140 / 184
八章 陽だまりの花園
7、休日の夜
しおりを挟む
夜になった。
宿舎の別棟で、布団に入った光柳は天井を見上げている。
月明りが窗から射しこみ、床に四角い光が落ちている。
昼間の温かさは薄れたが。それでも寒いというほどではない。心地よい夜だ。
「眠れませんか?」
隣の寝台から、雲嵐が声をかけてきた。最近、光柳は不眠症だから。こうして「眠れないか」と訊かれるのには慣れているのだが。
今夜は雲嵐の口調が、いつもと違う。語尾が軽やかなのだ。ふだんはもっと心配した風であるのに。
「眠れないな」
「今日は、よかったですね」
暗さに目が慣れたせいだろうか。横になっている雲嵐が、微笑んでいるのが分かった。
「翠鈴は、私と一緒に来てくれるのだな」
後宮を出て、共に暮らすということ。それは一生を共にすることに他ならない。
宦官であっても、妻を持つことはある。
公には認められてはいないが。職を辞した宦官は、一生を孤独に暮らすこととなる。ゆえに女官と結婚する者もいる。
男としての体ではないからなのか。あるいは子をなして、子孫を望むことができないからなのか。宦官は、ふつうの男よりも妻に格別の愛情をもつ。
妻と死別した場合は、再婚をする男は多いのだが。宦官の場合は、再婚を望まぬ者が多いと聞く。
一生にひとりだけの、最愛の女性。そんな人に出会えるとは、これまでの人生で考えたこともなかった。
「そういえば、不眠に効く花を翠鈴からもらっていましたね」
雲嵐の言葉に、光柳は起きあがった。
花園での別れぎわに、麻の小袋を翠鈴がくれたのだ。
「薫衣草と冬菩提樹だと言っていたな」
聞いたことのない植物の名だ。漢方というわけでもなさそうだ。
不思議なことに翠鈴は、一般には知られていない生薬にも詳しい。
光柳は寝台から降りて、棚の上に置いていた小袋を手に取った。
すっきりとした涼しい香りだった。
――お茶の代わりに飲んでもいいですし、枕元に置いておくのもいいですよ。安眠の効果があります。
翠鈴の説明を、光柳は思い出した。
手で小袋を握る。夜の静けさに、かすかな音が染みた。
「どうだ? 眠いか?」
雲嵐の鼻に小袋を差しだしてみる。
「よくは分かりませんが。翠鈴が勧めるのでしたら、きっと効果があるのでしょう」
「雲嵐は、翠鈴を信頼しているのだな」
ふと、不安が光柳の胸をよぎった。
雲嵐の寝台に腰を下ろして、薫衣草を再びかいでみる。知らない匂いなのに。初夏の香りがした。
「なぁ、雲嵐。私が後宮を出る時は、一緒に来てくれるか?」
これまで尋ねたことのなかった問いだ。
子供の頃から、共に育ったから。後宮に入るのも一緒だったから。寄り添いながら生きてきたから。
けれど、自分が翠鈴を見つけたように。雲嵐もまた、最愛の人を見つけるに違いない。
そうなれば、彼を縛りつけることはできない。
「もし……だな、雲嵐が誰かを」
誰かを好きになって、その女性と暮らしたいと願うのなら。
言いかけた言葉が、途中で止まる。
返事を聞くのが怖い。光柳は、急に喉の渇きを覚えた。
「光柳さま?」
「いや、いい。何でもない。おやすみ」
光柳は立ちあがった。背中に視線を感じる。ふり返ることができない。
「誤解をなさっておいでのようですが。私は、主従の関係に縛られているとは思っていませんよ」
穏やかな声だった。まるで今夜の月明りのような。
「これまで散々、わがままをおっしゃってきたのに。今さら、聞き訳がよくなると怖いですね」
「待て、怖いってなんだよ。まるで私が性格が悪いみたいじゃないか」
「よくはないですよ」
うっ、と光柳は言葉に詰まった。
自覚はある。確かに雲嵐の方が、自分よりも何倍も何十倍も性格がいい。
再び、光柳は雲嵐の寝台に腰かけた。
「今日、花園で翠鈴にも話しましたが。私は馬で後宮に荷を運んだり、書状を各地に届ける仕事ができます。翠鈴は、薬を商いにできるでしょう。皆、それぞれ稼ぐ力は持っております。ですから、光柳さまがおひとりで背負うことはないんですよ」
雲嵐の言葉に、光柳は目を見開いた。
「妙なことを申し上げましたか?」
「いや、何も」
光柳の口元がほころぶ。
そうだった。雲嵐に「ついてきてくれるか」などと、確かめると逆に怒られてしまう。雲嵐は仕方なく自分に従ってくれているのではない。
「もう寝るとするか」
薫衣草の袋を、光柳は再び雲嵐の鼻に近づけた。
「不思議ですね。今度は眠く感じます」
「よかった。私もだ」
子供の頃なら、こんな夜は雲嵐と一緒に夜更かしをして、語り明かしていた。
取り置きの冬糖の飴を舐めながら。つまらないことを言っては笑いころげ。母や侍女に「もう夜中ですよ」とたしなめられたものだ。
だが、ここは離宮ではないし。自分たちはもう子供ではない。
明日は仕事だ。無茶はするまい。
