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九章 呂充儀
13、何が悪いの?
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「子供の頃から女性で苦労したせいであろうか。我が義弟は、生粋の女嫌いでな。だが、いつだったか……ああ、そうだ。桃莉に毒が盛られてから、光柳は変わった」
皇帝は一瞬、苦い丸薬を噛んでしまったような顔をした。
だが、確かに光柳は蝮草の一件で、蘭淑妃や桃莉公主、そして翠鈴に親身になってくれた。
それまでの光柳がどうであったか、翠鈴は詳しくはないが。
初対面で「人を射殺しそうな目だ」と言い放つほどの無神経であったのに。
苦しみながらも毒に耐えていた、小さな桃莉に心を打たれたのかもしれない。
「そなたは薬師であるらしいな。蘭淑妃が、医者に診せる前に薬師が適切に処置をしてくれたから、桃莉が助かったと話しておった。陸翠鈴、そなたのことであったか」
皇帝陛下、傑倫の目もとは優しい。
まるで旧知の人物に出会ったかのように、翠鈴を見つめている。
「桃莉を助けてくれて、光柳には振りまわされ、朕の足の攣りも防いでくれた。感謝では足りぬほどに、朕の家族はそなたに迷惑をかけておるようだ」
「義兄上。私は迷惑などかけていません」
「おお、兄と呼んでくれるのか」
光柳に指摘されて、陛下が軽やかに笑う。
「うっ。今のは失言です。失礼いたしました、陛下」
「……相変わらず冷たいな、お前は。子供の頃に後宮で暮らしていた時は、あんなにも甘えてくれていたのに」
場の空気が一変した。
これ以上言い返すと、過去をほじくり返されると悟ったのだろう。にやにやと眺めてくる義兄から、光柳は視線を逸らした。
翠鈴を解雇させようとの呂充儀の思惑は外れた。
むしろ、生意気な下女が皇帝に気に入られた。呂充儀にしてみれば、論外だろう。
すでに皇帝と蘭淑妃は退室している。
光柳と雲嵐が立ち去ろうとした時。呂充儀はその背中に声をかけた。
「わたくし、今日じゅうに文彗宮に戻ります。ですから、雲嵐。後で会いに来てくれるわね」
戸口の前で、雲嵐は立ちどまった。
よい返事をもらえると思ったのだろう。ぱたぱたと呂充儀が雲嵐に駆け寄る。
「充儀さま。誤解を解いておかねばなりません」
雲嵐がふり返る。
「え?」
「私はもともと苗字を持ちません。『杜』は便宜的につけられたものです」
「何が言いたいの?」
雲嵐の背に手を触れた、呂充儀の笑顔が強ばった。
「私は子供の頃、馬芹を口にしたことはありません。羊肉は塩ゆで、それ一択でした。いえ、羊はごちそうなので滅多に食べられません」
「雲嵐?」
呼びかけられても、雲嵐はふり返らなかった。
「呂充儀さま。私は、あなたが嫌悪なさっている平原の民ですよ。ここまで言わねば、分かりませんか?」
とん、と音がした。
呂充儀の手が、雲嵐の背を突き飛ばしたのだ。
体格の差もあり、雲嵐は微動だにしない。むしろ、呂充儀が反動でよろめいた。
「南蕾。手洗いの用意を。それから丁子のお茶でうがいをするわ。浄めのためにね」
「どうしてですか?」
侍女の南蕾が問い返す。その口調は平坦で、感情がこもっていない。
「だって、汚いものを触ってしまったのよ。言葉を交わしてしまったのよ」
「……失礼ですが。汚いものなど、この部屋にはございません」
南蕾は、呂充儀を睨みつける。
これまでわがままな主に振りまわされ続けた南蕾の中で、何かが切れてしまったのだろう。
「雲嵐さまは、ご自分の時間を割いてまで充儀さまのお話しを聞いてくださいました。言いたいことも多々あったことでしょう。けれど、まずは充儀さまのお加減が大事と、口を噤んでくださったのだと思います」
「何を言ってるの? 雲嵐はわたくしを騙したのよ。奴隷の出なのに、平原の民なのに、それを黙っていたわ」
何を言っても無駄か、というふうに南蕾は瞼を閉じた。
「感謝をなさることもおできにならないのですね。あえて申しあげるなら。呂充儀さまのお心が、いちばん汚いように思えます」
「なっ。失礼よ。あなたなんてもう解雇してやるわ。顔も見たくないわ。出ていきなさい」
激昂した呂充儀の暴言を受けて、南蕾は寂しそうに笑った。
「二言めには、クビなんですね。それが充儀さまの切り札ですか」
「仰せの通りに出ていきます」と、南蕾は呂充儀に背を向けた。
翠鈴は後に続く。
丁子のお茶が体に障ることはもう伝えた。
