141 / 184
八章 陽だまりの花園
8、初めての疑問
しおりを挟む
花園で休日を過ごした翌日。
翠鈴は、食堂で夕食をとっていた。あんなにも花海棠が満開で、過ごしやすい日が続いていたのに。
また冬に逆戻りだ。
「翠鈴。鼻水が止まらないよぉ」と、由由は匙を置いた。
あまりにも情けない悩みだったのだろう。由由は涙目で、鼻に麻の手帕を当てている。
「大丈夫? 風邪かもしれないわ。宿舎に先に帰って休む?」
食堂で夕食の皮凍を食べながら、翠鈴は問うた。
豚の皮の煮凝りである皮凍は、果凍と同じで口の中ではかなく溶けるが。皮のコリコリとした食感もある。辛くて酸っぱい料理だ。
そういえば果凍も、豚の皮を煮詰めた液で果汁を固めるはずだ。ただし今日みたいに寒い日じゃないと、うまく固まらない。
「風邪なら陳皮を分けるけど。宿舎で渡そうか?」
「ううん。風邪じゃなさそう。喉も痛くないし、咳もないよ」
うつむくと洟が垂れてしまうのだろう。由由は天井を見上げた。
食堂内を見まわせば、由由のように上を向いている人が多い。鼻を押さえるのが祈りの形の宗教のようだ。
「医局には行かないの?」
「行くほどじゃないんだよね。治ってる日もあるし。でも、熱はないのにだるい日もあるの」
由由は鼻声で答えた。
そういえば、季節の変わり目は体調を崩す人が多いと聞く。
春になり、過ごしやすくなったのは喜ばしいのだが。残念なことに、季節は一進一退だ。
まるで初夏かと間違うほどに温かくなったかと思えば。その数日後には、冬に逆戻りだ。
「蘭淑妃や桃莉公主みたいに高貴な身分なら、侍女たちが火鉢で部屋を暖めたり、窗を開けたりして調節するんだけど」
残念ながら、宮女は忙しく立ち働いている。
急に冷えてきたからといって、仕事の途中に宿舎に戻って裘を羽織るわけにもいかない。寒さを我慢したまま勤務を続けないといけない。
「これは五苓散が必要ね」
「ごれいさん?」
「医局に行って、症状を訴えれば五苓散を出してもらえるわよ」
猪苓や茯苓といったキノコ。
沢瀉というオモダカの塊茎、オケラの根茎である蒼朮に桂皮。
この五つの生薬が、寒暖差からくる鼻水や頭痛、だるさにも効く。
翠鈴の勧めに、由由はぶんぶんと首をふった。
「いやだよ。恥ずかしいもん」
「なんで? 鼻水が止まりませんって言えば、すぐに処方してくれるのに」
もしかして。
翠鈴の目が輝いた。きらん! と。
これまでも言いづらい部分のかゆみや、切れちゃった痔など、医官に相談するには恥ずかしい症状の薬を作ってきた。
これがとにかくよく売れた。手荒れの薬と同じくらいに。
(咳やくしゃみは人に言えても。鼻水は言いづらいわよね)
医局が生薬を購入する時に、五苓散も頼めないか胡玲に訊いてみよう。
(気軽に後宮の外に出られたら、すぐに仕入れることができるんだけど)
ん? 翠鈴は気づいた。
「ねぇ、由由。どうして医官には話しづらい症状を、わたしになら言えるの?」
「無理に決まってるよ。だって、医局にいる女官って、なんかこう怖いじゃない。つんってしてるっていうか」
つんとしてるかなぁ? 翠鈴は首をかしげる。
「『あーら、鼻水くらいで医局にいらしたの? おとといおいであそばせ』って冷たく言われそう」
うーん、二度と来るななんて誰も言わないけどなぁ。
生薬の扱いには細心の注意を払わないといけないから。その態度が厳しく見られることもあるかもしれないけど。
味も香りも薄い茎茶を、翠鈴はひとくち飲んだ。
宮女も医官も侍女も、話している内容はさほど変わらない。もちろん宮女は、仕事が大変なので愚痴が多いのは認めるけれど。
通いやすくて、話しやすくて、気軽に相談に乗ってくれて。そういう場所があれば、何も寝不足になってまで夜更けの薬売りを頼らなくてもいいのに。
(もしかしてこれも商機かな?)
まだ白い霧に包まれた、ぼやっとした考えだが。
光柳に思いを打ち明けたことで、翠鈴は未来を思い描くようになった。
(光柳さま。ちゃんと眠れたかな)
翠鈴は薫衣草を渡した時のことを思い出した。
薫衣草も冬菩提樹も、翠鈴と胡玲にとってはよく知る西の生薬だ。だが、他の医官は「聞いたことがないわ」「見るのも初めてよ」と、顔を見合わせていた。
(たしかに珍しいけど。薬師の里の人間なら、新杷国のどこで薫衣草が栽培されているかも知っているのに)
自分の中に当たり前のように存在する知識は、ふつうではなかったのだ。
薬師の里では薫衣草はうまく育たない。王都である杷京ですら、知る人は少ない。
この知識が、どうやってあんな田舎の村に伝わったのだろう。
