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八章 陽だまりの花園

8、初めての疑問

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 花園で休日を過ごした翌日。

 翠鈴は、食堂で夕食をとっていた。あんなにも花海棠はなかいどうが満開で、過ごしやすい日が続いていたのに。
 また冬に逆戻りだ。

「翠鈴。鼻水が止まらないよぉ」と、由由は匙を置いた。
 あまりにも情けない悩みだったのだろう。由由は涙目で、鼻に麻の手帕ハンカチを当てている。

「大丈夫? 風邪かもしれないわ。宿舎に先に帰って休む?」

 食堂で夕食の皮凍ピードンを食べながら、翠鈴は問うた。
 豚の皮の煮凝りである皮凍は、果凍ゼリーと同じで口の中ではかなく溶けるが。皮のコリコリとした食感もある。辛くて酸っぱい料理だ。

 そういえば果凍ゼリーも、豚の皮を煮詰めた液で果汁を固めるはずだ。ただし今日みたいに寒い日じゃないと、うまく固まらない。

「風邪なら陳皮チンピを分けるけど。宿舎で渡そうか?」
「ううん。風邪じゃなさそう。喉も痛くないし、咳もないよ」

 うつむくと洟が垂れてしまうのだろう。由由は天井を見上げた。
 食堂内を見まわせば、由由のように上を向いている人が多い。鼻を押さえるのが祈りの形の宗教のようだ。

「医局には行かないの?」
「行くほどじゃないんだよね。治ってる日もあるし。でも、熱はないのにだるい日もあるの」

 由由は鼻声で答えた。

 そういえば、季節の変わり目は体調を崩す人が多いと聞く。
 春になり、過ごしやすくなったのは喜ばしいのだが。残念なことに、季節は一進一退だ。
 まるで初夏かと間違うほどに温かくなったかと思えば。その数日後には、冬に逆戻りだ。 

「蘭淑妃や桃莉公主みたいに高貴な身分なら、侍女たちが火鉢で部屋を暖めたり、窗を開けたりして調節するんだけど」

 残念ながら、宮女は忙しく立ち働いている。

 急に冷えてきたからといって、仕事の途中に宿舎に戻ってかわごろもを羽織るわけにもいかない。寒さを我慢したまま勤務を続けないといけない。

「これは五苓散ごれいさんが必要ね」
「ごれいさん?」
「医局に行って、症状を訴えれば五苓散を出してもらえるわよ」

 猪苓ちょれい茯苓ぶくりょうといったキノコ。
 沢瀉たくしゃというオモダカの塊茎かいけい、オケラの根茎である蒼朮そうじゅつ桂皮けいひ
 この五つの生薬が、寒暖差からくる鼻水や頭痛、だるさにも効く。

 翠鈴の勧めに、由由はぶんぶんと首をふった。

「いやだよ。恥ずかしいもん」
「なんで? 鼻水が止まりませんって言えば、すぐに処方してくれるのに」

 もしかして。
 翠鈴の目が輝いた。きらん! と。

 これまでも言いづらい部分のかゆみや、切れちゃった痔など、医官に相談するには恥ずかしい症状の薬を作ってきた。
 これがとにかくよく売れた。手荒れの薬と同じくらいに。

(咳やくしゃみは人に言えても。鼻水は言いづらいわよね)

 医局が生薬を購入する時に、五苓散も頼めないか胡玲に訊いてみよう。

(気軽に後宮の外に出られたら、すぐに仕入れることができるんだけど)

 ん? 翠鈴は気づいた。

「ねぇ、由由。どうして医官には話しづらい症状を、わたしになら言えるの?」
「無理に決まってるよ。だって、医局にいる女官って、なんかこう怖いじゃない。つんってしてるっていうか」

 つんとしてるかなぁ? 翠鈴は首をかしげる。

「『あーら、鼻水くらいで医局にいらしたの? おとといおいであそばせ』って冷たく言われそう」

 うーん、二度と来るななんて誰も言わないけどなぁ。
 生薬の扱いには細心の注意を払わないといけないから。その態度が厳しく見られることもあるかもしれないけど。

 味も香りも薄い茎茶を、翠鈴はひとくち飲んだ。

 宮女も医官も侍女も、話している内容はさほど変わらない。もちろん宮女は、仕事が大変なので愚痴が多いのは認めるけれど。
 通いやすくて、話しやすくて、気軽に相談に乗ってくれて。そういう場所があれば、何も寝不足になってまで夜更けの薬売りを頼らなくてもいいのに。

(もしかしてこれも商機かな?)

 まだ白い霧に包まれた、ぼやっとした考えだが。
 光柳に思いを打ち明けたことで、翠鈴は未来を思い描くようになった。

(光柳さま。ちゃんと眠れたかな)

 翠鈴は薫衣草くんいそうを渡した時のことを思い出した。

 薫衣草も冬菩提樹ふゆぼだいじゅも、翠鈴と胡玲にとってはよく知る西の生薬だ。だが、他の医官は「聞いたことがないわ」「見るのも初めてよ」と、顔を見合わせていた。

(たしかに珍しいけど。薬師の里の人間なら、新杷国のどこで薫衣草が栽培されているかも知っているのに)

 自分の中に当たり前のように存在する知識は、ふつうではなかったのだ。

 薬師の里では薫衣草はうまく育たない。王都である杷京ですら、知る人は少ない。
 この知識が、どうやってあんな田舎の村に伝わったのだろう。

 翠鈴は、自らの知識に初めて疑問を抱いた。
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