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七章 毒の豆
5、認めない
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「えーと、なんだっけ」
夏雪は購入した品物を書いた紙を確認した。
「ああ、豆だったわね。あるわよ。ようやく手に入ったわ」
「はい。そうです。ずっと待っていたんです」
印象の薄い宮女の声が明るくなる。
顔の彫りが深くない、のっぺりとした顔立ちだ。確か名前を……と考えて、夏雪は眉間にしわを寄せた。
「なんていう名前だったっけ」
「えっと。その、辺妮です。前にも言いましたけど」
「あ、ごめーん。忘れてたわ」
夏雪の頭の片隅にすら、辺妮の名前は残っていなかった。記憶力は悪くないし、買い物代行の商品も本当は記憶できるのだが。間違いがあってはいけないので、記録しているだけだ。
「いえ、いいんです。うち、目立たないから」
夏雪から小さな麻の袋を受けとりながら、辺妮は笑った。
むかつく笑顔だった。嫌なことがあっても、自分さえ我慢すればいいと言いたげな表情だ。
(もともとあんたが、無理な注文をしたんでしょうが。まだ冬だっていうのに。豌豆なんか頼んでくるから。しかも香豌豆だなんて。花が咲くのは、ふつう春でしょ。ちょっと考えれば分かるじゃない)
どんなに早咲きであっても、豆が結実するのは春の終わりだ。春節にもならない冬のさなかに、新鮮な豌豆など、ふつうは手に入らない。
「南方から届いたものよ。輸送費もかかっているから、割高になるけど」
「お支払いしますっ」
辺妮は、勢い込んで身を乗りだした。
そんなに憎い相手がいるのだろうか。そんなにも誰かに毒を食べさせたいのだろうか。
夏雪の口元が、鎌の刃のような笑みをたたえた。
ごめんね。それはただの豌豆なの。
(あんたが毒を誰に食べさせたいのか知らないけどさ。香豌豆の季節も知らないんじゃ、まともに扱えもしないでしょ)
ふつうの豌豆と香豌豆は、花の状態ならば見分けはつく。いかにも観賞用の、大きめで愛らしい|淡い桃色の花を咲かせるのが香豌豆だ。豌豆の花は、可愛げがないともいえる。
莢の状態ならば、両者の区別は難しい。
ただ、栽培されている豌豆と違い、香豌豆の豆を大量に集めることは不可能に近い。
香豌豆のことを、甘い豌豆という人もいる。
だが、それは間違いだ。花の香りが甘いのだ。決して味ではない。
むしろ味は苦いらしい。香豌豆は毒だから、夏雪はもちろん食べたことはない。
(次に来るときが、楽しみだわ。あんたはどうするのかしらね。あたしに「毒が効かなかった」とは、怒れないでしょ? もう一度取り寄せる? 春なら、ちゃんと本物を買ってきてあげてもいいわよ)
弱い者は、いくら利用しても心は痛まない。
(あーあ。あたしも後宮暮らしなら、あの……えーと、名前なんだったっけ。この宮女が失敗するところを見ることができるのに)
夏雪は、肩をすくめた。
とはいえ、自由のない後宮暮らしはまっぴらだ。こうしてたまに女くさい世界に浸るぐらいがちょうどいい。
「じゃあ、あたしは帰るわ。またのご贔屓をお待ちしています」
厨房の奥から、はしゃぐ声が聞こえる。
まだ勤務時間内だから、さすがに酒の壺を開封してはいないだろう。宮女たちは、菓子をつまんでいるのかもしれない。
豌豆の入った小袋を大事そうに抱えた辺妮は、食堂から出ていく夏雪を見送った。
食堂の側の木につないでいた馬の元へ、夏雪は向かった。
ちょうど、侍女と背の高い宮女が歩いているのが見えた。そして、ふたりの間に女の子がいる。
宮女と侍女に守られるように、真ん中に。
着ているものが上質だ。歩くたびに、質の良い布の上で光が踊る。
「ねぇ、ツイリン。タオリィね、あのどうぶつしってるよ。うま、だよ」
夏雪の馬を、女の子が指さした。
公主だ。皇帝の血を引く子供は、淑妃の娘と賢妃の赤ん坊しかいない。
(なんで宮女ごときが、公主と手をつないでいるの?)
「この間、お乗りになった馬車はいかがでした? 気分は悪くなりませんでしたか?」
「へーき。タオリィ、つよいもん」
こぼれんばかりの笑顔で、公主が答える。相手の宮女は目つきも鋭く、目が合った相手を金縛りにさせそうなのに。
公主は、これでもかと笑みを絶やさない。嬉しくてたまらないように。
(ちょっと、おかしいわ。たかが宮女が、公主と言葉を交わすなんて)
一緒にいるのは侍女よね。宮女なんて下女ともいわれるのに。どうして叱らないの? 注意もしないの?
夏雪は後宮に出入りする仕事を始めてから、半年は過ぎている。これまで目にしたことのない光景に、思考がまとまらない。
なぜだか、胃の辺りがむかむかした。
理由は分からない。けれど、ひとつだけは分かる。
後宮に集められた宮女は、全員が不幸であるべきだ。自由に塀の外へ、門の外へ出られずに、我が身を嘆かなければならない。
身分差をものともせず、姫君に信頼されて仲よくなる宮女など認めない。
後宮の外にいる自分の方が、幸せでなければならない。
夏雪は購入した品物を書いた紙を確認した。
「ああ、豆だったわね。あるわよ。ようやく手に入ったわ」
「はい。そうです。ずっと待っていたんです」
印象の薄い宮女の声が明るくなる。
顔の彫りが深くない、のっぺりとした顔立ちだ。確か名前を……と考えて、夏雪は眉間にしわを寄せた。
「なんていう名前だったっけ」
「えっと。その、辺妮です。前にも言いましたけど」
「あ、ごめーん。忘れてたわ」
夏雪の頭の片隅にすら、辺妮の名前は残っていなかった。記憶力は悪くないし、買い物代行の商品も本当は記憶できるのだが。間違いがあってはいけないので、記録しているだけだ。
「いえ、いいんです。うち、目立たないから」
夏雪から小さな麻の袋を受けとりながら、辺妮は笑った。
むかつく笑顔だった。嫌なことがあっても、自分さえ我慢すればいいと言いたげな表情だ。
(もともとあんたが、無理な注文をしたんでしょうが。まだ冬だっていうのに。豌豆なんか頼んでくるから。しかも香豌豆だなんて。花が咲くのは、ふつう春でしょ。ちょっと考えれば分かるじゃない)
どんなに早咲きであっても、豆が結実するのは春の終わりだ。春節にもならない冬のさなかに、新鮮な豌豆など、ふつうは手に入らない。
「南方から届いたものよ。輸送費もかかっているから、割高になるけど」
「お支払いしますっ」
辺妮は、勢い込んで身を乗りだした。
そんなに憎い相手がいるのだろうか。そんなにも誰かに毒を食べさせたいのだろうか。
夏雪の口元が、鎌の刃のような笑みをたたえた。
ごめんね。それはただの豌豆なの。
(あんたが毒を誰に食べさせたいのか知らないけどさ。香豌豆の季節も知らないんじゃ、まともに扱えもしないでしょ)
ふつうの豌豆と香豌豆は、花の状態ならば見分けはつく。いかにも観賞用の、大きめで愛らしい|淡い桃色の花を咲かせるのが香豌豆だ。豌豆の花は、可愛げがないともいえる。
莢の状態ならば、両者の区別は難しい。
ただ、栽培されている豌豆と違い、香豌豆の豆を大量に集めることは不可能に近い。
香豌豆のことを、甘い豌豆という人もいる。
だが、それは間違いだ。花の香りが甘いのだ。決して味ではない。
むしろ味は苦いらしい。香豌豆は毒だから、夏雪はもちろん食べたことはない。
(次に来るときが、楽しみだわ。あんたはどうするのかしらね。あたしに「毒が効かなかった」とは、怒れないでしょ? もう一度取り寄せる? 春なら、ちゃんと本物を買ってきてあげてもいいわよ)
弱い者は、いくら利用しても心は痛まない。
(あーあ。あたしも後宮暮らしなら、あの……えーと、名前なんだったっけ。この宮女が失敗するところを見ることができるのに)
夏雪は、肩をすくめた。
とはいえ、自由のない後宮暮らしはまっぴらだ。こうしてたまに女くさい世界に浸るぐらいがちょうどいい。
「じゃあ、あたしは帰るわ。またのご贔屓をお待ちしています」
厨房の奥から、はしゃぐ声が聞こえる。
まだ勤務時間内だから、さすがに酒の壺を開封してはいないだろう。宮女たちは、菓子をつまんでいるのかもしれない。
豌豆の入った小袋を大事そうに抱えた辺妮は、食堂から出ていく夏雪を見送った。
食堂の側の木につないでいた馬の元へ、夏雪は向かった。
ちょうど、侍女と背の高い宮女が歩いているのが見えた。そして、ふたりの間に女の子がいる。
宮女と侍女に守られるように、真ん中に。
着ているものが上質だ。歩くたびに、質の良い布の上で光が踊る。
「ねぇ、ツイリン。タオリィね、あのどうぶつしってるよ。うま、だよ」
夏雪の馬を、女の子が指さした。
公主だ。皇帝の血を引く子供は、淑妃の娘と賢妃の赤ん坊しかいない。
(なんで宮女ごときが、公主と手をつないでいるの?)
「この間、お乗りになった馬車はいかがでした? 気分は悪くなりませんでしたか?」
「へーき。タオリィ、つよいもん」
こぼれんばかりの笑顔で、公主が答える。相手の宮女は目つきも鋭く、目が合った相手を金縛りにさせそうなのに。
公主は、これでもかと笑みを絶やさない。嬉しくてたまらないように。
(ちょっと、おかしいわ。たかが宮女が、公主と言葉を交わすなんて)
一緒にいるのは侍女よね。宮女なんて下女ともいわれるのに。どうして叱らないの? 注意もしないの?
夏雪は後宮に出入りする仕事を始めてから、半年は過ぎている。これまで目にしたことのない光景に、思考がまとまらない。
なぜだか、胃の辺りがむかむかした。
理由は分からない。けれど、ひとつだけは分かる。
後宮に集められた宮女は、全員が不幸であるべきだ。自由に塀の外へ、門の外へ出られずに、我が身を嘆かなければならない。
身分差をものともせず、姫君に信頼されて仲よくなる宮女など認めない。
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