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八章 陽だまりの花園
11、全力疾走
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「やだぁ。おみず、きらい」
「はいはい。お嫌いですよね」
たんぽぽを抜いた後の手を洗うために、翠鈴は桃莉を井戸まで引きずっていった。
桃莉公主は手洗いが下手なので。どうしても袖を濡らしてしまう。
ふつうの手洗いなら、井戸まで行く必要はない。だが、洗という陶器に張った水では、こんな泥だらけの手を洗えない。すぐに水が黒くなるし、土が混じるからだ。
「以前、ままごとで茶湯をお作りになった後も、大変だったのよ」
ついてきてくれた梅娜がため息をこぼす。
皇后陛下の寿華宮を、一緒に訪れたからだろう。桃莉は、侍女の中では梅娜にいちばん懐いている。
「泥が乾いて、手と腕にこびりついてましたから。まだ寒い時でしたし、袖が湿ってお嫌だったんでしょうね」
未央宮を出た裏にある井戸までは、まだ遠い。ふつうであれば、すぐに着くのだが。何しろ桃莉が歩こうとしないのだ。
「桃莉さま。人に見られていますよ。ほら、宦官も笑っています」
「いいもん。タオリィ、わらわれてもへいきだもん」
数えで六歳になったばかりの、華奢な女の子とはいえ。足を突っぱって、歩くのを阻止しようとするので大変だ。
「失礼しますよ。桃莉さま」
どうせ笑われるなら、一瞬の方がいい。
「梅娜さま。走ります」
「え? 翠鈴?」
言うが早いか、翠鈴は桃莉を抱き上げた。さすがに麻袋のように肩には担げない。桃莉はれっきとした公主なのだから。
「わぁ、すごぉい。たかいよ」
「しゃべらないでください。舌を噛みます」
ひとつに結んだ髪をなびかせながら、翠鈴は走る。後を追う梅娜は必死だ。
高い位置で、しかも速い動きで運ばれて。桃莉は楽しいのだろう。梅娜に手をふっている。
「つ、疲れた」
さすがに女の子を抱えての全力疾走は無理がある。
翠鈴は井戸の近くで桃莉を降ろし、地面にへたり込んだ。
「大丈夫? 翠鈴。あとは任せて」
梅娜が井戸から水を汲んで、桃莉の手を洗う。さすがに桃莉も、これ以上の我儘は言えないと察したのだろう。
さすがは侍女頭。桃莉の袖が濡れぬように、上げた袖を紐で結んでいる。
水場なので辺りは常に湿っていて、苔の匂いがした。
「ねぇねぇ、ツイリン。さっきのをおてがみにかいてもいーい?」
「もしかして、抱えて走ったことですか?」
「そうっ。ジエホアおねえさまに、おしえてあげたいの。ツイリン、馬みたいにはやいよ」
きらきらと輝くような笑顔を見せられたら。何でも許してしまう。
(わたしは桃莉さまに甘いなぁ)
自分に呆れながらも、翠鈴は「いいですよ」と応じていた。
きっと明日は筋肉痛だ。
◇◇◇
たんぽぽの根を乾かすには、日数がかかる。なので翠鈴は、葉を刻んでお茶にした。
「どうぞ」
淡い琥珀色のお茶は、見た感じでは半発酵の青茶に見える。
「野草みたいな匂いね」
「温かいと、少し気になりますね。冷めれば、匂いもあまり感じませんよ」
恐る恐る碗を手にした蘭淑妃が、ひとくち飲んでみる。
「少し苦いかしら」
「なるほど枯れた草って感じがしますね」
蘭淑妃と梅娜が、椅子に座って感想を言いあっている。
「皇后陛下にご用意した黒豆茶は、もっと飲みやすいですよ。香ばしくて、ほのかに甘いんです」
出産後にはたんぽぽ茶の方がよさそうだが。さすがに皇后陛下に勧めるのは、遠慮した方がよさそうだ。
蘭淑妃は気さくで、ためらいながらも変わったものを試してくれる。でもきっと、これは普通じゃない。他の妃は、たかが宮女とここまで親しくしてくれないだろう。
「タオリィも、のみたい」
蘭淑妃の膝によじのぼった桃莉公主が、碗を受けとる。
「大丈夫? 桃莉。苦いわよ」
「へいき。タオリィ、なんでも……うえぇ」
ああ、と梅娜と翠鈴は頭を抱えた。案の定、桃莉はたんぽぽ茶を口から出してしまった。
少量だから卓にこぼれた程度だが。梅娜が慌てて、布巾で卓を拭く。
「こんな調子で、本当に潔華さまに呆れられないかしら」
母親の言葉に、桃莉の耳がぴくっと動いたように見えた。実際は耳たぶを動かすことはできないだろうが。
「ジエホアおねえさま。あきれないよ」
「そうなの?」
「うん。おねえさまは、やさしいもん」
桃莉は、卓に載っている器に手を伸ばした。中には冬瓜の砂糖漬けが入っている。
お口直しだろう、澄んだ白の冬瓜を手で掴んで食べる。外側の砂糖が砕けるしゃりっという音が聞こえた。
「ねぇ、桃莉。お母さま、思うんだけど。潔華さまは冬瓜の砂糖漬けを、手づかみでは召しあがらないと思うわよ」
「うん。タオリィもそうおもう。おかあさま、よくしってるね」
残念ながら、遠まわしな注意は桃莉には伝わらなかった。
「はいはい。お嫌いですよね」
たんぽぽを抜いた後の手を洗うために、翠鈴は桃莉を井戸まで引きずっていった。
桃莉公主は手洗いが下手なので。どうしても袖を濡らしてしまう。
ふつうの手洗いなら、井戸まで行く必要はない。だが、洗という陶器に張った水では、こんな泥だらけの手を洗えない。すぐに水が黒くなるし、土が混じるからだ。
「以前、ままごとで茶湯をお作りになった後も、大変だったのよ」
ついてきてくれた梅娜がため息をこぼす。
皇后陛下の寿華宮を、一緒に訪れたからだろう。桃莉は、侍女の中では梅娜にいちばん懐いている。
「泥が乾いて、手と腕にこびりついてましたから。まだ寒い時でしたし、袖が湿ってお嫌だったんでしょうね」
未央宮を出た裏にある井戸までは、まだ遠い。ふつうであれば、すぐに着くのだが。何しろ桃莉が歩こうとしないのだ。
「桃莉さま。人に見られていますよ。ほら、宦官も笑っています」
「いいもん。タオリィ、わらわれてもへいきだもん」
数えで六歳になったばかりの、華奢な女の子とはいえ。足を突っぱって、歩くのを阻止しようとするので大変だ。
「失礼しますよ。桃莉さま」
どうせ笑われるなら、一瞬の方がいい。
「梅娜さま。走ります」
「え? 翠鈴?」
言うが早いか、翠鈴は桃莉を抱き上げた。さすがに麻袋のように肩には担げない。桃莉はれっきとした公主なのだから。
「わぁ、すごぉい。たかいよ」
「しゃべらないでください。舌を噛みます」
ひとつに結んだ髪をなびかせながら、翠鈴は走る。後を追う梅娜は必死だ。
高い位置で、しかも速い動きで運ばれて。桃莉は楽しいのだろう。梅娜に手をふっている。
「つ、疲れた」
さすがに女の子を抱えての全力疾走は無理がある。
翠鈴は井戸の近くで桃莉を降ろし、地面にへたり込んだ。
「大丈夫? 翠鈴。あとは任せて」
梅娜が井戸から水を汲んで、桃莉の手を洗う。さすがに桃莉も、これ以上の我儘は言えないと察したのだろう。
さすがは侍女頭。桃莉の袖が濡れぬように、上げた袖を紐で結んでいる。
水場なので辺りは常に湿っていて、苔の匂いがした。
「ねぇねぇ、ツイリン。さっきのをおてがみにかいてもいーい?」
「もしかして、抱えて走ったことですか?」
「そうっ。ジエホアおねえさまに、おしえてあげたいの。ツイリン、馬みたいにはやいよ」
きらきらと輝くような笑顔を見せられたら。何でも許してしまう。
(わたしは桃莉さまに甘いなぁ)
自分に呆れながらも、翠鈴は「いいですよ」と応じていた。
きっと明日は筋肉痛だ。
◇◇◇
たんぽぽの根を乾かすには、日数がかかる。なので翠鈴は、葉を刻んでお茶にした。
「どうぞ」
淡い琥珀色のお茶は、見た感じでは半発酵の青茶に見える。
「野草みたいな匂いね」
「温かいと、少し気になりますね。冷めれば、匂いもあまり感じませんよ」
恐る恐る碗を手にした蘭淑妃が、ひとくち飲んでみる。
「少し苦いかしら」
「なるほど枯れた草って感じがしますね」
蘭淑妃と梅娜が、椅子に座って感想を言いあっている。
「皇后陛下にご用意した黒豆茶は、もっと飲みやすいですよ。香ばしくて、ほのかに甘いんです」
出産後にはたんぽぽ茶の方がよさそうだが。さすがに皇后陛下に勧めるのは、遠慮した方がよさそうだ。
蘭淑妃は気さくで、ためらいながらも変わったものを試してくれる。でもきっと、これは普通じゃない。他の妃は、たかが宮女とここまで親しくしてくれないだろう。
「タオリィも、のみたい」
蘭淑妃の膝によじのぼった桃莉公主が、碗を受けとる。
「大丈夫? 桃莉。苦いわよ」
「へいき。タオリィ、なんでも……うえぇ」
ああ、と梅娜と翠鈴は頭を抱えた。案の定、桃莉はたんぽぽ茶を口から出してしまった。
少量だから卓にこぼれた程度だが。梅娜が慌てて、布巾で卓を拭く。
「こんな調子で、本当に潔華さまに呆れられないかしら」
母親の言葉に、桃莉の耳がぴくっと動いたように見えた。実際は耳たぶを動かすことはできないだろうが。
「ジエホアおねえさま。あきれないよ」
「そうなの?」
「うん。おねえさまは、やさしいもん」
桃莉は、卓に載っている器に手を伸ばした。中には冬瓜の砂糖漬けが入っている。
お口直しだろう、澄んだ白の冬瓜を手で掴んで食べる。外側の砂糖が砕けるしゃりっという音が聞こえた。
「ねぇ、桃莉。お母さま、思うんだけど。潔華さまは冬瓜の砂糖漬けを、手づかみでは召しあがらないと思うわよ」
「うん。タオリィもそうおもう。おかあさま、よくしってるね」
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