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九章 呂充儀
11、娘娘
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「誰に命じられたの? きっと、わたくしが身ごもったことを嫉妬している人ね。蘭淑妃の差し金なの? あの方には公主しかいらっしゃらないから。それに、もうじきお生まれになる皇后陛下のお子さまが女の子だったら。わたくしの赤ちゃんが男の子だったら」
呂充儀の声は甲高く、明らかに癇癪を起こしている。
「いえ、決して淑妃さまはそのようなことをなさいません」
聞こえてくる南蕾の返答は、今にも泣きそうだ。
いけない。相手が自分に仕える侍女だからといって、その気持ちもつらさも考慮しないなんて。あってはいけないことだ。
「こーしゅって、タオリィのこと?」
自分のことが話題に出たからだろう。桃莉が不安そうに翠鈴を見上げてくる。
いつもだったら、抱きしめてさしあげるのに。
今の翠鈴は危険な桐油に触れている。
状況を悟った梅娜が、膝に座った桃莉の体に腕をまわした。
子供は、大人が考える以上に聡い。
聞こえていないだろう。聞いても分からないだろう。子供の勘の鋭さを侮る大人は多い。それが子供からの不信を招いているとも気づかずに。
「分かるものですか。だって淑妃は皇后陛下と仲がいいじゃない」
自分が罵られることを、翠鈴は覚悟していた。
だが、南蕾が翠鈴をかばってくれているのだろう。そのせいで、蘭淑妃に疑いがかかってしまっている。
(わたしも南蕾さまも、善意で伝えていることなのに。充儀さまが、それを受け入れる素直さがないから)
呂充儀は、文彗宮から離れた未央宮に逃げこんでいたから。よほどつらいのだろうと、皆が親切にした。
故郷を遠く離れて。言葉は同じでも、文化の違う新杷国へと嫁いでいるから。雲嵐に話し相手をさせてしまった。
(具合が悪くとも、自分の宮を逃げだすほどに、気力のある人なのに)
どこかで、この後宮を出て尼寺に入った蔡昭媛と重ね合わせてしまっていたのかもしれない。
蔡昭媛は、あまりにも儚く。もろい心が壊れかけていた。
(おそらく陛下は、蔡昭媛のことがあったから。だから他の九嬪の元へ、よくお通いになっているんだ)
蘭淑妃を非難する言葉は、まだ聞こえてくる。
(だめだ。放っておけない)
翠鈴は立ちあがった。
作業部屋を出て、そのまま呂充儀の部屋へと入る。声はかけた。だが、返事はない。南蕾と言い争っているのだから、聞いてもいないのだろう。
「あなた、何よ」
突然、入室した翠鈴に呂充儀は声が裏返った。部屋には丁子の刺激のある匂いが満ちている。寝台で上体を起こしている充儀は、手に丁子の入った麻袋を握りしめていた。
「薬師です。声をおかけしましたが。返事がないので、入らせていただきました」
翠鈴はつかつかと寝台まで進む。
「流産なさらぬよう、丁子のお茶を飲んではならぬと進言したのはわたしです」
「これは娘娘の清めのお茶よ。あなたが南蕾に、縁起の悪いことを吹聴したのね」
まるでお腹の子よりも、丁子のお茶の方が大事であるかのような言いようだ。
どうしてそこまで丁子にこだわるのか。翠鈴は理解できなかった。
先ほどから何度か、呂充儀は「娘娘」と口にしている。これは皇后の敬称ではない。
皇后は自らのこと「皇后娘娘」と呼ぶのを許しているのは、蘭淑妃だけだ。これは淑妃から聞いたことがあるので、間違いない。
では、誰のことなのか。翠鈴は訝しんだ。
(呂充儀は、自分の意に染まぬことを言われたら、すぐに相手を悪者に仕立てあげるのか。厄介にもほどがある)
よく日に灼けて、快活に笑う人だから。周囲の人間は、呂充儀を明るい人だと認識してしまうのだろう。
実際は違うのに。
「杜雲嵐が来るまで、帰らないわ。わたくしが文彗宮に戻ったら、彼はもう来てくれないでしょう?」
そんなの嫌よ、と呂充儀は頬をふくらませた。まるで子供みたいに。
「分かっているじゃないですか」
「何がよ」
「あなたが、雲嵐さまに話し相手を無理強いさせていることを、です」
翠鈴の声は冷ややかだ。
一瞬かっとなったのか、呂充儀の顔が赤くなった。
「雲嵐さまが、日中あなたのために時間を費やしたのであれば。勤務時間内にできなかった仕事は、夜にすることになります」
雲嵐の仕事は護衛であるが。後宮内では、そればかりが任務ではない。
雑事に追われているはずだ。
「じゃ、じゃあ。夜に来ればいいじゃない。夜なら、仕事も終わっているでしょ」
「ええ、そうですね」
この人は、どこまでも分かっていない。
対話すれば理解してもらえるかも、など期待はしていないが。わざわざ説明するのも嫌になる。
「では、雲嵐さまはいつ休めばいいのですか?」
「え? だから、わたくしと話をしている間は気が休まるでしょう?」
「あなたはそうでしょうね」
呂充儀の言い分は、接待ばかりされてきた人間の考えだ。
雲嵐が話をあわせてあげていることに。充儀が聞きたくないことは告げないように、呑みこんでいることにまったく気づいていない。
(雲嵐さまは、あんなにも疲弊していらしたのに)
まるで幼い頃のように、光柳に無言で甘えるほどに。
「あなた、下女のくせに生意気よ」
呂充儀が、翠鈴を睨みつけてくる。南蕾は間にはいることもできずに、おろおろとふたりを見遣った。
(ほら。もうすでに侍女に迷惑をかけているじゃない)
翠鈴は舌打ちをしたい気分になった。
「生意気と思ってださって結構です。わたしの主は、充儀さまではなく蘭淑妃でいらっしゃいますから」
「陛下に言いつけてやるわ!」
あまりにも大きな声に、翠鈴の耳がきんと痛んだ。
「蘭淑妃が庇いだてしてもムダよ。陛下は、わたくしの元にばかりお渡りになってるんですもの。あんたなんか辞めさせてやる。路頭に迷えばいいんだわ」
「それがあなたの本性ですか」
なんて傲慢。なんて卑怯。
足の先まで怒りで痺れそうだ。
呂充儀の声は甲高く、明らかに癇癪を起こしている。
「いえ、決して淑妃さまはそのようなことをなさいません」
聞こえてくる南蕾の返答は、今にも泣きそうだ。
いけない。相手が自分に仕える侍女だからといって、その気持ちもつらさも考慮しないなんて。あってはいけないことだ。
「こーしゅって、タオリィのこと?」
自分のことが話題に出たからだろう。桃莉が不安そうに翠鈴を見上げてくる。
いつもだったら、抱きしめてさしあげるのに。
今の翠鈴は危険な桐油に触れている。
状況を悟った梅娜が、膝に座った桃莉の体に腕をまわした。
子供は、大人が考える以上に聡い。
聞こえていないだろう。聞いても分からないだろう。子供の勘の鋭さを侮る大人は多い。それが子供からの不信を招いているとも気づかずに。
「分かるものですか。だって淑妃は皇后陛下と仲がいいじゃない」
自分が罵られることを、翠鈴は覚悟していた。
だが、南蕾が翠鈴をかばってくれているのだろう。そのせいで、蘭淑妃に疑いがかかってしまっている。
(わたしも南蕾さまも、善意で伝えていることなのに。充儀さまが、それを受け入れる素直さがないから)
呂充儀は、文彗宮から離れた未央宮に逃げこんでいたから。よほどつらいのだろうと、皆が親切にした。
故郷を遠く離れて。言葉は同じでも、文化の違う新杷国へと嫁いでいるから。雲嵐に話し相手をさせてしまった。
(具合が悪くとも、自分の宮を逃げだすほどに、気力のある人なのに)
どこかで、この後宮を出て尼寺に入った蔡昭媛と重ね合わせてしまっていたのかもしれない。
蔡昭媛は、あまりにも儚く。もろい心が壊れかけていた。