宿舎の別棟で、布団に入った光柳は天井を見上げている。
月明りが窗から射しこみ、床に四角い光が落ちている。
昼間の温かさは薄れたが。それでも寒いというほどではない。心地よい夜だ。
「眠れませんか?」
隣の寝台から、雲嵐が声をかけてきた。最近、光柳は不眠症だから。こうして「眠れないか」と訊かれるのには慣れているのだが。
今夜は雲嵐の口調が、いつもと違う。語尾が軽やかなのだ。ふだんはもっと心配した風であるのに。
「眠れないな」
「今日は、よかったですね」
暗さに目が慣れたせいだろうか。横になっている雲嵐が、微笑んでいるのが分かった。
「翠鈴は、私と一緒に来てくれるのだな」
後宮を出て、共に暮らすということ。それは一生を共にすることに他ならない。
宦官であっても、妻を持つことはある。
公には認められてはいないが。職を辞した宦官は、一生を孤独に暮らすこととなる。ゆえに女官と結婚する者もいる。
男としての体ではないからなのか。あるいは子をなして、子孫を望むことができないからなのか。宦官は、ふつうの男よりも妻に格別の愛情をもつ。
妻と死別した場合は、再婚をする男は多いのだが。宦官の場合は、再婚を望まぬ者が多いと聞く。
一生にひとりだけの、最愛の女性。そんな人に出会えるとは、これまでの人生で考えたこともなかった。
「そういえば、不眠に効く花を翠鈴からもらっていましたね」
雲嵐の言葉に、光柳は起きあがった。
花園での別れぎわに、麻の小袋を翠鈴がくれたのだ。
「薫衣草と冬菩提樹だと言っていたな」
聞いたことのない植物の名だ。漢方というわけでもなさそうだ。
不思議なことに翠鈴は、一般には知られていない生薬にも詳しい。
光柳は寝台から降りて、棚の上に置いていた小袋を手に取った。
すっきりとした涼しい香りだった。
――お茶の代わりに飲んでもいいですし、枕元に置いておくのもいいですよ。安眠の効果があります。
翠鈴の説明を、光柳は思い出した。
手で小袋を握る。夜の静けさに、かすかな音が染みた。
「どうだ? 眠いか?」
雲嵐の鼻に小袋を差しだしてみる。
「よくは分かりませんが。翠鈴が勧めるのでしたら、きっと効果があるのでしょう」
「雲嵐は、翠鈴を信頼しているのだな」
ふと、不安が光柳の胸をよぎった。
雲嵐の寝台に腰を下ろして、薫衣草を再びかいでみる。知らない匂いなのに。初夏の香りがした。
「なぁ、雲嵐。私が後宮を出る時は、一緒に来てくれるか?」
これまで尋ねたことのなかった問いだ。
子供の頃から、共に育ったから。後宮に入るのも一緒だったから。寄り添いながら生きてきたから。
けれど、自分が翠鈴を見つけたように。雲嵐もまた、最愛の人を見つけるに違いない。
そうなれば、彼を縛りつけることはできない。
「もし……だな、雲嵐が誰かを」
誰かを好きになって、その女性と暮らしたいと願うのなら。
言いかけた言葉が、途中で止まる。
返事を聞くのが怖い。光柳は、急に喉の渇きを覚えた。
「光柳さま?」
「いや、いい。何でもない。おやすみ」
光柳は立ちあがった。背中に視線を感じる。ふり返ることができない。
「誤解をなさっておいでのようですが。私は、主従の関係に縛られているとは思っていませんよ」
穏やかな声だった。まるで今夜の月明りのような。
「これまで散々、わがままをおっしゃってきたのに。今さら、聞き訳がよくなると怖いですね」
「待て、怖いってなんだよ。まるで私が性格が悪いみたいじゃないか」
「よくはないですよ」
うっ、と光柳は言葉に詰まった。
自覚はある。確かに雲嵐の方が、自分よりも何倍も何十倍も性格がいい。
再び、光柳は雲嵐の寝台に腰かけた。
「今日、花園で翠鈴にも話しましたが。私は馬で後宮に荷を運んだり、書状を各地に届ける仕事ができます。翠鈴は、薬を商いにできるでしょう。皆、それぞれ稼ぐ力は持っております。ですから、光柳さまがおひとりで背負うことはないんですよ」
雲嵐の言葉に、光柳は目を見開いた。
「妙なことを申し上げましたか?」
「いや、何も」
光柳の口元がほころぶ。
そうだった。雲嵐に「ついてきてくれるか」などと、確かめると逆に怒られてしまう。雲嵐は仕方なく自分に従ってくれているのではない。
「もう寝るとするか」
薫衣草の袋を、光柳は再び雲嵐の鼻に近づけた。
「不思議ですね。今度は眠く感じます」
「よかった。私もだ」
子供の頃なら、こんな夜は雲嵐と一緒に夜更かしをして、語り明かしていた。
取り置きの冬糖の飴を舐めながら。つまらないことを言っては笑いころげ。母や侍女に「もう夜中ですよ」とたしなめられたものだ。
だが、ここは離宮ではないし。自分たちはもう子供ではない。
明日は仕事だ。無茶はするまい。
111
お気に入りに追加
726
あなたにおすすめの小説

醜さを理由に毒を盛られたけど、何だか綺麗になってない?
京月
恋愛
エリーナは生まれつき体に無数の痣があった。
顔にまで広がった痣のせいで周囲から醜いと蔑まれる日々。
貴族令嬢のため婚約をしたが、婚約者から笑顔を向けられたことなど一度もなかった。
「君はあまりにも醜い。僕の幸せのために死んでくれ」
毒を盛られ、体中に走る激痛。
痛みが引いた後起きてみると…。
「あれ?私綺麗になってない?」
※前編、中編、後編の3話完結
作成済み。

玉の輿を狙う妹から「邪魔しないで!」と言われているので学業に没頭していたら、王子から求婚されました
歌龍吟伶
恋愛
王立学園四年生のリーリャには、一学年下の妹アーシャがいる。
昔から王子様との結婚を夢見ていたアーシャは自分磨きに余念がない可愛いらしい娘で、六年生である第一王子リュカリウスを狙っているらしい。
入学当時から、「私が王子と結婚するんだからね!お姉ちゃんは邪魔しないで!」と言われていたリーリャは学業に専念していた。
その甲斐あってか学年首位となったある日。
「君のことが好きだから」…まさかの告白!

【完結】“自称この家の後継者“がうちに来たので、遊んでやりました。
BBやっこ
恋愛
突然乗り込んできた、男。いえ、子供ね。
キンキラキンの服は、舞台に初めて上がったようだ。「初めまして、貴女の弟です。」と言い出した。
まるで舞台の上で、喜劇が始まるかのような笑顔で。
私の家で何をするつもりなのかしら?まあ遊んであげましょうか。私は執事に視線で伝えた。

双子の姉がなりすまして婚約者の寝てる部屋に忍び込んだ
海林檎
恋愛
昔から人のものを欲しがる癖のある双子姉が私の婚約者が寝泊まりしている部屋に忍びこんだらしい。
あぁ、大丈夫よ。
だって彼私の部屋にいるもん。
部屋からしばらくすると妹の叫び声が聞こえてきた。

〖完結〗愛人が離婚しろと乗り込んで来たのですが、私達はもう離婚していますよ?
藍川みいな
恋愛
「ライナス様と離婚して、とっととこの邸から出て行ってよっ!」
愛人が乗り込んで来たのは、これで何人目でしょう?
私はもう離婚していますし、この邸はお父様のものですから、決してライナス様のものにはなりません。
離婚の理由は、ライナス様が私を一度も抱くことがなかったからなのですが、不能だと思っていたライナス様は愛人を何人も作っていました。
そして親友だと思っていたマリーまで、ライナス様の愛人でした。
愛人を何人も作っていたくせに、やり直したいとか……頭がおかしいのですか?
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
全8話で完結になります。

【完結】領地に行くと言って出掛けた夫が帰って来ません。〜愛人と失踪した様です〜
山葵
恋愛
政略結婚で結婚した夫は、式を挙げた3日後に「領地に視察に行ってくる」と言って出掛けて行った。
いつ帰るのかも告げずに出掛ける夫を私は見送った。
まさかそれが夫の姿を見る最後になるとは夢にも思わずに…。

冷徹公に嫁いだ可哀想なお姫様
さくたろう
恋愛
役立たずだと家族から虐げられている半身不随の姫アンジェリカ。味方になってくれるのは従兄弟のノースだけだった。
ある日、姉のジュリエッタの代わりに大陸の覇者、冷徹公の異名を持つ王マイロ・カースに嫁ぐことになる。
恐ろしくて震えるアンジェリカだが、マイロは想像よりもはるかに優しい人だった。アンジェリカはマイロに心を開いていき、マイロもまた、心が美しいアンジェリカに癒されていく。
※小説家になろう様にも掲載しています
いつか設定を少し変えて、長編にしたいなぁと思っているお話ですが、ひとまず短編のまま投稿しました。
聖女召喚されて『お前なんか聖女じゃない』って断罪されているけど、そんなことよりこの国が私を召喚したせいで滅びそうなのがこわい
金田のん
恋愛
自室で普通にお茶をしていたら、聖女召喚されました。
私と一緒に聖女召喚されたのは、若くてかわいい女の子。
勝手に召喚しといて「平凡顔の年増」とかいう王族の暴言はこの際、置いておこう。
なぜなら、この国・・・・私を召喚したせいで・・・・いまにも滅びそうだから・・・・・。
※小説家になろうさんにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる