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七章 毒の豆
11、恵まれている
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翠鈴は辛抱強く、辺妮から話を聞いた。
「そう。代行者の名前は許夏雪というのね。頼めば毒でも買ってきてくれるのね」
以前、永仁宮の蔡昭媛に仕える侍女が毒のある大芹を、この医局で使ったけれど。
(亡くなったのは范敬という侍女。彼女も、その許夏雪から大芹を入手したのかもしれないわ)
夏雪は薬師ではない。なのに、どうして毒の知識があるのか。
大芹は、毒芹とも呼ばれる。有名な毒草だ。
だが、香豌豆の毒は一般的ではない。
いずれにしても看過できない。
その代行者は、今後も後宮に毒を持ちこむだろう。「依頼だから」「仕事だから」と平然として。
辺妮が、ふつうの豌豆を毒のある豆であると偽られたのは、たまたまだ。豌豆は栽培されているし、南方でなら早くに実を結ぶこともあるだろう。
だが、食用ではない香豌豆を季節外れに揃えることは難しい。
(もし辺妮が、春に胡玲を毒殺しようと思いついたのなら。あの豌豆黄は毒そのものだった)
床に散乱していた濁った色のかけらは、すでに捨てられている。
むろん、胡玲は差し入れを慎重に口にして、毒ではない、問題はないと分かったから他の医官にも勧めた。
それに香豌豆の毒は、死に至るほどではない。味も苦くて、とうてい食用には向かない。
だが、そんなことを辺妮に教えてやるわけにはいかない。
(どんなに私に謝ろうが、この娘は胡玲には謝罪していないわ)
足音と話し声が外から聞こえて、翠鈴は医局の入口へと向かった。
光柳が警備の宦官を連れて、戻ってきたのだろう。
今もなお辺妮の視線が、翠鈴の後を追ってくるのが分かる。
ふと、粘っこい視線が途切れた。
ふり返ると、翠鈴と辺妮のあいだに、雲嵐が立っている。
「ありがとうございます。雲嵐さま」
「いえ。私は何もしておりません」
謙虚に返す雲嵐だが。彼は、光柳が人からしつこく見られることに悩んでいたのを知っている。
翠鈴にとって、この辺妮のまなざしがいかに鬱陶しいかを、雲嵐は理解しているのだろう。
「待たせたな。翠鈴」
医局の戸を開けて、光柳が入って来た。乾いた冷たい風が、足もとに流れ込んでくる。
床に倒れている辺妮は、まともに凍てた風をくらったらしい。「ひぃ」と、かすれた声を上げた。
◇◇◇
辺妮は、警備の宦官に連れていかれた。このまま大理寺の牢獄に放りこまれるのだろう。
「辺妮の処遇はどうなるのでしょうか」
「そうだな。実際には毒ではなかったし、毒であったとしても重症にはならなかっただろうが」
翠鈴の問いに、光柳はあごに手を当てた。
医局の中は暖かい。光柳の髪も服も冷気の膜につつまれているようで、ひんやりとする。
「だが、あの宮女には殺意があった」
まるで刃を突きたてるかのような、鋭い声音だ。
「胡玲の殺害に失敗したのだ。放っておけるはずがない」
知っているか? と光柳は続ける。
「今は辺妮という宮女の怒りは、胡玲に向いている。だが、君が辺妮の望む女炎帝でなくなった時。彼女の怒りは翠鈴、君に向けられる」
嫉妬、羨望、妬み。それが辺妮が胡玲に抱く感情だ。
翠鈴にとって幼なじみの胡玲は、特別な位置にいる。だが、その「特別」を排除した時に。同じ場所に辺妮が立てなければ。
辺妮は翠鈴を憎悪するだろう。
自分を選ばなかった、と。
「夜更けの薬売りの顧客は、ほとんどが良識がある。君に迷惑がかからぬようにと考えている。だが、わずかでも、ほんのひとりでも自我を優先させたなら」
「今回のような事態になりますね」
もし胡玲が妃嬪であったなら。たとえ毒殺が失敗に終わったとしても、身分の低い辺妮は処刑されるだろう。
「辺妮は笞打ちの上で、後宮を追放あたりになるだろうな」
「そうですか」
確かに辺妮を後宮に置いておくのは危ない。
だが、それ以上に危険なのは、平気で毒を売りさばく許夏雪という女だ。
「お待たせしました」
胡玲が医局の奥から現れる。麻袋と壺を腕に抱えて。
もう胡玲に動揺は見られない。決して些細なことではなかったのだが。
「光柳さまはカリン酒ですね。翠鈴姐は、蘭淑妃さまの枇杷と無花果の葉」
胡玲から、膨らんだ軽い麻袋を渡されて。翠鈴は、自分の用事を思い出した。
(遅くなってしまったから。蘭淑妃さまや梅娜さまが心配なさっているかもしれない)
ふと浮かんだ考えに、翠鈴は頬を緩めた。
遅くなったから怒られるかもしれない、とは考えもしなかったのだ。微塵も。
(わたしは本当に恵まれているわ)
光柳は、壺を胡玲から受け取った。そして雲嵐を見て、微笑んだ。
「カリン酒がお好きなんですね」
「ん? なんで分かるんだ?」
「分かりますよ」
本音が表情に洩れているじゃないですか。しかも嬉しそうに雲嵐さまに、笑顔だけで報告して。
さすがに口にはできないので。翠鈴は黙っておくことにした。
「そう。代行者の名前は許夏雪というのね。頼めば毒でも買ってきてくれるのね」
以前、永仁宮の蔡昭媛に仕える侍女が毒のある大芹を、この医局で使ったけれど。
(亡くなったのは范敬という侍女。彼女も、その許夏雪から大芹を入手したのかもしれないわ)
夏雪は薬師ではない。なのに、どうして毒の知識があるのか。
大芹は、毒芹とも呼ばれる。有名な毒草だ。
だが、香豌豆の毒は一般的ではない。
いずれにしても看過できない。
その代行者は、今後も後宮に毒を持ちこむだろう。「依頼だから」「仕事だから」と平然として。
辺妮が、ふつうの豌豆を毒のある豆であると偽られたのは、たまたまだ。豌豆は栽培されているし、南方でなら早くに実を結ぶこともあるだろう。
だが、食用ではない香豌豆を季節外れに揃えることは難しい。
(もし辺妮が、春に胡玲を毒殺しようと思いついたのなら。あの豌豆黄は毒そのものだった)
床に散乱していた濁った色のかけらは、すでに捨てられている。
むろん、胡玲は差し入れを慎重に口にして、毒ではない、問題はないと分かったから他の医官にも勧めた。
それに香豌豆の毒は、死に至るほどではない。味も苦くて、とうてい食用には向かない。
だが、そんなことを辺妮に教えてやるわけにはいかない。
(どんなに私に謝ろうが、この娘は胡玲には謝罪していないわ)
足音と話し声が外から聞こえて、翠鈴は医局の入口へと向かった。
光柳が警備の宦官を連れて、戻ってきたのだろう。
今もなお辺妮の視線が、翠鈴の後を追ってくるのが分かる。
ふと、粘っこい視線が途切れた。
ふり返ると、翠鈴と辺妮のあいだに、雲嵐が立っている。
「ありがとうございます。雲嵐さま」
「いえ。私は何もしておりません」
謙虚に返す雲嵐だが。彼は、光柳が人からしつこく見られることに悩んでいたのを知っている。
翠鈴にとって、この辺妮のまなざしがいかに鬱陶しいかを、雲嵐は理解しているのだろう。
「待たせたな。翠鈴」
医局の戸を開けて、光柳が入って来た。乾いた冷たい風が、足もとに流れ込んでくる。
床に倒れている辺妮は、まともに凍てた風をくらったらしい。「ひぃ」と、かすれた声を上げた。
◇◇◇
辺妮は、警備の宦官に連れていかれた。このまま大理寺の牢獄に放りこまれるのだろう。
「辺妮の処遇はどうなるのでしょうか」
「そうだな。実際には毒ではなかったし、毒であったとしても重症にはならなかっただろうが」
翠鈴の問いに、光柳はあごに手を当てた。
医局の中は暖かい。光柳の髪も服も冷気の膜につつまれているようで、ひんやりとする。
「だが、あの宮女には殺意があった」
まるで刃を突きたてるかのような、鋭い声音だ。
「胡玲の殺害に失敗したのだ。放っておけるはずがない」
知っているか? と光柳は続ける。
「今は辺妮という宮女の怒りは、胡玲に向いている。だが、君が辺妮の望む女炎帝でなくなった時。彼女の怒りは翠鈴、君に向けられる」
嫉妬、羨望、妬み。それが辺妮が胡玲に抱く感情だ。
翠鈴にとって幼なじみの胡玲は、特別な位置にいる。だが、その「特別」を排除した時に。同じ場所に辺妮が立てなければ。
辺妮は翠鈴を憎悪するだろう。
自分を選ばなかった、と。
「夜更けの薬売りの顧客は、ほとんどが良識がある。君に迷惑がかからぬようにと考えている。だが、わずかでも、ほんのひとりでも自我を優先させたなら」
「今回のような事態になりますね」
もし胡玲が妃嬪であったなら。たとえ毒殺が失敗に終わったとしても、身分の低い辺妮は処刑されるだろう。
「辺妮は笞打ちの上で、後宮を追放あたりになるだろうな」
「そうですか」
確かに辺妮を後宮に置いておくのは危ない。
だが、それ以上に危険なのは、平気で毒を売りさばく許夏雪という女だ。
「お待たせしました」
胡玲が医局の奥から現れる。麻袋と壺を腕に抱えて。
もう胡玲に動揺は見られない。決して些細なことではなかったのだが。
「光柳さまはカリン酒ですね。翠鈴姐は、蘭淑妃さまの枇杷と無花果の葉」
胡玲から、膨らんだ軽い麻袋を渡されて。翠鈴は、自分の用事を思い出した。
(遅くなってしまったから。蘭淑妃さまや梅娜さまが心配なさっているかもしれない)
ふと浮かんだ考えに、翠鈴は頬を緩めた。
遅くなったから怒られるかもしれない、とは考えもしなかったのだ。微塵も。
(わたしは本当に恵まれているわ)
光柳は、壺を胡玲から受け取った。そして雲嵐を見て、微笑んだ。
「カリン酒がお好きなんですね」
「ん? なんで分かるんだ?」
「分かりますよ」
本音が表情に洩れているじゃないですか。しかも嬉しそうに雲嵐さまに、笑顔だけで報告して。
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