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九章 呂充儀

5、懐郷病

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「疲れたー。ようやく終わったぞ。雲嵐」

 その日の仕事を終えた光柳は、書令史の部屋で机に突っ伏した。

 書類が多い。多すぎる。しかも今日は皇帝陛下がやってきて、長々と呂充儀ルーじゅうぎの行方を聞き出そうとするものだから、時間が押してしまった。

 時間外の仕事だけはなんとか避けたい。否、ぜったいに嫌だ。
 そう考えて筆を動かし続けたせいで、指が震えてしまっている。

「仕事を頑張ったので、ご褒美が必要だとは思わないか?」
「とくには思いませんが。カリン酒や杏酒でもご所望ですか? 夕食の時に用意しますよ」
「いーや、違うね。雲嵐は分かっていない」

 散乱した紙を整えながら、雲嵐は首をかしげる。

「最近、翠鈴に会っていない」
「畏れながら、光柳さま。ほんの二、三日前に、お会いしていましたよ」
「毎日じゃないから、ずいぶん会っていないんだ」

 書令史であれ詩人であれ、言葉を操る人なのに。滅茶苦茶だなぁ、と言いたそうな表情を雲嵐が浮かべる。
 だが、光柳は気づかぬふりをする。

「夕食前に、少し顔を見に行くぐらいならいいだろうか。なに、すぐに帰る」
「翠鈴はこれからが仕事です。食事後になさいませ」
「厳しいなぁ」

 ちょっと顔を出すだけじゃないか。

 光柳は片づけられた机に突っ伏した。ぼさぼさになった毛筆から、墨の匂いがする。
 せめて筆と硯くらいは自分で洗おう。光柳は立ちあがった。

 夕食は腐竹ふちくと呼ばれる湯葉や、野菜を入れたスープ。まだ旬には少し早いが、ササゲ豆とひき肉の炒め物。そして春巻きだ。

 光柳と雲嵐の夕食は、別棟の宿舎に運ばれてくる。

「光柳さま。そんなに急いで召しあがらなくても」

 卓を挟んだ向かいの雲嵐に声をかけられて、光柳は返事代わりにもごもごと咀嚼した。
 早春に採取して干してある筍や細切りにした豚肉。椎茸などを包んであげた春巻きは、皮がぱりっとしている。

「春巻きは手がかかっているんですから。もっと味わった方がよろしいのでは?」
「おいひいとおもう」

 立春の頃、新芽の出た野菜を巻くから春巻きという。
 だが、いつの時季に食べても春巻きはおいしい。

「せめて飲み込んでから、しゃべってください。子供ですか、光柳さまは」

 やれやれ、いつもの美意識はどこへいったのやら
 雲嵐は肩をすくめた。

 食後に未央宮に向かって正解だった。
 光柳も雲嵐も、長居をするはめになってしまったのだから。

 ◇◇◇
 
「雲嵐さま」

 未央宮を訪れた光柳と雲嵐の姿を見て、翠鈴が回廊に飛びだしてきた。

(待て、待て。なんで雲嵐なんだ?)

 嫉妬に満ちた言葉で、翠鈴を問い詰めるわけにはいかない。

 ああ、風雅で美しく、品のある己が恨めしい。光柳は苦悩した。
 情けないところをずいぶんと翠鈴に見せてしまったことなど、忘却の彼方だ。

 回廊に下げられた灯籠が、春の夜風に揺れている。穏やかな色の光が、頭上で戯れているのかのようだ。

「梅娜さま。雲嵐さまが、いらしてくださいましたよ」
「まぁぁ。よかったわ」

 今度は侍女頭や侍女まで顔を出した。誰もが雲嵐を取り囲んでいる。
 普段とは逆に、光柳に興味を示す者がいない。

 雲嵐、大人気。とうとう彼の時代が来たのか。もしかして自分は時代遅れなのか。
 妙な思考が、光柳の頭の中でぐるぐるまわる。

「大丈夫ですか? お疲れのようですが」

 翠鈴に顔を覗きこまれて、光柳ははっとした。

 雲嵐の周囲にいるのは侍女たちだ。翠鈴は混じっていなかった。

「ありがとう、翠鈴。信じていたぞ」

 光柳は両手で、翠鈴の手を握った。

「何をです?」

 翠鈴は苦笑した。困ったように、光柳に手をぶんぶんと上下に振られている。

「今朝、未央宮で呂充儀さまが倒れておられたんです。同郷の宦官に会いたいとおっしゃるので。雲嵐さまかと思い、書令史の部屋に伺ったのですが」
「入ればよかったのに。あっ、義兄か」

 こくりと翠鈴がうなずいた。
 さすがに皇帝が訪れている部屋に、入ることはできなかったのだろう。

「同郷の……ということは、呂充儀さまは懐郷病かいきょうびょうかもしれませんね」

 懐郷病。聞いたことがないと、光柳は思った。
 自分の文彗宮ぶんけいきゅうから逃げだすほどに、呂充儀は苦しいのだろうか。

「光柳さまにもおありだと思いますよ」
「そうなのか? 実感はわかないが」

「そうですね。離宮に戻りたいとお考えになったことはありませんか? 今の、ではなく。かつて雲嵐さまとお育ちになった離宮です」

 翠鈴の説明で、光柳は腑に落ちた。

 どんなに手を伸ばしても届かない。記憶の中には、いつまでも残っているのに。戻ることのできない美しい場所だ。
 あの頃の離宮は、光に満ちていた。季節は毎年くりかえしたのに。

 覚えているのは、鮮やかな光を宿した青い海。昼の終わり、夜の藍が溶けはじめる宵の空の美しさ。風にひるがえる大きな芭蕉の葉。白い砂浜に、一面に咲く淡い桃色の浜昼顔。

 浅瀬で雲嵐と素足を濡らしていると、水面を鳥の影が過ぎた。
 そして、すぐにどこかへ行ってしまう、皮の毬。

 思いだす懐かしい故郷は、いつも夏だ。
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