164 / 182
九章 呂充儀
15、休憩
しおりを挟む
通された部屋では、床に敷物が敷いてあった。すでに軟墊も置いてある。
椅子に座る未央宮とは思えぬ情景だ。
開いた窗の外は見慣れた庭であり、木々もふだんと変わりはないが。
まるで棕櫚や芭蕉の大きな葉に、光が降りそそいでいるような錯覚を起こす。
こんな光景は見たことはない。なのに知っている。どこでだっただろう? 翠鈴は考えた。
「南の離宮では、椅子よりも床に座る方が落ち着くんですって。そうよね?」
蘭淑妃が、光柳に問いかける。
(ああ、光柳さまが離宮での思い出話をしてくださったから。それで覚えがあるんだ)
不思議なものだ。離宮の床での暮らしを、翠鈴は目にしたことはないのに。脳内では、しっかりとした景色として成り立っている。
「私も小さい頃は、天幕で暮らしていましたから。床に座るのに慣れています」
雲嵐の言葉に、光柳がうなずく。
「私も天幕で寝てみたいと思ってな。離宮にいた頃に真似をしてみた」
「離宮には、天幕があるんですか?」
「残念ながらなかったな。だから仕方なく、四隅に棒を立ててだな。天井部分に布を張って、それを天幕とした」
光柳と雲嵐は、砂浜まで出て棒を立てたらしい。
母親である麟美や侍女は「せめて離宮の庭で」と説得を試みたそうだが。まぁ、聞かないよね、と翠鈴は納得した。
「雲嵐から、草原で見る星空の話を聞いていたからだろうな。遮るもののない夜空は圧巻だそうだからな」
「星が多すぎて、光柳さまは気分が悪くなったんですよ」
お茶を給仕してくれた梅娜に、光柳と雲嵐は礼を告げた。
翠鈴の実家は山のふもとだ。そのせいで空は狭い。天の川の端は収束して山の頂へと届いているが。気分が悪くなるほどの星の多さは経験がない。
「星宿はむしろ、杷京くらいの明るさがあった方が見分けがつくな。それぞれの宮で灯籠がついているから、暗い星が紛れてしまうんだ」
「子供だけで夜を海で過ごすなど認められませんから。離宮の使用人たちも、朝まで簡易な天幕で寝ることになって。私は申し訳なかったですよ」
「何を言う、雲嵐。子供は好奇心あってこそ、だ」
まぁ、懐かしくはありましたよ。と、雲嵐は苦笑した。その笑みはとても柔和だ。
翠鈴は海を見たことはない。おそらくは桃莉公主も、ここにいる梅娜も南蕾も。
海に入らずとも、潮風で髪も肌もべたべたになることも。夜は波音が大きく聞こえることも。潮の香りは、海藻の匂いであることも。
波打ち際で濡れた足で浜辺を歩くと、足の裏も足の甲もびっしりと砂がついて、払ってもとれないことも。
知らぬことを教えてくれる光柳の話は新鮮で。
きっと疲れた皆を、くつろがせるために他愛のない話をしてくれているのだろうと、翠鈴は感じた。
「光柳さまは、波打ち際で海藻が足に絡みついて、泣いたことがおありなんですよ」
「あ、ずるいぞ。雲嵐。お前の恥ずかしい過去も明かしてやる」
光柳は、琥珀色の飴である松仁糖をつまんだ。
「タオリィも、あめたべたい」
「はいはい、仰せのままに。噛んではいけませんよ」
桃莉に松仁糖を与えながら、光柳が注意する。きっと過去に、硬い飴を噛んで痛い目に遭ったことがあるのだろう。
「私は確かに、びらびらした海藻で泣いたが。雲嵐は、巻貝だと思って拾ったら、中からヤドカリが出てきて泣いたじゃないか」
「覚えておりませんね」
雲嵐は、梅娜が給仕してくれたお茶を飲んでいる。
もう誰も、呂充儀の話をしない。彼女はまだ未央宮にいるというのに。
べったりと粘つくような充儀の存在が、今はもうこんなにも軽い。
蘭淑妃と光柳の心遣いが、気持ちを切り替えさせてくれた。
「おいしいお茶ですね。梅娜さま」
お茶をひとくち飲んだ翠鈴は、目を輝かせた。
「五色茶よ」
体までが清浄になりそうな。そして仄かに蜂蜜に似た甘さもある。そのことを告げると、蘭淑妃がうなずいた。
「そう。五色茶の冬茶は、蜂蜜の香りがするのよ」