翠鈴は、自らの知識に初めて疑問を抱いた。
翠鈴は、食堂で夕食をとっていた。あんなにも花海棠が満開で、過ごしやすい日が続いていたのに。
また冬に逆戻りだ。
「翠鈴。鼻水が止まらないよぉ」と、由由は匙を置いた。
あまりにも情けない悩みだったのだろう。由由は涙目で、鼻に麻の手帕を当てている。
「大丈夫? 風邪かもしれないわ。宿舎に先に帰って休む?」
食堂で夕食の皮凍を食べながら、翠鈴は問うた。
豚の皮の煮凝りである皮凍は、果凍と同じで口の中ではかなく溶けるが。皮のコリコリとした食感もある。辛くて酸っぱい料理だ。
そういえば果凍も、豚の皮を煮詰めた液で果汁を固めるはずだ。ただし今日みたいに寒い日じゃないと、うまく固まらない。
「風邪なら陳皮を分けるけど。宿舎で渡そうか?」
「ううん。風邪じゃなさそう。喉も痛くないし、咳もないよ」
うつむくと洟が垂れてしまうのだろう。由由は天井を見上げた。
食堂内を見まわせば、由由のように上を向いている人が多い。鼻を押さえるのが祈りの形の宗教のようだ。
「医局には行かないの?」
「行くほどじゃないんだよね。治ってる日もあるし。でも、熱はないのにだるい日もあるの」
由由は鼻声で答えた。
そういえば、季節の変わり目は体調を崩す人が多いと聞く。
春になり、過ごしやすくなったのは喜ばしいのだが。残念なことに、季節は一進一退だ。
まるで初夏かと間違うほどに温かくなったかと思えば。その数日後には、冬に逆戻りだ。
「蘭淑妃や桃莉公主みたいに高貴な身分なら、侍女たちが火鉢で部屋を暖めたり、窗を開けたりして調節するんだけど」
残念ながら、宮女は忙しく立ち働いている。
急に冷えてきたからといって、仕事の途中に宿舎に戻って裘を羽織るわけにもいかない。寒さを我慢したまま勤務を続けないといけない。
「これは五苓散が必要ね」
「ごれいさん?」
「医局に行って、症状を訴えれば五苓散を出してもらえるわよ」
猪苓や茯苓といったキノコ。
沢瀉というオモダカの塊茎、オケラの根茎である蒼朮に桂皮。
この五つの生薬が、寒暖差からくる鼻水や頭痛、だるさにも効く。
翠鈴の勧めに、由由はぶんぶんと首をふった。
「いやだよ。恥ずかしいもん」
「なんで? 鼻水が止まりませんって言えば、すぐに処方してくれるのに」
もしかして。
翠鈴の目が輝いた。きらん! と。
これまでも言いづらい部分のかゆみや、切れちゃった痔など、医官に相談するには恥ずかしい症状の薬を作ってきた。
これがとにかくよく売れた。手荒れの薬と同じくらいに。
(咳やくしゃみは人に言えても。鼻水は言いづらいわよね)
医局が生薬を購入する時に、五苓散も頼めないか胡玲に訊いてみよう。
(気軽に後宮の外に出られたら、すぐに仕入れることができるんだけど)
ん? 翠鈴は気づいた。
「ねぇ、由由。どうして医官には話しづらい症状を、わたしになら言えるの?」
「無理に決まってるよ。だって、医局にいる女官って、なんかこう怖いじゃない。つんってしてるっていうか」
つんとしてるかなぁ? 翠鈴は首をかしげる。
「『あーら、鼻水くらいで医局にいらしたの? おとといおいであそばせ』って冷たく言われそう」
うーん、二度と来るななんて誰も言わないけどなぁ。
生薬の扱いには細心の注意を払わないといけないから。その態度が厳しく見られることもあるかもしれないけど。
味も香りも薄い茎茶を、翠鈴はひとくち飲んだ。
宮女も医官も侍女も、話している内容はさほど変わらない。もちろん宮女は、仕事が大変なので愚痴が多いのは認めるけれど。
通いやすくて、話しやすくて、気軽に相談に乗ってくれて。そういう場所があれば、何も寝不足になってまで夜更けの薬売りを頼らなくてもいいのに。
(もしかしてこれも商機かな?)
まだ白い霧に包まれた、ぼやっとした考えだが。
光柳に思いを打ち明けたことで、翠鈴は未来を思い描くようになった。
(光柳さま。ちゃんと眠れたかな)
翠鈴は薫衣草を渡した時のことを思い出した。
薫衣草も冬菩提樹も、翠鈴と胡玲にとってはよく知る西の生薬だ。だが、他の医官は「聞いたことがないわ」「見るのも初めてよ」と、顔を見合わせていた。
(たしかに珍しいけど。薬師の里の人間なら、新杷国のどこで薫衣草が栽培されているかも知っているのに)
自分の中に当たり前のように存在する知識は、ふつうではなかったのだ。
薬師の里では薫衣草はうまく育たない。王都である杷京ですら、知る人は少ない。
この知識が、どうやってあんな田舎の村に伝わったのだろう。
翠鈴は、自らの知識に初めて疑問を抱いた。
110
お気に入りに追加
726
あなたにおすすめの小説

