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九章 呂充儀
4、疾走
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医局へ向かった翠鈴は、呂充儀を診察した医師に一筆書いてもらった。
その紙を持って、今度は未央宮へ戻る。
遠い。翠鈴の足腰が強いとはいえ、後宮は広すぎる。
全力疾走する翠鈴を、道行く人がふり返る。耳の側で風が鳴る。結んだ髪が跳ねて、背中を叩く。
(ムリ。遠いって)
膝が、がくがくと震えてきた。
未央宮が見えてきたのに、一向に近づかない。足が重い。
そもそも未央宮から秘書省、医局を経てさらに未央宮に戻るという、ろくでもない距離だ。
「つ……つい、た」
ちょうど呂充儀の侍女と、未央宮の門に入ったところで出会った。
駆けているときは、息が上がっていたが。止まると、今度は一気に汗がふきだした。
ぼたぼたと落ちた汗が、地面に吸いこまれていく。汗が目に入って、翠鈴はろくに瞼を開くこともできなかった。
「こ、これを。陛下にお届け、くだ、さい」
「え、なに? 直訴状?」
呂充儀の侍女は、数歩下がった。
なんでそうなる。
目が痛くて、眉を寄せているから。翠鈴の目つきは、普段の十倍は悪い。
「ツイリン。どうしたの? たーいへん」
はい、大変でございますよ。と桃莉に答えてあげることもできない。
桃莉は一生懸命に背伸びをして、手帕で翠鈴の頬を拭いてくれた。
手を洗う習慣がつくようにと、侍女に持たされたものらしい。ふわっと甘い香りがした。
「ごめんなさい。理解が追いつかなくて」と、呂充儀の侍女である南蕾は翠鈴と桃莉公主を見遣る。
南蕾は日に灼けた肌で、瞳が黒々とした健康的な外見だ。
たしかに公主に汗を拭かれている下女、という図はおかしい。
南蕾は、早朝から主が消えて。しかも四夫人の宮で見つかったという知らせを聞いたばかりだ。侍女頭は若くはないので、二十歳ほどの南蕾が走りまわっている。
医師に書いてもらった手紙を、翠鈴は南蕾に渡した。
――呂充儀は安静にしないといけないので、未央宮で休ませるべきである。元気になり次第、文彗宮に戻すとよい。気鬱でもあるので、面会はしばらく認められない。
手紙にはそう書いてある。
「どうしてこれを用意できたの?」
南蕾は問いかけた。呂充儀と似て明るい髪の色だ。
翠鈴が戻ってきたことが分かったのだろう。梅娜が、水を持ってきてくれる。碗に入った水を一息に飲み干して、翠鈴は、ようやくまともに話せるようになった。
「疑う気持ちも分かります。わたしは医局に用事で行くことが多いですし。友人に医官がおりますから。そのツテです」
「もしかして、あなた」
南蕾の声が上ずった。
さっきまで疑いで曇っていた南蕾の瞳に、きらきらとした星が宿る。
翠鈴は、唇の前で人さし指を立てる。そして嫋やかに微笑んだ。
その先は言わぬように、と。
翠鈴は夜更けにばかり商売をしているから。薬を買いに来ていた南蕾の髪色を覚えてはいなかった。
「あの、お会いできて光栄です。昼間にお目にかかれるなんて、思ってもいなくて。いたっ」
南蕾は舌を噛んでしまったらしい。それでも、潤んだ瞳で翠鈴を見つめてくる。
その挙動が不審だったからだろう。桃莉は、翠鈴の背中に隠れてしまった。
医者からの手紙を陛下に届けるために、南蕾は未央宮を出ていった。
「もう無理」
「翠鈴。少し寝てなさい。消灯の仕事に差しつかえるわ」
ぐったりとした翠鈴に、梅娜が長椅子を勧めてくれる。
蘭淑妃が、部屋に入ってきた。さっきまで隣の呂充儀の部屋にいたようだ。
起きあがろうとした翠鈴を、手で制する。
「結局、雲嵐さまにお会いすることは叶いませんでした。呂充儀さまの滞在を伸ばす算段しかできず……」
「充分よ。ありがとう」
侍女が用意したお茶を、蘭淑妃が翠鈴に勧める。「もったいないことです」と翠鈴は遠慮したが。飲むように命じられた。
「タオリィも、おかしたべるー」
「じゃあ。翠鈴にもあげてちょうだいね」
桃莉公主は、卓子に置かれた酥を手にとった。蘭淑妃の指示通りに、長椅子に横たわる翠鈴に差しだしてくる。
「はい、ツイリン。ちゃんとたべるのよ」
「ありがとうございます」
「のこしちゃ、ダメだよ」
蘭淑妃はなかなかの策略家だ。桃莉がくれる菓子を食べないという選択肢は、翠鈴にはないことをよく知っている。
泥で作ったままごとの茶湯ですら。他の侍女たちは逃げてしまっても、翠鈴は食べる真似をしてあげたのだから。
その紙を持って、今度は未央宮へ戻る。
遠い。翠鈴の足腰が強いとはいえ、後宮は広すぎる。
全力疾走する翠鈴を、道行く人がふり返る。耳の側で風が鳴る。結んだ髪が跳ねて、背中を叩く。
(ムリ。遠いって)
膝が、がくがくと震えてきた。
未央宮が見えてきたのに、一向に近づかない。足が重い。
そもそも未央宮から秘書省、医局を経てさらに未央宮に戻るという、ろくでもない距離だ。
「つ……つい、た」
ちょうど呂充儀の侍女と、未央宮の門に入ったところで出会った。
駆けているときは、息が上がっていたが。止まると、今度は一気に汗がふきだした。
ぼたぼたと落ちた汗が、地面に吸いこまれていく。汗が目に入って、翠鈴はろくに瞼を開くこともできなかった。
「こ、これを。陛下にお届け、くだ、さい」
「え、なに? 直訴状?」
呂充儀の侍女は、数歩下がった。
なんでそうなる。
目が痛くて、眉を寄せているから。翠鈴の目つきは、普段の十倍は悪い。
「ツイリン。どうしたの? たーいへん」
はい、大変でございますよ。と桃莉に答えてあげることもできない。
桃莉は一生懸命に背伸びをして、手帕で翠鈴の頬を拭いてくれた。
手を洗う習慣がつくようにと、侍女に持たされたものらしい。ふわっと甘い香りがした。
「ごめんなさい。理解が追いつかなくて」と、呂充儀の侍女である南蕾は翠鈴と桃莉公主を見遣る。
南蕾は日に灼けた肌で、瞳が黒々とした健康的な外見だ。
たしかに公主に汗を拭かれている下女、という図はおかしい。
南蕾は、早朝から主が消えて。しかも四夫人の宮で見つかったという知らせを聞いたばかりだ。侍女頭は若くはないので、二十歳ほどの南蕾が走りまわっている。
医師に書いてもらった手紙を、翠鈴は南蕾に渡した。
――呂充儀は安静にしないといけないので、未央宮で休ませるべきである。元気になり次第、文彗宮に戻すとよい。気鬱でもあるので、面会はしばらく認められない。
手紙にはそう書いてある。
「どうしてこれを用意できたの?」
南蕾は問いかけた。呂充儀と似て明るい髪の色だ。
翠鈴が戻ってきたことが分かったのだろう。梅娜が、水を持ってきてくれる。碗に入った水を一息に飲み干して、翠鈴は、ようやくまともに話せるようになった。
「疑う気持ちも分かります。わたしは医局に用事で行くことが多いですし。友人に医官がおりますから。そのツテです」
「もしかして、あなた」
南蕾の声が上ずった。
さっきまで疑いで曇っていた南蕾の瞳に、きらきらとした星が宿る。
翠鈴は、唇の前で人さし指を立てる。そして嫋やかに微笑んだ。
その先は言わぬように、と。
翠鈴は夜更けにばかり商売をしているから。薬を買いに来ていた南蕾の髪色を覚えてはいなかった。
「あの、お会いできて光栄です。昼間にお目にかかれるなんて、思ってもいなくて。いたっ」
南蕾は舌を噛んでしまったらしい。それでも、潤んだ瞳で翠鈴を見つめてくる。
その挙動が不審だったからだろう。桃莉は、翠鈴の背中に隠れてしまった。
医者からの手紙を陛下に届けるために、南蕾は未央宮を出ていった。
「もう無理」
「翠鈴。少し寝てなさい。消灯の仕事に差しつかえるわ」
ぐったりとした翠鈴に、梅娜が長椅子を勧めてくれる。
蘭淑妃が、部屋に入ってきた。さっきまで隣の呂充儀の部屋にいたようだ。
起きあがろうとした翠鈴を、手で制する。
「結局、雲嵐さまにお会いすることは叶いませんでした。呂充儀さまの滞在を伸ばす算段しかできず……」
「充分よ。ありがとう」
侍女が用意したお茶を、蘭淑妃が翠鈴に勧める。「もったいないことです」と翠鈴は遠慮したが。飲むように命じられた。
「タオリィも、おかしたべるー」
「じゃあ。翠鈴にもあげてちょうだいね」
桃莉公主は、卓子に置かれた酥を手にとった。蘭淑妃の指示通りに、長椅子に横たわる翠鈴に差しだしてくる。
「はい、ツイリン。ちゃんとたべるのよ」
「ありがとうございます」
「のこしちゃ、ダメだよ」
蘭淑妃はなかなかの策略家だ。桃莉がくれる菓子を食べないという選択肢は、翠鈴にはないことをよく知っている。
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