それでも呂充儀が、故郷の習慣にしがみつくのであれば。どうしようもない。
南蕾は、もう充儀の侍女ではいられない。
自ら侍女の任を解いたのに。呂充儀は、見捨てられたかのように室内にぽつんと立ちつくしていた。
皇帝は一瞬、苦い丸薬を噛んでしまったような顔をした。
だが、確かに光柳は蝮草の一件で、蘭淑妃や桃莉公主、そして翠鈴に親身になってくれた。
それまでの光柳がどうであったか、翠鈴は詳しくはないが。
初対面で「人を射殺しそうな目だ」と言い放つほどの無神経であったのに。
苦しみながらも毒に耐えていた、小さな桃莉に心を打たれたのかもしれない。
「そなたは薬師であるらしいな。蘭淑妃が、医者に診せる前に薬師が適切に処置をしてくれたから、桃莉が助かったと話しておった。陸翠鈴、そなたのことであったか」
皇帝陛下、傑倫の目もとは優しい。
まるで旧知の人物に出会ったかのように、翠鈴を見つめている。
「桃莉を助けてくれて、光柳には振りまわされ、朕の足の攣りも防いでくれた。感謝では足りぬほどに、朕の家族はそなたに迷惑をかけておるようだ」
「義兄上。私は迷惑などかけていません」
「おお、兄と呼んでくれるのか」
光柳に指摘されて、陛下が軽やかに笑う。
「うっ。今のは失言です。失礼いたしました、陛下」
「……相変わらず冷たいな、お前は。子供の頃に後宮で暮らしていた時は、あんなにも甘えてくれていたのに」
場の空気が一変した。
これ以上言い返すと、過去をほじくり返されると悟ったのだろう。にやにやと眺めてくる義兄から、光柳は視線を逸らした。
翠鈴を解雇させようとの呂充儀の思惑は外れた。
むしろ、生意気な下女が皇帝に気に入られた。呂充儀にしてみれば、論外だろう。
すでに皇帝と蘭淑妃は退室している。
光柳と雲嵐が立ち去ろうとした時。呂充儀はその背中に声をかけた。
「わたくし、今日じゅうに文彗宮に戻ります。ですから、雲嵐。後で会いに来てくれるわね」
戸口の前で、雲嵐は立ちどまった。
よい返事をもらえると思ったのだろう。ぱたぱたと呂充儀が雲嵐に駆け寄る。
「充儀さま。誤解を解いておかねばなりません」
雲嵐がふり返る。
「え?」
「私はもともと苗字を持ちません。『杜』は便宜的につけられたものです」
「何が言いたいの?」
雲嵐の背に手を触れた、呂充儀の笑顔が強ばった。
「私は子供の頃、馬芹を口にしたことはありません。羊肉は塩ゆで、それ一択でした。いえ、羊はごちそうなので滅多に食べられません」
「雲嵐?」
呼びかけられても、雲嵐はふり返らなかった。
「呂充儀さま。私は、あなたが嫌悪なさっている平原の民ですよ。ここまで言わねば、分かりませんか?」
とん、と音がした。
呂充儀の手が、雲嵐の背を突き飛ばしたのだ。
体格の差もあり、雲嵐は微動だにしない。むしろ、呂充儀が反動でよろめいた。
「南蕾。手洗いの用意を。それから丁子のお茶でうがいをするわ。浄めのためにね」
「どうしてですか?」
侍女の南蕾が問い返す。その口調は平坦で、感情がこもっていない。
「だって、汚いものを触ってしまったのよ。言葉を交わしてしまったのよ」
「……失礼ですが。汚いものなど、この部屋にはございません」
南蕾は、呂充儀を睨みつける。
これまでわがままな主に振りまわされ続けた南蕾の中で、何かが切れてしまったのだろう。
「雲嵐さまは、ご自分の時間を割いてまで充儀さまのお話しを聞いてくださいました。言いたいことも多々あったことでしょう。けれど、まずは充儀さまのお加減が大事と、口を噤んでくださったのだと思います」
「何を言ってるの? 雲嵐はわたくしを騙したのよ。奴隷の出なのに、平原の民なのに、それを黙っていたわ」
何を言っても無駄か、というふうに南蕾は瞼を閉じた。
「感謝をなさることもおできにならないのですね。あえて申しあげるなら。呂充儀さまのお心が、いちばん汚いように思えます」
「なっ。失礼よ。あなたなんてもう解雇してやるわ。顔も見たくないわ。出ていきなさい」
激昂した呂充儀の暴言を受けて、南蕾は寂しそうに笑った。
「二言めには、クビなんですね。それが充儀さまの切り札ですか」
「仰せの通りに出ていきます」と、南蕾は呂充儀に背を向けた。
翠鈴は後に続く。
丁子のお茶が体に障ることはもう伝えた。
それでも呂充儀が、故郷の習慣にしがみつくのであれば。どうしようもない。
南蕾は、もう充儀の侍女ではいられない。
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