冷徹公に嫁いだ可哀想なお姫様
さくたろう
恋愛
役立たずだと家族から虐げられている半身不随の姫アンジェリカ。味方になってくれるのは従兄弟のノースだけだった。
ある日、姉のジュリエッタの代わりに大陸の覇者、冷徹公の異名を持つ王マイロ・カースに嫁ぐことになる。
恐ろしくて震えるアンジェリカだが、マイロは想像よりもはるかに優しい人だった。アンジェリカはマイロに心を開いていき、マイロもまた、心が美しいアンジェリカに癒されていく。
※小説家になろう様にも掲載しています
いつか設定を少し変えて、長編にしたいなぁと思っているお話ですが、ひとまず短編のまま投稿しました。

〖完結〗愛人が離婚しろと乗り込んで来たのですが、私達はもう離婚していますよ?
藍川みいな
恋愛
「ライナス様と離婚して、とっととこの邸から出て行ってよっ!」
愛人が乗り込んで来たのは、これで何人目でしょう?
私はもう離婚していますし、この邸はお父様のものですから、決してライナス様のものにはなりません。
離婚の理由は、ライナス様が私を一度も抱くことがなかったからなのですが、不能だと思っていたライナス様は愛人を何人も作っていました。
そして親友だと思っていたマリーまで、ライナス様の愛人でした。
愛人を何人も作っていたくせに、やり直したいとか……頭がおかしいのですか?
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
全8話で完結になります。
十三回目の人生でようやく自分が悪役令嬢ポジと気づいたので、もう殿下の邪魔はしませんから構わないで下さい!
翠玉 結
恋愛
公爵令嬢である私、エリーザは挙式前夜の式典で命を落とした。
「貴様とは、婚約破棄する」と残酷な事を突きつける婚約者、王太子殿下クラウド様の手によって。
そしてそれが一度ではなく、何度も繰り返していることに気が付いたのは〖十三回目〗の人生。
死んだ理由…それは、毎回悪役令嬢というポジションで立ち振る舞い、殿下の恋路を邪魔していたいたからだった。
どう頑張ろうと、殿下からの愛を受け取ることなく死ぬ。
その結末をが分かっているならもう二度と同じ過ちは繰り返さない!
そして死なない!!
そう思って殿下と関わらないようにしていたのに、
何故か前の記憶とは違って、まさかのご執心で溺愛ルートまっしぐらで?!
「殿下!私、死にたくありません!」
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
※他サイトより転載した作品です。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

【完結済】侯爵令息様のお飾り妻
鳴宮野々花@軍神騎士団長1月15日発売
恋愛
没落の一途をたどるアップルヤード伯爵家の娘メリナは、とある理由から美しい侯爵令息のザイール・コネリーに“お飾りの妻になって欲しい”と持ちかけられる。期間限定のその白い結婚は互いの都合のための秘密の契約結婚だったが、メリナは過去に優しくしてくれたことのあるザイールに、ひそかにずっと想いを寄せていて─────

職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい
LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。
相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。
何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。
相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。
契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?

【完結】領地に行くと言って出掛けた夫が帰って来ません。〜愛人と失踪した様です〜
山葵
恋愛
政略結婚で結婚した夫は、式を挙げた3日後に「領地に視察に行ってくる」と言って出掛けて行った。
いつ帰るのかも告げずに出掛ける夫を私は見送った。
まさかそれが夫の姿を見る最後になるとは夢にも思わずに…。
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる