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八章 陽だまりの花園
1、曇天
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許夏雪は、馬を駆けさせていた。
逃げないと。果てへ。もっと果てへ。その言葉ばかりが、夏雪の思考を支配している。
馬を疾駆させることなど、これまでなかった気がする。前後の揺れだけではなく、ふだんは感じない左右の揺れがきつい。
買い物代行を生業とする夏雪は、後宮に毒を持ちこんでいた。
他の買い物よりも実入りがいいからだ。当然だ。誰にも言えぬ秘密の買い物であれば、いくらでも吹っかけられる。値切られることもない。
「これまでうまくいってたのに」
氷雨が、夏雪の顔を叩く。髪もずぶ濡れだ。いつもはきれいに波打つ髪も、まるで浜に打ちあげられた海藻のようにみすぼらしい。
「なんでばれるのよ」
寒さで凍えた唇からこぼれた声は、風にさらわれた。
川岸に並んだ木々は、どれも芽吹いてもいない。曇天の下で黒い影に沈み、骸のように風に吹かれている。
「あいつ……薬師なの? 医官でもないのに。なんで」
もう後宮では商売ができない。
杷京も無理かもしれない。あの宮女も、勤務年数が長くなれば退職するだろう。杷京で出会う可能性は高い。
「あんなにもずっと後宮に通っていたのに。なんで石真さんは、見つからないのよ」
もっと毒の知識を教えてくれていたら。薬師であることを隠した女が、後宮にいると伝えてくれていたら。
「そうよ! あたしはもっと、うまくやれたのよ!」
叫ぶ夏雪の口の中に、冷たい氷が入りこんだ。
◇◇◇
春分を過ぎ、裘を羽織る必要もなくなった。だが、冬と春の季節がせめぎあうこの時期は、長雨が多い。
翠鈴は、雨の中を光柳に呼び出されていた。
書令史の部屋は、墨汁の匂いが満ちていた。紙に書いた文字が、乾きにくいのだろう。
「どうかなさいましたか?」
午後なので、まだ夕刻の仕事には間がある。
「かみが……おさまらない」
机の席に座り、肩を落とした光柳の声は小さい。翠鈴は部屋の中を見まわした。
書令史は陛下の言葉や辞令を書きとめるのが仕事だ。巻物や紙は確かに多いし、棚にも詰まっているけれど。決して収まらないほどではない。
「違うんですよ。翠鈴」
傘を差していたとはいえ。服や髪が湿って、冷えてしまった翠鈴に、雲嵐がお茶を出してくれた。
ほわっとした温かな湯気が、翠鈴の鼻をくすぐる。
「芽丁玉竹ですね」
「分かりますか?」
「はい。この清らかな香りは忘れようにも、忘れられません」
「だそうですよ。よかったですね、光柳さま」
翠鈴に椅子を勧めると、雲嵐は碗を小さな卓子に置いた。
丁寧な手つきだ。コトリとも音がしない。
「もしかして。雨の中を歩いてきたから。光柳さまは、気づかってくださったんですか」
「うっ、まぁ、そうかもしれないな」
光柳が、翠鈴のついた卓子の席に着く。ちょうど翠鈴と向かいあう位置だ。
芽丁玉竹は最高級のお茶だ。皇后や四夫人であれば、口にすることも珍しくないだろうが。翠鈴のような下っ端の宮女では、一生に一度も飲むこともないだろう。
話をしながら飲むには、このお茶はあまりにももったいない。
翠鈴は少しずつ口に含んだ。お茶の澄んだ香りを、そしてまろやかな味を楽しむ。やはり空になった碗までが、かぐわしい。
「それで。わたしを呼び出した御用は何でしょうか」
「見てのとおりだ」
光柳の声は曇っている。ここのところの空模様のように。
「見ても分かりませんが」
困った翠鈴は、光柳の背後に立つ雲嵐に視線を向けた。だが、雲嵐は「どうしようもありません」とでも言いたげに、首をふる。
「いや、どう見てもわかるだろう。ほら、湿気で髪にクセが出ている」
一つに結んだ黒髪を、光柳は手に取る。
まぁ、確かに毛がうねってはいるが。
「光柳さまは、詩作がうまくいかず、お困りなのです」
代わって説明したのは、雲嵐だった。
逃げないと。果てへ。もっと果てへ。その言葉ばかりが、夏雪の思考を支配している。
馬を疾駆させることなど、これまでなかった気がする。前後の揺れだけではなく、ふだんは感じない左右の揺れがきつい。
買い物代行を生業とする夏雪は、後宮に毒を持ちこんでいた。
他の買い物よりも実入りがいいからだ。当然だ。誰にも言えぬ秘密の買い物であれば、いくらでも吹っかけられる。値切られることもない。
「これまでうまくいってたのに」
氷雨が、夏雪の顔を叩く。髪もずぶ濡れだ。いつもはきれいに波打つ髪も、まるで浜に打ちあげられた海藻のようにみすぼらしい。
「なんでばれるのよ」
寒さで凍えた唇からこぼれた声は、風にさらわれた。
川岸に並んだ木々は、どれも芽吹いてもいない。曇天の下で黒い影に沈み、骸のように風に吹かれている。
「あいつ……薬師なの? 医官でもないのに。なんで」
もう後宮では商売ができない。
杷京も無理かもしれない。あの宮女も、勤務年数が長くなれば退職するだろう。杷京で出会う可能性は高い。
「あんなにもずっと後宮に通っていたのに。なんで石真さんは、見つからないのよ」
もっと毒の知識を教えてくれていたら。薬師であることを隠した女が、後宮にいると伝えてくれていたら。
「そうよ! あたしはもっと、うまくやれたのよ!」
叫ぶ夏雪の口の中に、冷たい氷が入りこんだ。
◇◇◇
春分を過ぎ、裘を羽織る必要もなくなった。だが、冬と春の季節がせめぎあうこの時期は、長雨が多い。
翠鈴は、雨の中を光柳に呼び出されていた。
書令史の部屋は、墨汁の匂いが満ちていた。紙に書いた文字が、乾きにくいのだろう。
「どうかなさいましたか?」
午後なので、まだ夕刻の仕事には間がある。
「かみが……おさまらない」
机の席に座り、肩を落とした光柳の声は小さい。翠鈴は部屋の中を見まわした。
書令史は陛下の言葉や辞令を書きとめるのが仕事だ。巻物や紙は確かに多いし、棚にも詰まっているけれど。決して収まらないほどではない。
「違うんですよ。翠鈴」
傘を差していたとはいえ。服や髪が湿って、冷えてしまった翠鈴に、雲嵐がお茶を出してくれた。
ほわっとした温かな湯気が、翠鈴の鼻をくすぐる。
「芽丁玉竹ですね」
「分かりますか?」
「はい。この清らかな香りは忘れようにも、忘れられません」
「だそうですよ。よかったですね、光柳さま」
翠鈴に椅子を勧めると、雲嵐は碗を小さな卓子に置いた。
丁寧な手つきだ。コトリとも音がしない。
「もしかして。雨の中を歩いてきたから。光柳さまは、気づかってくださったんですか」
「うっ、まぁ、そうかもしれないな」
光柳が、翠鈴のついた卓子の席に着く。ちょうど翠鈴と向かいあう位置だ。
芽丁玉竹は最高級のお茶だ。皇后や四夫人であれば、口にすることも珍しくないだろうが。翠鈴のような下っ端の宮女では、一生に一度も飲むこともないだろう。
話をしながら飲むには、このお茶はあまりにももったいない。
翠鈴は少しずつ口に含んだ。お茶の澄んだ香りを、そしてまろやかな味を楽しむ。やはり空になった碗までが、かぐわしい。
「それで。わたしを呼び出した御用は何でしょうか」
「見てのとおりだ」
光柳の声は曇っている。ここのところの空模様のように。
「見ても分かりませんが」
困った翠鈴は、光柳の背後に立つ雲嵐に視線を向けた。だが、雲嵐は「どうしようもありません」とでも言いたげに、首をふる。
「いや、どう見てもわかるだろう。ほら、湿気で髪にクセが出ている」
一つに結んだ黒髪を、光柳は手に取る。
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代わって説明したのは、雲嵐だった。
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