後宮の隠れ薬師は、ため息をつく~花果根茎に毒は有り~

絹乃

文字の大きさ
上 下
147 / 184
八章 陽だまりの花園

14、苦土と素鶏【1】

しおりを挟む
 翠鈴は、ほんのわずかな異変に気づいた。
 桃莉に差し伸べた皇帝陛下の手が、微かに震えている。

 尊顔を凝視することはできないので。翠鈴は可能な限りうつむいてはいるのだが。
 左足をわずかに引きずっているように見える。

(陛下なら侍医がいらっしゃるから。病であれば、すぐに治療が施されるだろう)

 病気ではなく、陛下自身も侍医に相談するほどのひどい症状ではないのだろうが。ふと気になった。

「どうかしたか? 翠鈴」

 光柳に声をかけられて、翠鈴は自分の口元を手で隠して、そっと耳打ちした。
 声が洩れ聞こえるかもしれないが。下女が直接皇帝に話しかけることはできない。

「陛下に、就寝中に足がることがおありになるか、お尋ねください」
「ふむ。陛下、就寝中に足が攣ることがおありですか?」
「なぜ分かる? ここのところ、ずっとだ」

 やはり、と翠鈴は考えた。
 直接に症状を訊くことができれば、早いのに。医官になるよう勧められたのに、断ったのだからしょうがない。

芍薬甘草湯しゃくやくかんぞうとうは服用なさっておいでですか?」
「しゃく、やくかん、ぞうとう? は服用なさっておいでですか?」

 いや。単語を切る位置が違うから。
 翠鈴はもどかしくてたまらない。

 案の定、皇帝は首をかしげている。しばらく経ったのち「ああ、芍薬甘草湯のことか」と、こぶしを握った右手を開いた左手で叩いた。
 その拳を握る時も、皇帝の指は曲がりにくそうだ。

「その薬湯であれば、侍医に飲まされたな。それがどうした?」

 どうした? と問われても、光柳に答えの用意はない。光柳は、翠鈴にちらっと視線を向けた。

「もしや豆腐脳トウフナオ豆奬トウジアンはお好みではありませんか?」

 今度は生薬の名前ではないので、光柳は翠鈴の言葉のままに伝えることができた。
 豆奬は、豆乳のことだ。

「豆奬は、どろどろしておるからな。まぁ、どちらも苦手だ」
「では魚は? あと、塩は海塩ではなく岩塩を使っておいででしょうか」
「歯ごたえがないから魚も好かんが。塩はどうだろうな? 余には違いが分からん」

 翠鈴の言葉のままに問いかける光柳だが。なにゆえに、こんな質問を続けるのか、翠鈴に問いたそうだ。
 翠鈴は可能な限り顔を上げず、瞼を伏せていた。

「光柳。その宮女が、余に質問をしたのであろう? これから行かねばならぬところがある。特別に余と言葉を交わすことを許してやろう。顔を上げて、言ってみろ」

 後半の言葉は、翠鈴に向けられたものだった。
 翠鈴は息を呑んだ。

 今の自分は観月の宴で、先帝に寵愛された詩人である松麟美ソンリンメイの代理ではない。ただの下女だ。薬師ではあるが、医官ですらない。

 陛下の症状は、病ではない。振戦しんせんや足が攣ったときの生薬を、侍医の指導どおりに服用なさっているようだが。

(いくら薬を飲み続けても。根本を治さねば、意味はない)

 ぐっとこぶしを握りしめて、翠鈴は顔を上げる。夜風が邪魔をしているのではないかと思えるほど、頭を動かすのが重い。

「畏れながら申しあげます。手も足も、どちらの症状も筋肉が強ばっておいでです。芍薬甘草湯では症状を抑えることはできますが」
「ふむ。他にも飲んでおるぞ。薫衣草くんいそうといったかな。それと洋甘菊ようかんぎくであったかな」

 洋甘菊は、加密列カミツレともいう花だ。どちらも新杷国ではあまり用いられない。

(侍医の処方ではない。だとしたら、誰が?)

 気にかかったが、さすがに陛下に対して、そこまで踏みこんで問うことはできない。

「芍薬甘草湯には、筋肉のこわばりに即効性があります。薫衣草、洋甘菊は、穏やかに効きます」
「なるほど。どちらも良いものだな」

 侍医以外の者を、よほど信頼しているのだろう。皇帝は満足そうな笑みを浮かべた。

 薫衣草も洋甘菊も、西の国の生薬だ。
 翠鈴や胡玲フーリン以外にも、西の生薬に詳しい人が後宮にいることを、翠鈴は初めて知った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。

ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。 ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。 対面した婚約者は、 「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」 ……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。 「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」 今の私はあなたを愛していません。 気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。 ☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。 ☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

醜さを理由に毒を盛られたけど、何だか綺麗になってない?

京月
恋愛
エリーナは生まれつき体に無数の痣があった。 顔にまで広がった痣のせいで周囲から醜いと蔑まれる日々。 貴族令嬢のため婚約をしたが、婚約者から笑顔を向けられたことなど一度もなかった。 「君はあまりにも醜い。僕の幸せのために死んでくれ」 毒を盛られ、体中に走る激痛。 痛みが引いた後起きてみると…。 「あれ?私綺麗になってない?」 ※前編、中編、後編の3話完結  作成済み。

夫の隠し子を見付けたので、溺愛してみた。

辺野夏子
恋愛
セファイア王国王女アリエノールは八歳の時、王命を受けエメレット伯爵家に嫁いだ。それから十年、ずっと仮面夫婦のままだ。アリエノールは先天性の病のため、残りの寿命はあとわずか。日々を穏やかに過ごしているけれど、このままでは生きた証がないまま短い命を散らしてしまう。そんなある日、アリエノールの元に一人の子供が現れた。夫であるカシウスに生き写しな見た目の子供は「この家の子供になりにきた」と宣言する。これは夫の隠し子に間違いないと、アリエノールは継母としてその子を育てることにするのだが……堅物で不器用な夫と、余命わずかで卑屈になっていた妻がお互いの真実に気が付くまでの話。

玉の輿を狙う妹から「邪魔しないで!」と言われているので学業に没頭していたら、王子から求婚されました

歌龍吟伶
恋愛
王立学園四年生のリーリャには、一学年下の妹アーシャがいる。 昔から王子様との結婚を夢見ていたアーシャは自分磨きに余念がない可愛いらしい娘で、六年生である第一王子リュカリウスを狙っているらしい。 入学当時から、「私が王子と結婚するんだからね!お姉ちゃんは邪魔しないで!」と言われていたリーリャは学業に専念していた。 その甲斐あってか学年首位となったある日。 「君のことが好きだから」…まさかの告白!

転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?

朱音ゆうひ
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!  「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」 王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。 不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。 もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた? 他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)

処理中です...