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九章 呂充儀
10、丁子
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「南蕾さまは、気を張っていらっしゃるから。お疲れですよね」
南蕾の手の青が気にはなるが。今は問うべき時ではないと、翠鈴は判断した。
「いえ……私は、その……」
口ごもりながらも、南蕾は主を批判する言葉は口にしない。
きっとこれまで彼女に、ちゃんと声をかける人などいなかったのだろう。
国も民族も違う呂充儀の大変さは、誰もが想像できることだ。だが主に付き従い、国を離れた侍女の苦労を考えてあげられる人はほとんどいない。
「おねえさん、げんきない? あのこわいおねえさんに、いじめられてる?」
梅娜の膝に座ったままの桃莉公主が、南蕾に声をかける。
まさか公主にいたわられるとは、思いもしなかったのだろう。
南蕾は、目を大きく見開いた。
また涙が溢れてこぼれた。
「あ、ありがとうございます。私なんかに、優しいお言葉をかけてくださって」
「タオリィが『わがままダメ』ってしてあげようか? ちょっと……だいぶん、こわいけど」
桃莉は口を尖らせた。
「こわいけど。でも、ジエホアおねえさまなら『タオリィ。じじょをたいせつにね』っていうとおもうから」
南蕾は、施潔華のことを知らない。潔華は、皇后陛下の甥なのだが。きっと蘭淑妃の親戚の子であると、南蕾は推測しただろう。
声もなく、南蕾は泣いた。ただ肩を震わせて。
翠鈴と由由が、宮灯に油を注す音がする。開いた窗から、鳥のさえずりが聞こえた。
ケキョ。ケキョキョ。ウグイスの雛だろうか。うまく鳴けずに練習する声を、風が運ぶ。
「充儀さまには、今日中にも文彗宮に戻っていただきたいと思っています。これ以上、蘭淑妃や皆さまにご迷惑をおかけするわけにはまいりませんし」
泣きやんだ南蕾は、申し訳なさそうに縮こまった。そのせいで、ぎゅっと手に持つ袋を握りしめたのだろう。微かに刺激のある香りがした。
桐油のクセのある匂いに紛れたけれど。確かに翠鈴の知っているものだ。
(丁子だわ)
翠鈴は眉をひそめた。
南蕾は、お茶を淹れるようにと命じられた。呂充儀は、茶葉で淹れたものを飲まない。
ならば、この丁子の使い道はひとつしかない。
呂充儀は、自ら毒となるものを好んで摂取しようとしている。
(充儀さまにとって、わたしの言葉なんて、いらぬお節介に違いない)
翠鈴は瞼を閉じて思案した。
(よかれと思って進言したところで、きっとわたしのことを恨むわ)
もし蘭淑妃からの言葉なら、呂充儀は言うことを聞くだろうか。
いや。そんなことはない。
呂充儀が、四夫人である淑妃を立てているのなら。迷惑をかけてはならぬと、すぐに文彗宮に戻ることだろう。
それに蘭淑妃が最初は呂充儀を見舞っていたのに、今はもう部屋を訪れない。理由は明白だ。
(でも、見過ごすことなんてできない)
たとえ医局に勤めていなくとも。自分は薬師であるのだから。
翠鈴は覚悟を決めた。
大きく息を吸って、瞼を開く。握りしめたこぶしが、微かに震えた。
「南蕾さま。丁子のお茶は飲んではいけませんと、呂充儀さまにお伝えください」
「え?」
頰に涙の筋を残しながら、南蕾が間近に歩み寄った翠鈴を見上げた。
「丁子は生薬です。歯痛を抑えることもできます。それほどに、きついのです。妊娠なさっている方には、毒になります」
「毒……なんですか? でも」
南蕾が言いよどむ。
翠鈴は、南蕾に続きを話すように促した。
「とても健康にいいお茶だと、充儀さまはおっしゃってました。お腹が痛い時には、丁子がいいそうです。だから毒だなんて言われても」
充儀の考えは間違いではない。だが、必ずしも正解でもない。
丁子は確かに腹部の冷えを伴う痛みには効く。それは妊娠時の腹痛とは別なものだ。
そもそも痛みには種類が多い。冷えを伴う冷痛、灼熱感を伴う灼痛、しくしく痛む隠痛。そのほかにも様々な痛みがある。
症状に応じて、使う生薬は違ってくる。当然だ、それぞれの原因が異なるのだから。
「丁子が毒というよりも。今の充儀さまには、害があると言うべきですね。陛下の御子を流産なさってはいけませんから」
「そんなっ。流産だなんて」
身ごもった主にとっては、あってはならぬ事態だ。南蕾の声はかすれていた。
脅しているわけではないのだが。現実的に危ないのだから、しょうがない。
「丁子は控えた方がいいですね。いえ、充儀さまはお茶として摂取なさる量が多そうなので。けっして取らないようにお伝えください」
翠鈴から丁子の話を聞いた南蕾は、すぐに呂充儀のいる部屋へと戻った。
しばらくして、声が聞こえた。扉を閉めているのだろう。くぐもっているが、離れた作業部屋まで聞こえるほどだ。
「わたくしが飲みたいって言っているのよ。これは清めと効き目のあるお茶なのよ。どうして禁止されないといけないの?」
「ですが。お体にも、お腹にいらっしゃる御子にも障るのです」
「わたくしは国へも戻れず。雲嵐にも会えず。しかも娘娘の教えすらも奪われるというの? どうしてなのよ。充儀になったから? 子を身ごもったから? 自由もなく後宮からも出られず、こんなの牢獄と変わらないかじゃないっ」
ああ、やっぱり。
翠鈴は床にしゃがみこんで、膝を抱えた。事情を察した由由が、翠鈴を包みこんでくれる。
南蕾の手の青が気にはなるが。今は問うべき時ではないと、翠鈴は判断した。
「いえ……私は、その……」
口ごもりながらも、南蕾は主を批判する言葉は口にしない。
きっとこれまで彼女に、ちゃんと声をかける人などいなかったのだろう。
国も民族も違う呂充儀の大変さは、誰もが想像できることだ。だが主に付き従い、国を離れた侍女の苦労を考えてあげられる人はほとんどいない。
「おねえさん、げんきない? あのこわいおねえさんに、いじめられてる?」
梅娜の膝に座ったままの桃莉公主が、南蕾に声をかける。
まさか公主にいたわられるとは、思いもしなかったのだろう。
南蕾は、目を大きく見開いた。
また涙が溢れてこぼれた。
「あ、ありがとうございます。私なんかに、優しいお言葉をかけてくださって」
「タオリィが『わがままダメ』ってしてあげようか? ちょっと……だいぶん、こわいけど」
桃莉は口を尖らせた。
「こわいけど。でも、ジエホアおねえさまなら『タオリィ。じじょをたいせつにね』っていうとおもうから」
南蕾は、施潔華のことを知らない。潔華は、皇后陛下の甥なのだが。きっと蘭淑妃の親戚の子であると、南蕾は推測しただろう。
声もなく、南蕾は泣いた。ただ肩を震わせて。
翠鈴と由由が、宮灯に油を注す音がする。開いた窗から、鳥のさえずりが聞こえた。
ケキョ。ケキョキョ。ウグイスの雛だろうか。うまく鳴けずに練習する声を、風が運ぶ。
「充儀さまには、今日中にも文彗宮に戻っていただきたいと思っています。これ以上、蘭淑妃や皆さまにご迷惑をおかけするわけにはまいりませんし」
泣きやんだ南蕾は、申し訳なさそうに縮こまった。そのせいで、ぎゅっと手に持つ袋を握りしめたのだろう。微かに刺激のある香りがした。
桐油のクセのある匂いに紛れたけれど。確かに翠鈴の知っているものだ。
(丁子だわ)
翠鈴は眉をひそめた。
南蕾は、お茶を淹れるようにと命じられた。呂充儀は、茶葉で淹れたものを飲まない。
ならば、この丁子の使い道はひとつしかない。
呂充儀は、自ら毒となるものを好んで摂取しようとしている。
(充儀さまにとって、わたしの言葉なんて、いらぬお節介に違いない)
翠鈴は瞼を閉じて思案した。
(よかれと思って進言したところで、きっとわたしのことを恨むわ)
もし蘭淑妃からの言葉なら、呂充儀は言うことを聞くだろうか。
いや。そんなことはない。
呂充儀が、四夫人である淑妃を立てているのなら。迷惑をかけてはならぬと、すぐに文彗宮に戻ることだろう。
それに蘭淑妃が最初は呂充儀を見舞っていたのに、今はもう部屋を訪れない。理由は明白だ。
(でも、見過ごすことなんてできない)
たとえ医局に勤めていなくとも。自分は薬師であるのだから。
翠鈴は覚悟を決めた。
大きく息を吸って、瞼を開く。握りしめたこぶしが、微かに震えた。
「南蕾さま。丁子のお茶は飲んではいけませんと、呂充儀さまにお伝えください」
「え?」
頰に涙の筋を残しながら、南蕾が間近に歩み寄った翠鈴を見上げた。
「丁子は生薬です。歯痛を抑えることもできます。それほどに、きついのです。妊娠なさっている方には、毒になります」
「毒……なんですか? でも」
南蕾が言いよどむ。
翠鈴は、南蕾に続きを話すように促した。
「とても健康にいいお茶だと、充儀さまはおっしゃってました。お腹が痛い時には、丁子がいいそうです。だから毒だなんて言われても」
充儀の考えは間違いではない。だが、必ずしも正解でもない。
丁子は確かに腹部の冷えを伴う痛みには効く。それは妊娠時の腹痛とは別なものだ。
そもそも痛みには種類が多い。冷えを伴う冷痛、灼熱感を伴う灼痛、しくしく痛む隠痛。そのほかにも様々な痛みがある。
症状に応じて、使う生薬は違ってくる。当然だ、それぞれの原因が異なるのだから。
「丁子が毒というよりも。今の充儀さまには、害があると言うべきですね。陛下の御子を流産なさってはいけませんから」
「そんなっ。流産だなんて」
身ごもった主にとっては、あってはならぬ事態だ。南蕾の声はかすれていた。
脅しているわけではないのだが。現実的に危ないのだから、しょうがない。
「丁子は控えた方がいいですね。いえ、充儀さまはお茶として摂取なさる量が多そうなので。けっして取らないようにお伝えください」
翠鈴から丁子の話を聞いた南蕾は、すぐに呂充儀のいる部屋へと戻った。
しばらくして、声が聞こえた。扉を閉めているのだろう。くぐもっているが、離れた作業部屋まで聞こえるほどだ。
「わたくしが飲みたいって言っているのよ。これは清めと効き目のあるお茶なのよ。どうして禁止されないといけないの?」
「ですが。お体にも、お腹にいらっしゃる御子にも障るのです」
「わたくしは国へも戻れず。雲嵐にも会えず。しかも娘娘の教えすらも奪われるというの? どうしてなのよ。充儀になったから? 子を身ごもったから? 自由もなく後宮からも出られず、こんなの牢獄と変わらないかじゃないっ」
ああ、やっぱり。
翠鈴は床にしゃがみこんで、膝を抱えた。事情を察した由由が、翠鈴を包みこんでくれる。
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