不思議だ。蜂蜜を用いているわけでもないのに。芳香だけで、甘さすら感じるような気がする。
「本当においしいですね」
ようやく落ち着いたのか、南蕾が笑顔を浮かべた。
蘭淑妃は、隣に座った桃莉の頭を撫でながら、南蕾に向きなおった。
「今後のことを決めましょう。南蕾さん」
椅子に座る未央宮とは思えぬ情景だ。
開いた窗の外は見慣れた庭であり、木々もふだんと変わりはないが。
まるで棕櫚や芭蕉の大きな葉に、光が降りそそいでいるような錯覚を起こす。
こんな光景は見たことはない。なのに知っている。どこでだっただろう? 翠鈴は考えた。
「南の離宮では、椅子よりも床に座る方が落ち着くんですって。そうよね?」
蘭淑妃が、光柳に問いかける。
(ああ、光柳さまが離宮での思い出話をしてくださったから。それで覚えがあるんだ)
不思議なものだ。離宮の床での暮らしを、翠鈴は目にしたことはないのに。脳内では、しっかりとした景色として成り立っている。
「私も小さい頃は、天幕で暮らしていましたから。床に座るのに慣れています」
雲嵐の言葉に、光柳がうなずく。
「私も天幕で寝てみたいと思ってな。離宮にいた頃に真似をしてみた」
「離宮には、天幕があるんですか?」
「残念ながらなかったな。だから仕方なく、四隅に棒を立ててだな。天井部分に布を張って、それを天幕とした」
光柳と雲嵐は、砂浜まで出て棒を立てたらしい。
母親である麟美や侍女は「せめて離宮の庭で」と説得を試みたそうだが。まぁ、聞かないよね、と翠鈴は納得した。
「雲嵐から、草原で見る星空の話を聞いていたからだろうな。遮るもののない夜空は圧巻だそうだからな」
「星が多すぎて、光柳さまは気分が悪くなったんですよ」
お茶を給仕してくれた梅娜に、光柳と雲嵐は礼を告げた。
翠鈴の実家は山のふもとだ。そのせいで空は狭い。天の川の端は収束して山の頂へと届いているが。気分が悪くなるほどの星の多さは経験がない。
「星宿はむしろ、杷京くらいの明るさがあった方が見分けがつくな。それぞれの宮で灯籠がついているから、暗い星が紛れてしまうんだ」
「子供だけで夜を海で過ごすなど認められませんから。離宮の使用人たちも、朝まで簡易な天幕で寝ることになって。私は申し訳なかったですよ」
「何を言う、雲嵐。子供は好奇心あってこそ、だ」
まぁ、懐かしくはありましたよ。と、雲嵐は苦笑した。その笑みはとても柔和だ。
翠鈴は海を見たことはない。おそらくは桃莉公主も、ここにいる梅娜も南蕾も。
海に入らずとも、潮風で髪も肌もべたべたになることも。夜は波音が大きく聞こえることも。潮の香りは、海藻の匂いであることも。
波打ち際で濡れた足で浜辺を歩くと、足の裏も足の甲もびっしりと砂がついて、払ってもとれないことも。
知らぬことを教えてくれる光柳の話は新鮮で。
きっと疲れた皆を、くつろがせるために他愛のない話をしてくれているのだろうと、翠鈴は感じた。
「光柳さまは、波打ち際で海藻が足に絡みついて、泣いたことがおありなんですよ」
「あ、ずるいぞ。雲嵐。お前の恥ずかしい過去も明かしてやる」
光柳は、琥珀色の飴である松仁糖をつまんだ。
「タオリィも、あめたべたい」
「はいはい、仰せのままに。噛んではいけませんよ」
桃莉に松仁糖を与えながら、光柳が注意する。きっと過去に、硬い飴を噛んで痛い目に遭ったことがあるのだろう。
「私は確かに、びらびらした海藻で泣いたが。雲嵐は、巻貝だと思って拾ったら、中からヤドカリが出てきて泣いたじゃないか」
「覚えておりませんね」
雲嵐は、梅娜が給仕してくれたお茶を飲んでいる。
もう誰も、呂充儀の話をしない。彼女はまだ未央宮にいるというのに。
べったりと粘つくような充儀の存在が、今はもうこんなにも軽い。
蘭淑妃と光柳の心遣いが、気持ちを切り替えさせてくれた。
「おいしいお茶ですね。梅娜さま」
お茶をひとくち飲んだ翠鈴は、目を輝かせた。
「五色茶よ」
体までが清浄になりそうな。そして仄かに蜂蜜に似た甘さもある。そのことを告げると、蘭淑妃がうなずいた。
「そう。五色茶の冬茶は、蜂蜜の香りがするのよ」
不思議だ。蜂蜜を用いているわけでもないのに。芳香だけで、甘さすら感じるような気がする。
「本当においしいですね」
ようやく落ち着いたのか、南蕾が笑顔を浮かべた。
蘭淑妃は、隣に座った桃莉の頭を撫でながら、南蕾に向きなおった。
「今後のことを決めましょう。南蕾さん」
99
お気に入りに追加
720
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
結婚して5年、冷たい夫に離縁を申し立てたらみんなに止められています。
真田どんぐり
恋愛
ー5年前、ストレイ伯爵家の美しい令嬢、アルヴィラ・ストレイはアレンベル侯爵家の侯爵、ダリウス・アレンベルと結婚してアルヴィラ・アレンベルへとなった。
親同士に決められた政略結婚だったが、アルヴィラは旦那様とちゃんと愛し合ってやっていこうと決意していたのに……。
そんな決意を打ち砕くかのように旦那様の態度はずっと冷たかった。
(しかも私にだけ!!)
社交界に行っても、使用人の前でもどんな時でも冷たい態度を取られた私は周りの噂の恰好の的。
最初こそ我慢していたが、ある日、偶然旦那様とその幼馴染の不倫疑惑を耳にする。
(((こんな仕打ち、あんまりよーー!!)))
旦那様の態度にとうとう耐えられなくなった私は、ついに離縁を決意したーーーー。
義妹が私に毒を盛ったので、飲んだふりをして周りの反応を見て見る事にしました
新野乃花(大舟)
恋愛
義姉であるラナーと義妹であるレベッカは、ラナーの婚約者であるロッドを隔ててぎくしゃくとした関係にあった。というのも、義妹であるレベッカが一方的にラナーの事を敵対視し、関係を悪化させていたのだ。ある日、ラナーの事が気に入らないレベッカは、ラナーに渡すワインの中にちょっとした仕掛けを施した…。その結果、2人を巻き込む関係は思わぬ方向に進んでいくこととなるのだった…。
戦いに行ったはずの騎士様は、女騎士を連れて帰ってきました。
新野乃花(大舟)
恋愛
健気にカサルの帰りを待ち続けていた、彼の婚約者のルミア。しかし帰還の日にカサルの隣にいたのは、同じ騎士であるミーナだった。親し気な様子をアピールしてくるミーナに加え、カサルもまた満更でもないような様子を見せ、ついにカサルはルミアに婚約破棄を告げてしまう。これで騎士としての真実の愛を手にすることができたと豪語するカサルであったものの、彼はその後すぐにあるきっかけから今夜破棄を大きく後悔することとなり…。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
私が出て行った後、旦那様から後悔の手紙がもたらされました
新野乃花(大舟)
恋愛
ルナとルーク伯爵は婚約関係にあったが、その関係は伯爵の妹であるリリアによって壊される。伯爵はルナの事よりもリリアの事ばかりを優先するためだ。そんな日々が繰り返される中で、ルナは伯爵の元から姿を消す。最初こそ何とも思っていなかった伯爵であったが、その後あるきっかけをもとに、ルナの元に後悔の手紙を送ることとなるのだった…。
妹を溺愛したい旦那様は婚約者の私に出ていってほしそうなので、本当に出ていってあげます
新野乃花(大舟)
恋愛
貴族令嬢であったアリアに幸せにすると声をかけ、婚約関係を結んだグレゴリー第一王子。しかしその後、グレゴリーはアリアの妹との関係を深めていく…。ある日、彼はアリアに出ていってほしいと独り言をつぶやいてしまう。それを耳にしたアリアは、その言葉の通りに家出することを決意するのだった…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる