143 / 184
八章 陽だまりの花園
10、根のお茶
しおりを挟む
「翠鈴。どうして顔を見せてくれないんだ?」
光柳が、翠鈴の両手首に手を添える。
「……恥ずかしいからです」
「そうか。恥ずかしいなら、雲嵐には後ろを向いていてもらおうか?」
手で顔を覆っているから、状況は見えないけれど。橋面を擦るような音がした。雲嵐が体の向きを変えたのだろう。
(まだ頼まれてもいないのに。律儀すぎます、雲嵐さま)
とにかく平常心だ。翠鈴は深呼吸をした。
春節を迎えて十六歳であっても、あまりにも初心な反応だ。しかも実際の翠鈴は数えで二十三になった。
(下手をしたら、桃莉公主の方がわたしよりも先に恋愛に慣れておしまいになるかも)
いけない。身分はともかく、年長者としてそれはいけない。
「こんな夜にお会いできるとは思ってませんでした。嬉しいです」
きっと口元はこわばっている。笑顔だってぎこちないはずだ。
なのに。光柳は「そ、そうか」と照れている。
あまりにも静かで、池の水面を風が渡る音さえ聞こえる。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
さすがに痺れを切らしたらしい雲嵐が、ふたりに声をかけた。
「そろそろ戻って寝ないと。おふたりとも、明日の仕事に差し支えますよ」
緊張の糸が切れたのかもしれない。翠鈴は橋の欄干に手をついて、呼吸を整えた。
(慣れることができるのかな、わたし)
雲嵐が話しかけてくれなかったら、朝まで橋の上で、光柳と向かい合っていたかもしれない。
◇◇◇
皇后のお腹の子は順調に育っているようだ。
翠鈴は蘭淑妃や侍女頭の梅娜と一緒に、お茶を選んでいた。皇后陛下に蘭淑妃が贈るのだという。
部屋の中央にある紫檀の机の上に、翠鈴が用意したものが並んでいる。
「お茶といっても、茶葉じゃないのね」
梅娜は、布を敷いた上にいくつも並んだ素材を眺めた。
「夜にお茶を飲むと、寝つきが悪くないですか? 茶葉がよくないみたいですよ」
翠鈴の注文を受けて、素材を注文してくれたのは他の侍女だ。だから梅娜は初めて見るのだろう。
「黒豆がお茶になるのね」
蘭淑妃は椅子から立ち上がって、黒豆の小山に触れた。ころころと頂上の豆がこぼれ落ちる。
「黒豆衣といって、黒豆の皮は生薬にもなる食べ物なんです。『神農本草経』に記載されています」
豆そのものだけではない。大豆黄巻という黒豆に芽が生えたもやしも、生薬だ。
「翠鈴。この葉のついた根は? なんだか濡れてるけど。まさかこれもお茶になるの?」
「ほんとね。庭から引っこ抜いた雑草みたいね」
梅娜と蘭淑妃は、きざきざの緑の葉がついた根を凝視している。触るのも恐々といった様子だ。
その時。ギィッと部屋の扉が開いた。
「それね、タオリィもがんばったの」
今日もまた、手を土で汚した桃莉公主が室内に入ってくる。
「桃莉さま。手を洗ってくださいと申しあげたはずですが」
「うん、あとでね。ツイリン」
返事はいいが。これは井戸まで連行しないと、きっと手を洗わないだろう。
桃莉公主は背伸びをして、机の上を覗きこんだ。
「これね、たんぽぽの根っこだよ。タオリィもあつめるの、てつだったんだ」
説明する声が弾んでいる。きっと字の勉強から逃げられて、ご機嫌なのだろう。
「たんぽぽの根を、どうするのかしら」
「もちろんお茶にしますよ。もう洗ってあるので、あとは刻んで干すんです」
蘭淑妃が、短い悲鳴を上げた。
「く、黒豆は分かるわ。でも、雑草の根っこを皇后娘娘に差しあげるのは」
「ええ。これはわたしたちで飲もうと思って、用意したんです。たんぽぽは菊の種類ですから。人によっては、体に合わないことがあるんです。淑妃さまも梅娜さまも、菊茶はふだんから召しあがっておいでですから大丈夫ですよ」
ふたりは顔を見合わせた。
どうみても雑草でしかないたんぽぽだ。しかも庭に生えていたもの。
けれど桃莉ががんばったのだから、飲まないと泣いてしまうかも。
この間も泥で作った茶湯から逃げたけれど。今回はさすがに断れないかも。
声には出さないのに。蘭淑妃と梅娜は表情で、雄弁に会話している。
「大丈夫ですよ。ちゃんときれいに洗いますし。根は乾燥させますから」
それでも蘭淑妃と梅娜は不安げだ。
よし、もう一押し。
「たんぽぽは、蒲公英といって、全草が生薬なんです。西の国では健胃……つまり胃を元気にします。もし皇后陛下がたんぽぽを摂取しても問題なければ、お勧めなのですが。哺乳期に、お子さまが元気にお育ちになりますから」
「そう、なの?」
蘭淑妃の心が揺らいだのが分かった。ふらーっと翠鈴の方へ近寄ったからだ。
「いけません、淑妃さま。明らかに雑草ですよ」
「そうだ、思い出しました。これからの季節、たんぽぽ茶は食中毒にも効きます」と、翠鈴はつけ加えた。
「それ、いいわね」
さっきまで否定的だった梅娜が陥落した。
うん、いける。未央宮の庭の奥には、たんぽぽがかなり生えている。菊茶が平気かどうか確認を取った上で、たんぽぽ茶を売ることにしよう。
翠鈴の目は輝いた。
光柳が、翠鈴の両手首に手を添える。
「……恥ずかしいからです」
「そうか。恥ずかしいなら、雲嵐には後ろを向いていてもらおうか?」
手で顔を覆っているから、状況は見えないけれど。橋面を擦るような音がした。雲嵐が体の向きを変えたのだろう。
(まだ頼まれてもいないのに。律儀すぎます、雲嵐さま)
とにかく平常心だ。翠鈴は深呼吸をした。
春節を迎えて十六歳であっても、あまりにも初心な反応だ。しかも実際の翠鈴は数えで二十三になった。
(下手をしたら、桃莉公主の方がわたしよりも先に恋愛に慣れておしまいになるかも)
いけない。身分はともかく、年長者としてそれはいけない。
「こんな夜にお会いできるとは思ってませんでした。嬉しいです」
きっと口元はこわばっている。笑顔だってぎこちないはずだ。
なのに。光柳は「そ、そうか」と照れている。
あまりにも静かで、池の水面を風が渡る音さえ聞こえる。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
さすがに痺れを切らしたらしい雲嵐が、ふたりに声をかけた。
「そろそろ戻って寝ないと。おふたりとも、明日の仕事に差し支えますよ」
緊張の糸が切れたのかもしれない。翠鈴は橋の欄干に手をついて、呼吸を整えた。
(慣れることができるのかな、わたし)
雲嵐が話しかけてくれなかったら、朝まで橋の上で、光柳と向かい合っていたかもしれない。
◇◇◇
皇后のお腹の子は順調に育っているようだ。
翠鈴は蘭淑妃や侍女頭の梅娜と一緒に、お茶を選んでいた。皇后陛下に蘭淑妃が贈るのだという。
部屋の中央にある紫檀の机の上に、翠鈴が用意したものが並んでいる。
「お茶といっても、茶葉じゃないのね」
梅娜は、布を敷いた上にいくつも並んだ素材を眺めた。
「夜にお茶を飲むと、寝つきが悪くないですか? 茶葉がよくないみたいですよ」
翠鈴の注文を受けて、素材を注文してくれたのは他の侍女だ。だから梅娜は初めて見るのだろう。
「黒豆がお茶になるのね」
蘭淑妃は椅子から立ち上がって、黒豆の小山に触れた。ころころと頂上の豆がこぼれ落ちる。
「黒豆衣といって、黒豆の皮は生薬にもなる食べ物なんです。『神農本草経』に記載されています」
豆そのものだけではない。大豆黄巻という黒豆に芽が生えたもやしも、生薬だ。
「翠鈴。この葉のついた根は? なんだか濡れてるけど。まさかこれもお茶になるの?」
「ほんとね。庭から引っこ抜いた雑草みたいね」
梅娜と蘭淑妃は、きざきざの緑の葉がついた根を凝視している。触るのも恐々といった様子だ。
その時。ギィッと部屋の扉が開いた。
「それね、タオリィもがんばったの」
今日もまた、手を土で汚した桃莉公主が室内に入ってくる。
「桃莉さま。手を洗ってくださいと申しあげたはずですが」
「うん、あとでね。ツイリン」
返事はいいが。これは井戸まで連行しないと、きっと手を洗わないだろう。
桃莉公主は背伸びをして、机の上を覗きこんだ。
「これね、たんぽぽの根っこだよ。タオリィもあつめるの、てつだったんだ」
説明する声が弾んでいる。きっと字の勉強から逃げられて、ご機嫌なのだろう。
「たんぽぽの根を、どうするのかしら」
「もちろんお茶にしますよ。もう洗ってあるので、あとは刻んで干すんです」
蘭淑妃が、短い悲鳴を上げた。
「く、黒豆は分かるわ。でも、雑草の根っこを皇后娘娘に差しあげるのは」
「ええ。これはわたしたちで飲もうと思って、用意したんです。たんぽぽは菊の種類ですから。人によっては、体に合わないことがあるんです。淑妃さまも梅娜さまも、菊茶はふだんから召しあがっておいでですから大丈夫ですよ」
ふたりは顔を見合わせた。
どうみても雑草でしかないたんぽぽだ。しかも庭に生えていたもの。
けれど桃莉ががんばったのだから、飲まないと泣いてしまうかも。
この間も泥で作った茶湯から逃げたけれど。今回はさすがに断れないかも。
声には出さないのに。蘭淑妃と梅娜は表情で、雄弁に会話している。
「大丈夫ですよ。ちゃんときれいに洗いますし。根は乾燥させますから」
それでも蘭淑妃と梅娜は不安げだ。
よし、もう一押し。
「たんぽぽは、蒲公英といって、全草が生薬なんです。西の国では健胃……つまり胃を元気にします。もし皇后陛下がたんぽぽを摂取しても問題なければ、お勧めなのですが。哺乳期に、お子さまが元気にお育ちになりますから」
「そう、なの?」
蘭淑妃の心が揺らいだのが分かった。ふらーっと翠鈴の方へ近寄ったからだ。
「いけません、淑妃さま。明らかに雑草ですよ」
「そうだ、思い出しました。これからの季節、たんぽぽ茶は食中毒にも効きます」と、翠鈴はつけ加えた。
「それ、いいわね」
さっきまで否定的だった梅娜が陥落した。
うん、いける。未央宮の庭の奥には、たんぽぽがかなり生えている。菊茶が平気かどうか確認を取った上で、たんぽぽ茶を売ることにしよう。
翠鈴の目は輝いた。
126
お気に入りに追加
732
あなたにおすすめの小説

