダメなんだって。翠鈴は自分に突っ込むが、もう遅い。

「私の膝は、寝心地がよかろう?」

 笑顔の光柳が逆光になる。淡い影に沈んでいるのが幸いした。はっきりと日光に照らされていたら。きっと翠鈴の目は神々しさにやられていたかもしれない。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の隠し子を見付けたので、溺愛してみた。

辺野夏子
恋愛
セファイア王国王女アリエノールは八歳の時、王命を受けエメレット伯爵家に嫁いだ。それから十年、ずっと仮面夫婦のままだ。アリエノールは先天性の病のため、残りの寿命はあとわずか。日々を穏やかに過ごしているけれど、このままでは生きた証がないまま短い命を散らしてしまう。そんなある日、アリエノールの元に一人の子供が現れた。夫であるカシウスに生き写しな見た目の子供は「この家の子供になりにきた」と宣言する。これは夫の隠し子に間違いないと、アリエノールは継母としてその子を育てることにするのだが……堅物で不器用な夫と、余命わずかで卑屈になっていた妻がお互いの真実に気が付くまでの話。

お前など家族ではない!と叩き出されましたが、家族になってくれという奇特な騎士に拾われました

蒼衣翼
恋愛
アイメリアは今年十五歳になる少女だ。 家族に虐げられて召使いのように働かされて育ったアイメリアは、ある日突然、父親であった存在に「お前など家族ではない!」と追い出されてしまう。 アイメリアは養子であり、家族とは血の繋がりはなかったのだ。 閉じ込められたまま外を知らずに育ったアイメリアは窮地に陥るが、救ってくれた騎士の身の回りの世話をする仕事を得る。 養父母と義姉が自らの企みによって窮地に陥り、落ちぶれていく一方で、アイメリアはその秘められた才能を開花させ、救い主の騎士と心を通わせ、自らの居場所を作っていくのだった。 ※小説家になろうさま・カクヨムさまにも掲載しています。

大好きだった旦那様に離縁され家を追い出されましたが、騎士団長様に拾われ溺愛されました

Karamimi
恋愛
2年前に両親を亡くしたスカーレットは、1年前幼馴染で3つ年上のデビッドと結婚した。両親が亡くなった時もずっと寄り添ってくれていたデビッドの為に、毎日家事や仕事をこなすスカーレット。 そんな中迎えた結婚1年記念の日。この日はデビッドの為に、沢山のご馳走を作って待っていた。そしていつもの様に帰ってくるデビッド。でもデビッドの隣には、美しい女性の姿が。 「俺は彼女の事を心から愛している。悪いがスカーレット、どうか俺と離縁して欲しい。そして今すぐ、この家から出て行ってくれるか?」 そうスカーレットに言い放ったのだ。何とか考え直して欲しいと訴えたが、全く聞く耳を持たないデビッド。それどころか、スカーレットに数々の暴言を吐き、ついにはスカーレットの荷物と共に、彼女を追い出してしまった。 荷物を持ち、泣きながら街を歩くスカーレットに声をかけて来たのは、この街の騎士団長だ。一旦騎士団長の家に保護してもらったスカーレットは、さっき起こった出来事を騎士団長に話した。 「なんてひどい男だ!とにかく落ち着くまで、ここにいるといい」 行く当てもないスカーレットは結局騎士団長の家にお世話になる事に ※他サイトにも投稿しています よろしくお願いします

玉の輿を狙う妹から「邪魔しないで!」と言われているので学業に没頭していたら、王子から求婚されました

歌龍吟伶
恋愛
王立学園四年生のリーリャには、一学年下の妹アーシャがいる。 昔から王子様との結婚を夢見ていたアーシャは自分磨きに余念がない可愛いらしい娘で、六年生である第一王子リュカリウスを狙っているらしい。 入学当時から、「私が王子と結婚するんだからね!お姉ちゃんは邪魔しないで!」と言われていたリーリャは学業に専念していた。 その甲斐あってか学年首位となったある日。 「君のことが好きだから」…まさかの告白!

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。

ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。 ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。 対面した婚約者は、 「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」 ……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。 「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」 今の私はあなたを愛していません。 気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。 ☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。 ☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

契約婚なのだから契約を守るべきでしたわ、旦那様。

よもぎ
恋愛
白い結婚を三年間。その他いくつかの決まり事。アンネリーナはその条件を呑み、三年を過ごした。そうして結婚が終わるその日になって三年振りに会った戸籍上の夫に離縁を切り出されたアンネリーナは言う。追加の慰謝料を頂きます――

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...