(おそらく陛下は、蔡昭媛のことがあったから。だから他の九嬪の元へ、よくお通いになっているんだ)
蘭淑妃を非難する言葉は、まだ聞こえてくる。
(だめだ。放っておけない)
翠鈴は立ちあがった。
作業部屋を出て、そのまま呂充儀の部屋へと入る。声はかけた。だが、返事はない。南蕾と言い争っているのだから、聞いてもいないのだろう。
「あなた、何よ」
突然、入室した翠鈴に呂充儀は声が裏返った。部屋には丁子の刺激のある匂いが満ちている。寝台で上体を起こしている充儀は、手に丁子の入った麻袋を握りしめていた。
「薬師です。声をおかけしましたが。返事がないので、入らせていただきました」
翠鈴はつかつかと寝台まで進む。
「流産なさらぬよう、丁子のお茶を飲んではならぬと進言したのはわたしです」
「これは娘娘の清めのお茶よ。あなたが南蕾に、縁起の悪いことを吹聴したのね」
まるでお腹の子よりも、丁子のお茶の方が大事であるかのような言いようだ。
どうしてそこまで丁子にこだわるのか。翠鈴は理解できなかった。
先ほどから何度か、呂充儀は「娘娘」と口にしている。これは皇后の敬称ではない。
皇后は自らのこと「皇后娘娘」と呼ぶのを許しているのは、蘭淑妃だけだ。これは淑妃から聞いたことがあるので、間違いない。
では、誰のことなのか。翠鈴は訝しんだ。
(呂充儀は、自分の意に染まぬことを言われたら、すぐに相手を悪者に仕立てあげるのか。厄介にもほどがある)
よく日に灼けて、快活に笑う人だから。周囲の人間は、呂充儀を明るい人だと認識してしまうのだろう。
実際は違うのに。
「杜雲嵐が来るまで、帰らないわ。わたくしが文彗宮に戻ったら、彼はもう来てくれないでしょう?」
そんなの嫌よ、と呂充儀は頬をふくらませた。まるで子供みたいに。
「分かっているじゃないですか」
「何がよ」
「あなたが、雲嵐さまに話し相手を無理強いさせていることを、です」
翠鈴の声は冷ややかだ。
一瞬かっとなったのか、呂充儀の顔が赤くなった。
「雲嵐さまが、日中あなたのために時間を費やしたのであれば。勤務時間内にできなかった仕事は、夜にすることになります」
雲嵐の仕事は護衛であるが。後宮内では、そればかりが任務ではない。
雑事に追われているはずだ。
「じゃ、じゃあ。夜に来ればいいじゃない。夜なら、仕事も終わっているでしょ」
「ええ、そうですね」
この人は、どこまでも分かっていない。
対話すれば理解してもらえるかも、など期待はしていないが。わざわざ説明するのも嫌になる。
「では、雲嵐さまはいつ休めばいいのですか?」
「え? だから、わたくしと話をしている間は気が休まるでしょう?」
「あなたはそうでしょうね」
呂充儀の言い分は、接待ばかりされてきた人間の考えだ。
雲嵐が話をあわせてあげていることに。充儀が聞きたくないことは告げないように、呑みこんでいることにまったく気づいていない。
(雲嵐さまは、あんなにも疲弊していらしたのに)
まるで幼い頃のように、光柳に無言で甘えるほどに。
「あなた、下女のくせに生意気よ」
呂充儀が、翠鈴を睨みつけてくる。南蕾は間にはいることもできずに、おろおろとふたりを見遣った。
(ほら。もうすでに侍女に迷惑をかけているじゃない)
翠鈴は舌打ちをしたい気分になった。
「生意気と思ってださって結構です。わたしの主は、充儀さまではなく蘭淑妃でいらっしゃいますから」
「陛下に言いつけてやるわ!」
あまりにも大きな声に、翠鈴の耳がきんと痛んだ。
「蘭淑妃が庇いだてしてもムダよ。陛下は、わたくしの元にばかりお渡りになってるんですもの。あんたなんか辞めさせてやる。路頭に迷えばいいんだわ」
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