夫の隠し子を見付けたので、溺愛してみた。
辺野夏子
恋愛
セファイア王国王女アリエノールは八歳の時、王命を受けエメレット伯爵家に嫁いだ。それから十年、ずっと仮面夫婦のままだ。アリエノールは先天性の病のため、残りの寿命はあとわずか。日々を穏やかに過ごしているけれど、このままでは生きた証がないまま短い命を散らしてしまう。そんなある日、アリエノールの元に一人の子供が現れた。夫であるカシウスに生き写しな見た目の子供は「この家の子供になりにきた」と宣言する。これは夫の隠し子に間違いないと、アリエノールは継母としてその子を育てることにするのだが……堅物で不器用な夫と、余命わずかで卑屈になっていた妻がお互いの真実に気が付くまでの話。
お前など家族ではない!と叩き出されましたが、家族になってくれという奇特な騎士に拾われました
蒼衣翼
恋愛
アイメリアは今年十五歳になる少女だ。
家族に虐げられて召使いのように働かされて育ったアイメリアは、ある日突然、父親であった存在に「お前など家族ではない!」と追い出されてしまう。
アイメリアは養子であり、家族とは血の繋がりはなかったのだ。
閉じ込められたまま外を知らずに育ったアイメリアは窮地に陥るが、救ってくれた騎士の身の回りの世話をする仕事を得る。
養父母と義姉が自らの企みによって窮地に陥り、落ちぶれていく一方で、アイメリアはその秘められた才能を開花させ、救い主の騎士と心を通わせ、自らの居場所を作っていくのだった。
※小説家になろうさま・カクヨムさまにも掲載しています。

大好きだった旦那様に離縁され家を追い出されましたが、騎士団長様に拾われ溺愛されました
Karamimi
恋愛
2年前に両親を亡くしたスカーレットは、1年前幼馴染で3つ年上のデビッドと結婚した。両親が亡くなった時もずっと寄り添ってくれていたデビッドの為に、毎日家事や仕事をこなすスカーレット。
そんな中迎えた結婚1年記念の日。この日はデビッドの為に、沢山のご馳走を作って待っていた。そしていつもの様に帰ってくるデビッド。でもデビッドの隣には、美しい女性の姿が。
「俺は彼女の事を心から愛している。悪いがスカーレット、どうか俺と離縁して欲しい。そして今すぐ、この家から出て行ってくれるか?」
そうスカーレットに言い放ったのだ。何とか考え直して欲しいと訴えたが、全く聞く耳を持たないデビッド。それどころか、スカーレットに数々の暴言を吐き、ついにはスカーレットの荷物と共に、彼女を追い出してしまった。
荷物を持ち、泣きながら街を歩くスカーレットに声をかけて来たのは、この街の騎士団長だ。一旦騎士団長の家に保護してもらったスカーレットは、さっき起こった出来事を騎士団長に話した。
「なんてひどい男だ!とにかく落ち着くまで、ここにいるといい」
行く当てもないスカーレットは結局騎士団長の家にお世話になる事に
※他サイトにも投稿しています
よろしくお願いします

玉の輿を狙う妹から「邪魔しないで!」と言われているので学業に没頭していたら、王子から求婚されました
歌龍吟伶
恋愛
王立学園四年生のリーリャには、一学年下の妹アーシャがいる。
昔から王子様との結婚を夢見ていたアーシャは自分磨きに余念がない可愛いらしい娘で、六年生である第一王子リュカリウスを狙っているらしい。
入学当時から、「私が王子と結婚するんだからね!お姉ちゃんは邪魔しないで!」と言われていたリーリャは学業に専念していた。
その甲斐あってか学年首位となったある日。
「君のことが好きだから」…まさかの告白!

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

契約婚なのだから契約を守るべきでしたわ、旦那様。
よもぎ
恋愛
白い結婚を三年間。その他いくつかの決まり事。アンネリーナはその条件を呑み、三年を過ごした。そうして結婚が終わるその日になって三年振りに会った戸籍上の夫に離縁を切り出されたアンネリーナは言う。追加の慰謝料を頂きます――
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる