132 / 184
七章 毒の豆
16、寝言語録
しおりを挟む
年越しである守歳の火は、朝まで消してはならない。なので、火鉢の炭が消えぬように、雲嵐は時々火箸で確認している。
室内には年糕を焼いたときの甘く香ばしいにおいが、ほのかに残っている。
「守火炉の習慣がなくても、寒いから火は消せませんけどね」
「本当ですね」
どこの宮でも宿舎でも、朝まで人の気配がする。
夜の寂しさが紛れるようで。翠鈴はほっとした。
「寝ないのだが。なんだろうな。長椅子が私を呼んでいる」
夜も更けた頃。あくびをしながら、光柳が椅子から立った。
「寝てもいいと思いますよ。全員が起きている必要もないんですから」
「光柳さま。毛布をお持ちください」
「寝るわけではないのだが」
雲嵐に答えながら、光柳は右に左に体を揺らしながら進む。そのまま長椅子に吸いこまれてしまった。
◇◇◇
春節を迎えた朝。まだ日が昇る前に、翠鈴は書令史の部屋を辞すことにした。
卓子の上に並んだ皿や碗を、雲嵐と一緒に奥の部屋に運ぶ。
事務仕事をしている女官は、春節の間は休めるが。司燈はそうはいかない。
暗くなれば明かりを灯さなければ、妃嬪が暮らせない。同様に食事を担当する女官や宮女も、一斉に休むことはできない。
結局、光柳は夜明け前の今も熟睡だ。
「翠鈴さまとご一緒できたからでしょうか。嬉しそうな寝顔をなさっておいでです」
雲嵐は、光柳の毛布を掛けなおした。
「どう答えていいのか、分からないですね」
翠鈴の声が耳に届いたのだろうか。軟墊に頭を載せた光柳が、身動きした。
「可愛いなぁ」
それは寝言だった。何かいい夢でも見ているのだろう。
「翠鈴は可愛いよな。そう思うだろ、雲嵐」
「えっ!」
予想外の寝言だ。翠鈴は慌てて、長椅子の側に立つ雲嵐の顔を見た。
あ、目を逸らされた。しかも驚いた様子でもない。
「あのー。雲嵐さまは光柳さまと同室ですよね。こういった寝言は……」
「慣れております。むしろ今夜は控えめですね。甘美に愛を囁くときもありますよ。さすがは二代目麟美さまと言うべきでしょうか」
さらっととんでもない発言をされてしまった。
「えっと、わたしは可愛くないですよ。人を射殺しそうな目だと、この人に言われましたし」
「あれは失言でしたね。大丈夫、叱っておきましたから」
いや、そういうことではなくて。
翠鈴はおろおろした。年が明けて初めての感情が、狼狽とは。どうしたものか。
「以前、翠鈴が話していましたね。私が常に筆と紙を持って、光柳さまが戯れに紡ぐ詩を書きとめればいい、と」
あ、嫌な予感がする。
「なので、実践しているのです。主に、光柳さまの寝言ですが。『松光柳の届けられぬ愛の寝言語録』です。ご覧になりますか?」
「ご覧になりませんっ」
雲嵐は温厚で物静かなのに。時々、とんでもない暴風雨を起こす。名前負けをしていない。
「そうですね。せめて糸で綴じて冊子にできるくらいになれば、お届けします」
どこまでが冗談なのか分からない。
◇◇◇
「除夕を共に過ごすことができて、嬉しかったです。と、光柳さまにお伝えください」
戸の外まで見送ってくれた雲嵐に、翠鈴は頭を下げた。
「あと、寝言語録はいりませんので」
「そんなつれないことを言わずとも」
雲嵐は、明らかに笑いをこらえている。肩が震えているのだから。
鶏の鳴く声が、微かに聞こえた。
「寒くなりそうですよ。お気をつけて」
雲嵐は、翠鈴の手から圍巾をとると彼女の首に巻いた。
「本人が眠っていますから。私は代理ということで」
空はまだ濃藍や紺色の夜に支配されているが。東の空は暗い青を溶かすように白んでいる。
冷えた空気をいっぱいに吸いこみながら、翠鈴は歩きだした。
室内には年糕を焼いたときの甘く香ばしいにおいが、ほのかに残っている。
「守火炉の習慣がなくても、寒いから火は消せませんけどね」
「本当ですね」
どこの宮でも宿舎でも、朝まで人の気配がする。
夜の寂しさが紛れるようで。翠鈴はほっとした。
「寝ないのだが。なんだろうな。長椅子が私を呼んでいる」
夜も更けた頃。あくびをしながら、光柳が椅子から立った。
「寝てもいいと思いますよ。全員が起きている必要もないんですから」
「光柳さま。毛布をお持ちください」
「寝るわけではないのだが」
雲嵐に答えながら、光柳は右に左に体を揺らしながら進む。そのまま長椅子に吸いこまれてしまった。
◇◇◇
春節を迎えた朝。まだ日が昇る前に、翠鈴は書令史の部屋を辞すことにした。
卓子の上に並んだ皿や碗を、雲嵐と一緒に奥の部屋に運ぶ。
事務仕事をしている女官は、春節の間は休めるが。司燈はそうはいかない。
暗くなれば明かりを灯さなければ、妃嬪が暮らせない。同様に食事を担当する女官や宮女も、一斉に休むことはできない。
結局、光柳は夜明け前の今も熟睡だ。
「翠鈴さまとご一緒できたからでしょうか。嬉しそうな寝顔をなさっておいでです」
雲嵐は、光柳の毛布を掛けなおした。
「どう答えていいのか、分からないですね」
翠鈴の声が耳に届いたのだろうか。軟墊に頭を載せた光柳が、身動きした。
「可愛いなぁ」
それは寝言だった。何かいい夢でも見ているのだろう。
「翠鈴は可愛いよな。そう思うだろ、雲嵐」
「えっ!」
予想外の寝言だ。翠鈴は慌てて、長椅子の側に立つ雲嵐の顔を見た。
あ、目を逸らされた。しかも驚いた様子でもない。
「あのー。雲嵐さまは光柳さまと同室ですよね。こういった寝言は……」
「慣れております。むしろ今夜は控えめですね。甘美に愛を囁くときもありますよ。さすがは二代目麟美さまと言うべきでしょうか」
さらっととんでもない発言をされてしまった。
「えっと、わたしは可愛くないですよ。人を射殺しそうな目だと、この人に言われましたし」
「あれは失言でしたね。大丈夫、叱っておきましたから」
いや、そういうことではなくて。
翠鈴はおろおろした。年が明けて初めての感情が、狼狽とは。どうしたものか。
「以前、翠鈴が話していましたね。私が常に筆と紙を持って、光柳さまが戯れに紡ぐ詩を書きとめればいい、と」
あ、嫌な予感がする。
「なので、実践しているのです。主に、光柳さまの寝言ですが。『松光柳の届けられぬ愛の寝言語録』です。ご覧になりますか?」
「ご覧になりませんっ」
雲嵐は温厚で物静かなのに。時々、とんでもない暴風雨を起こす。名前負けをしていない。
「そうですね。せめて糸で綴じて冊子にできるくらいになれば、お届けします」
どこまでが冗談なのか分からない。
◇◇◇
「除夕を共に過ごすことができて、嬉しかったです。と、光柳さまにお伝えください」
戸の外まで見送ってくれた雲嵐に、翠鈴は頭を下げた。
「あと、寝言語録はいりませんので」
「そんなつれないことを言わずとも」
雲嵐は、明らかに笑いをこらえている。肩が震えているのだから。
鶏の鳴く声が、微かに聞こえた。
「寒くなりそうですよ。お気をつけて」
雲嵐は、翠鈴の手から圍巾をとると彼女の首に巻いた。
「本人が眠っていますから。私は代理ということで」
空はまだ濃藍や紺色の夜に支配されているが。東の空は暗い青を溶かすように白んでいる。
冷えた空気をいっぱいに吸いこみながら、翠鈴は歩きだした。
153
お気に入りに追加
733
あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

結婚して5年、初めて口を利きました
宮野 楓
恋愛
―――出会って、結婚して5年。一度も口を聞いたことがない。
ミリエルと旦那様であるロイスの政略結婚が他と違う点を挙げよ、と言えばこれに尽きるだろう。
その二人が5年の月日を経て邂逅するとき


お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない
文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。
使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。
優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。
婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。
「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。
優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。
父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。
嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの?
優月は父親をも信頼できなくなる。
婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

玉の輿を狙う妹から「邪魔しないで!」と言われているので学業に没頭していたら、王子から求婚されました
歌龍吟伶
恋愛
王立学園四年生のリーリャには、一学年下の妹アーシャがいる。
昔から王子様との結婚を夢見ていたアーシャは自分磨きに余念がない可愛いらしい娘で、六年生である第一王子リュカリウスを狙っているらしい。
入学当時から、「私が王子と結婚するんだからね!お姉ちゃんは邪魔しないで!」と言われていたリーリャは学業に専念していた。
その甲斐あってか学年首位となったある日。
「君のことが好きだから」…まさかの告白!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる