165 / 173
九章 呂充儀
16、蘭淑妃の提案
しおりを挟む
今後のこと、と四夫人である淑妃から告げられて南蕾の顔色が悪くなった。
さっき浮かべた笑みは、そのまま強ばってしまっている。
まるで今すぐに、山の崖から飛び降りなければならないかのように。
「怖がらなくていいのよ。これはわたくしの提案ですから、辞退してくださってもいいの」
敷物の上に座る蘭淑妃の背後に控えて、梅娜がうなずく。
翠鈴は、この先の話の内容を察した。
だが、南蕾は混乱しているようだ。無理もない。当たり前に続く呂充儀の侍女としての道が、突然断たれたのだから。
「南蕾さん。あなたには、ここに来てもらいたいの」
「え?」
南蕾は、ぽかんとした表情を浮かべた。蘭淑妃の意味する内容が、頭の中に入っていかないようだ。
耳が語句を拾っても、脳が意味を汲みとれない。
「そうね。はっきり言いましょう。この先は、わたくしの侍女として働いてほしいわ」
短い悲鳴を、南蕾は発した。
「無理です。とんでもないことです」
「どうして? 悪い話ではないはずよ。今日これから文彗宮に戻っても、あなたに居場所はないわ。呂充儀は他の侍女を巻きこんで、あなたを悪者に仕立てあげるでしょうね」
蘭淑妃はため息をつく。
「淑妃さまの言葉に従った方がいい。残念だが、人というのは共通の敵を見つけると強固に結束する。それは虐めという形で現れるんだ。しかも虐める側には大義名分がある。そして敵を攻撃すればするほど、楽しみを感じるものなんだよ」
光柳の発言は重い。
確かに、呂充儀が流産せぬようにと翠鈴は丁子のお茶を止めた。相手の体調を考えてのことだったが。それすらも、呂充儀は憎んだのだ。
「侍女の異動など聞かぬが。あちらは確かに解雇を告げた。ここにいる何人もが聞いている。ならば、後はあなたがどこへいこうが、呂充儀に口を挟む権利はない」
「ですが。私なんて。淑妃さまにはご迷惑ばかりおかけしているのに」
南蕾は狼狽して、声がかすれている。今にも逃げ出したそうに、体が後退した。敷物が少しずれる。
きっとこれまで南蕾は、呂充儀や侍女頭からちゃんと認められたことがないのだろう。
誰よりも立ち働き、主のために動いていたのに。
蘭淑妃が身を乗りだした。そして、脅える南蕾の手を、そっと握る。
「迷惑をかけられたのは、呂充儀によ。あなたにではないわ」
春の風のように、穏やかな声音だ。蘭淑妃はただ事実を述べているだけなのに。南蕾にとっては、この上ない理解を示してくれている。
「わたくしは、あなたの頑張りを見ていました。文彗宮の他の侍女は、この未央宮に顔を出すこともありませんでしたね。きっと要領がいいのね」
その「要領がいい」は褒め言葉じゃないですよね。そう言いたいのを、翠鈴は堪えた。
「でももうあなたは呂充儀の侍女ではありません。彼女が文彗宮へ戻るなら、準備は他の侍女がしなければならない。すべてあなたに押しつけていた仕事を、他の侍女たちがするのよ」
「あ……っ」
言葉の代わりに、南蕾の瞳に涙が浮かんだ。
これまできっと、いいように使われていたのだろう。
「すみません。泣いてばかりで」
「いいのよ。きっと文彗宮では、こうして涙を見せることもできずに、物陰で泣いていたのでしょう?」
蘭淑妃の指摘は、どうやら当たっていたらしい。南蕾は無言でうなずいた。
母にくっついていた桃莉公主が、じーっと南蕾を見つめていた。そして恐る恐るといった風に口を開いた。
「あのね、なかないで。これ、あげる」
敷物の中央に置かれた器を、桃莉は両手で持ちあげる。
「さくさくだよ。おいしいの」
器の中には、小さな酥が入っている。
「たべたら、げんきになるよ」
ふだんは泥だらけの桃莉であるが。接することのない南蕾からすれば、雲の上の存在だ。
さすがに断ることはできなかったようだ。南蕾は「いただきます」と、控えめな声で伝えてから酥をひとつ手にした。
「おいしい?」
「はい、とても」
「げんき、でた?」
「はい。ものすごく元気になりました」
「よかったぁ」と桃莉は満面の笑みを輝かせる。南蕾は、ぼろぼろと涙をこぼしながら、やはりつられて笑顔になった。
「私は……誰よりも一生懸命に働けば、幸せになれるものだと思っていました」
「ふつうはそうね」
蘭淑妃は碗を手にとった。少し冷めた五色茶を飲み干して、梅娜におかわりを注いでもらう。
「わたくしはよその宮のことは、詳しくはありません。皇后娘娘のいらっしゃる寿華宮は、お邪魔させていただくことがあるので。まだ分かるのですけれど」
「侍女がどんなに頑張っても、懸命さを認めてくれる妃嬪ばかりではないのね」と、淑妃は寂しそうに微笑んだ。
侍女には、仕える主にふさわしい品格が求められるが。主たる妃嬪にこそ、気高さや心の広さ、優しさが必要だ。
そしてそれらの美徳は、生まれながらに備わっているものではない。
さっき浮かべた笑みは、そのまま強ばってしまっている。
まるで今すぐに、山の崖から飛び降りなければならないかのように。
「怖がらなくていいのよ。これはわたくしの提案ですから、辞退してくださってもいいの」
敷物の上に座る蘭淑妃の背後に控えて、梅娜がうなずく。
翠鈴は、この先の話の内容を察した。
だが、南蕾は混乱しているようだ。無理もない。当たり前に続く呂充儀の侍女としての道が、突然断たれたのだから。
「南蕾さん。あなたには、ここに来てもらいたいの」
「え?」
南蕾は、ぽかんとした表情を浮かべた。蘭淑妃の意味する内容が、頭の中に入っていかないようだ。
耳が語句を拾っても、脳が意味を汲みとれない。
「そうね。はっきり言いましょう。この先は、わたくしの侍女として働いてほしいわ」
短い悲鳴を、南蕾は発した。
「無理です。とんでもないことです」
「どうして? 悪い話ではないはずよ。今日これから文彗宮に戻っても、あなたに居場所はないわ。呂充儀は他の侍女を巻きこんで、あなたを悪者に仕立てあげるでしょうね」
蘭淑妃はため息をつく。
「淑妃さまの言葉に従った方がいい。残念だが、人というのは共通の敵を見つけると強固に結束する。それは虐めという形で現れるんだ。しかも虐める側には大義名分がある。そして敵を攻撃すればするほど、楽しみを感じるものなんだよ」
光柳の発言は重い。
確かに、呂充儀が流産せぬようにと翠鈴は丁子のお茶を止めた。相手の体調を考えてのことだったが。それすらも、呂充儀は憎んだのだ。
「侍女の異動など聞かぬが。あちらは確かに解雇を告げた。ここにいる何人もが聞いている。ならば、後はあなたがどこへいこうが、呂充儀に口を挟む権利はない」
「ですが。私なんて。淑妃さまにはご迷惑ばかりおかけしているのに」
南蕾は狼狽して、声がかすれている。今にも逃げ出したそうに、体が後退した。敷物が少しずれる。
きっとこれまで南蕾は、呂充儀や侍女頭からちゃんと認められたことがないのだろう。
誰よりも立ち働き、主のために動いていたのに。
蘭淑妃が身を乗りだした。そして、脅える南蕾の手を、そっと握る。
「迷惑をかけられたのは、呂充儀によ。あなたにではないわ」
春の風のように、穏やかな声音だ。蘭淑妃はただ事実を述べているだけなのに。南蕾にとっては、この上ない理解を示してくれている。
「わたくしは、あなたの頑張りを見ていました。文彗宮の他の侍女は、この未央宮に顔を出すこともありませんでしたね。きっと要領がいいのね」
その「要領がいい」は褒め言葉じゃないですよね。そう言いたいのを、翠鈴は堪えた。
「でももうあなたは呂充儀の侍女ではありません。彼女が文彗宮へ戻るなら、準備は他の侍女がしなければならない。すべてあなたに押しつけていた仕事を、他の侍女たちがするのよ」
「あ……っ」
言葉の代わりに、南蕾の瞳に涙が浮かんだ。
これまできっと、いいように使われていたのだろう。
「すみません。泣いてばかりで」
「いいのよ。きっと文彗宮では、こうして涙を見せることもできずに、物陰で泣いていたのでしょう?」
蘭淑妃の指摘は、どうやら当たっていたらしい。南蕾は無言でうなずいた。
母にくっついていた桃莉公主が、じーっと南蕾を見つめていた。そして恐る恐るといった風に口を開いた。
「あのね、なかないで。これ、あげる」
敷物の中央に置かれた器を、桃莉は両手で持ちあげる。
「さくさくだよ。おいしいの」
器の中には、小さな酥が入っている。
「たべたら、げんきになるよ」
ふだんは泥だらけの桃莉であるが。接することのない南蕾からすれば、雲の上の存在だ。
さすがに断ることはできなかったようだ。南蕾は「いただきます」と、控えめな声で伝えてから酥をひとつ手にした。
「おいしい?」
「はい、とても」
「げんき、でた?」
「はい。ものすごく元気になりました」
「よかったぁ」と桃莉は満面の笑みを輝かせる。南蕾は、ぼろぼろと涙をこぼしながら、やはりつられて笑顔になった。
「私は……誰よりも一生懸命に働けば、幸せになれるものだと思っていました」
「ふつうはそうね」
蘭淑妃は碗を手にとった。少し冷めた五色茶を飲み干して、梅娜におかわりを注いでもらう。
「わたくしはよその宮のことは、詳しくはありません。皇后娘娘のいらっしゃる寿華宮は、お邪魔させていただくことがあるので。まだ分かるのですけれど」
「侍女がどんなに頑張っても、懸命さを認めてくれる妃嬪ばかりではないのね」と、淑妃は寂しそうに微笑んだ。
侍女には、仕える主にふさわしい品格が求められるが。主たる妃嬪にこそ、気高さや心の広さ、優しさが必要だ。
そしてそれらの美徳は、生まれながらに備わっているものではない。
114
お気に入りに追加
704
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?
朱音ゆうひ
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!
「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」
王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。
不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。
もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた?
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる