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七章 毒の豆
4、代行人
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まだ夕食の準備に取りかかる前の食堂は、がらんとしている。
「こんにちはー。頼まれていた物を、買ってきたわよ」
食堂に入ってきた女性を見て、厨房から宮女たちが現れた。
口々に「待ってたわ」とはしゃぎだす。
「さすが夏雪さん。他の代行者と違って、届けてくれるのが速いわ」
「そうよぉ。仕事は丁寧で、信用が一番だからね」
にっこりと微笑みながら、許夏雪は荷物を卓の上で広げた。波打った髪は、夏の間に日に灼けたのか黒に茶色が混じっている。
「えーと。櫛は誰だっけ? あとお菓子に高粱酒。それから黄酒。甘いものとお酒が多いわねー」
夏雪は、買い物代行人だ。なかなか後宮の外に出られない女性たちの買い物を、請け負っている。
後宮に頼まれた荷物を届ける業者は多い。だが、何人分もまとめて注文をとってから、と呑気な商売をする者がほとんどだ。
(馬鹿だよね。今すぐに欲しい物を届けてあげれば。贔屓にしてくれて、何度でも仕事を依頼してもらえるのに)
確かに一度に稼げる額は少ないし、何度も後宮を訪れなければならない。
(でも、この甘ったるい脂粉とお香。それに澱んだ女のいやらしさの満ちた場所を堪能しないなんて。つまらないじゃない)
夏雪は、糸のように細い目で微笑んだ。
妃嬪はさすがに顧客にはならないが。侍女ならば、たまに仕事を依頼されることもある。
「なんて言ったっけ昭媛の宮って。あそこの侍女は元気かしら。范敬とかいったかな」
「さぁ。よく知らないわ」
「でも、昭媛さまは永仁宮をお出になったって聞くわよ。あそこは今は無人だって」
夏雪の問いかけに、宮女たちが言葉を返す。
(ふーん? 毒芹を使ってばれたのかな? 主ともども後宮を追いだされたのかしら)
後宮に入り浸ることができれば、事の次第を詳しく知ることができるのだが。
最近は、ずっと世話になっていた宦官の顔も見かけない。いろいろ教えを請いたいのに。あの宦官がいれば、もっと稼ぐことができるのに。
ふと、夏雪はひとりの宮女の手に目を向けた。
以前会った時は、彼女の手はかさついてあかぎれも切れていた。指の関節あたりが、何か所も割れて痛々しかったのだけれど。
「へぇ。手荒れが、治ってるじゃない」
夏雪の言葉に、宮女の表情が輝いた。
「へぇ。手荒れが、治ってるじゃない」
夏雪の言葉に、皿洗いの宮女は表情が輝いた。
「そうなんです! 紫根の油を塗ったら治ったんです。それから、すぐに手を拭くようにって教えてもらって。水分が肌に残るのがよくないみたいですね」
「ふぅん? 医官にでも教えてもらったの?」
「いえ。そういうわけじゃないんですけど。その親切な人がいて……」
さっきまで雄弁だったのに。宮女は言葉を濁した。
夏雪が見たところ他の宮女の手荒れも治っている。不思議なくらいに。
「紫根、効いたわよね」「でも数が限られているから。大事に使わないと」と宮女同士で囁きあいながら、夏雪に買い物のお金を払う。
「遠慮しなくてもいいわよ。依頼してくれたら、薬くらい買ってくるから。紫根なら、ふつうに売ってるわよ」
「え、うん。ありがとう。でも、大丈夫」
「ね」
夏雪の提案に、宮女たちは乗ってこない。日用品どころか、酒や菓子でさえ気軽に頼むというのに。
面白くない。まるで夏雪が後宮で暮らしていないから、教えてやらないとでも言いたげだ。
「あなたたちが使っている紫根には、特別な秘密でもあるのかしら」
意味のある問いかけではなかった。
なのに。食堂が一瞬、しんと静まり返った。
外部の人間である夏雪は知らない。教えてももらえない。
この宮女の中には、大理寺卿の陳天分のせいで投獄されていた者がいることを。
翠鈴のことを「女炎帝」と呼ぶのは、大半の宮女がためらっているが。
それでも宮女たちの共通認識として、夜更けの薬売りのことは大切な秘密にしたい。
(後宮なんて窮屈で、自由もなくて。宮女なんて、くたくたになってもこき使われて。あわよくば皇帝の目に留まるなんて、馬鹿げた夢を見ているような女の集まりのはずでしょ)
なんで楽しそうなの?
ぎりっと夏雪は奥歯を噛みしめた。
(もっともっと不満を蓄積させなさいよ。ふさぎ込みなさいよ。私に買ってきてもらう酒に溺れなさいよ)
この塀に囲まれた、狭い世界から見上げる空が、いかに高くて遠いのかを、宮女たちは実感すべきだ。
あんた達は、恵まれた妃嬪ではないのだから。
「ありがとう。夏雪さん」
「またお買い物を頼むわね」
商品を受けとると、宮女たちはそそくさと厨房へ戻った。
以前、夏雪が荷物を届けた時と、雰囲気が違う。
騒がしいのは、これまでと同じなのに。皆がひっそりとした秘密を共有しているように思えるのだ。
そして、部外者である夏雪は仲間に入れてもらえない。
ただの買い物代行者だから。
「あの……夏雪さん」
か細い声で話しかけられて、夏雪はふり返った。
人の気配がしなかった。もう宮女はすべて厨房へと戻ったのだと思っていた。それほどに、その宮女は影が薄い。
「頼んでいたもの、今日はありましたか?」
「こんにちはー。頼まれていた物を、買ってきたわよ」
食堂に入ってきた女性を見て、厨房から宮女たちが現れた。
口々に「待ってたわ」とはしゃぎだす。
「さすが夏雪さん。他の代行者と違って、届けてくれるのが速いわ」
「そうよぉ。仕事は丁寧で、信用が一番だからね」
にっこりと微笑みながら、許夏雪は荷物を卓の上で広げた。波打った髪は、夏の間に日に灼けたのか黒に茶色が混じっている。
「えーと。櫛は誰だっけ? あとお菓子に高粱酒。それから黄酒。甘いものとお酒が多いわねー」
夏雪は、買い物代行人だ。なかなか後宮の外に出られない女性たちの買い物を、請け負っている。
後宮に頼まれた荷物を届ける業者は多い。だが、何人分もまとめて注文をとってから、と呑気な商売をする者がほとんどだ。
(馬鹿だよね。今すぐに欲しい物を届けてあげれば。贔屓にしてくれて、何度でも仕事を依頼してもらえるのに)
確かに一度に稼げる額は少ないし、何度も後宮を訪れなければならない。
(でも、この甘ったるい脂粉とお香。それに澱んだ女のいやらしさの満ちた場所を堪能しないなんて。つまらないじゃない)
夏雪は、糸のように細い目で微笑んだ。
妃嬪はさすがに顧客にはならないが。侍女ならば、たまに仕事を依頼されることもある。
「なんて言ったっけ昭媛の宮って。あそこの侍女は元気かしら。范敬とかいったかな」
「さぁ。よく知らないわ」
「でも、昭媛さまは永仁宮をお出になったって聞くわよ。あそこは今は無人だって」
夏雪の問いかけに、宮女たちが言葉を返す。
(ふーん? 毒芹を使ってばれたのかな? 主ともども後宮を追いだされたのかしら)
後宮に入り浸ることができれば、事の次第を詳しく知ることができるのだが。
最近は、ずっと世話になっていた宦官の顔も見かけない。いろいろ教えを請いたいのに。あの宦官がいれば、もっと稼ぐことができるのに。
ふと、夏雪はひとりの宮女の手に目を向けた。
以前会った時は、彼女の手はかさついてあかぎれも切れていた。指の関節あたりが、何か所も割れて痛々しかったのだけれど。
「へぇ。手荒れが、治ってるじゃない」
夏雪の言葉に、宮女の表情が輝いた。
「へぇ。手荒れが、治ってるじゃない」
夏雪の言葉に、皿洗いの宮女は表情が輝いた。
「そうなんです! 紫根の油を塗ったら治ったんです。それから、すぐに手を拭くようにって教えてもらって。水分が肌に残るのがよくないみたいですね」
「ふぅん? 医官にでも教えてもらったの?」
「いえ。そういうわけじゃないんですけど。その親切な人がいて……」
さっきまで雄弁だったのに。宮女は言葉を濁した。
夏雪が見たところ他の宮女の手荒れも治っている。不思議なくらいに。
「紫根、効いたわよね」「でも数が限られているから。大事に使わないと」と宮女同士で囁きあいながら、夏雪に買い物のお金を払う。
「遠慮しなくてもいいわよ。依頼してくれたら、薬くらい買ってくるから。紫根なら、ふつうに売ってるわよ」
「え、うん。ありがとう。でも、大丈夫」
「ね」
夏雪の提案に、宮女たちは乗ってこない。日用品どころか、酒や菓子でさえ気軽に頼むというのに。
面白くない。まるで夏雪が後宮で暮らしていないから、教えてやらないとでも言いたげだ。
「あなたたちが使っている紫根には、特別な秘密でもあるのかしら」
意味のある問いかけではなかった。
なのに。食堂が一瞬、しんと静まり返った。
外部の人間である夏雪は知らない。教えてももらえない。
この宮女の中には、大理寺卿の陳天分のせいで投獄されていた者がいることを。
翠鈴のことを「女炎帝」と呼ぶのは、大半の宮女がためらっているが。
それでも宮女たちの共通認識として、夜更けの薬売りのことは大切な秘密にしたい。
(後宮なんて窮屈で、自由もなくて。宮女なんて、くたくたになってもこき使われて。あわよくば皇帝の目に留まるなんて、馬鹿げた夢を見ているような女の集まりのはずでしょ)
なんで楽しそうなの?
ぎりっと夏雪は奥歯を噛みしめた。
(もっともっと不満を蓄積させなさいよ。ふさぎ込みなさいよ。私に買ってきてもらう酒に溺れなさいよ)
この塀に囲まれた、狭い世界から見上げる空が、いかに高くて遠いのかを、宮女たちは実感すべきだ。
あんた達は、恵まれた妃嬪ではないのだから。
「ありがとう。夏雪さん」
「またお買い物を頼むわね」
商品を受けとると、宮女たちはそそくさと厨房へ戻った。
以前、夏雪が荷物を届けた時と、雰囲気が違う。
騒がしいのは、これまでと同じなのに。皆がひっそりとした秘密を共有しているように思えるのだ。
そして、部外者である夏雪は仲間に入れてもらえない。
ただの買い物代行者だから。
「あの……夏雪さん」
か細い声で話しかけられて、夏雪はふり返った。
人の気配がしなかった。もう宮女はすべて厨房へと戻ったのだと思っていた。それほどに、その宮女は影が薄い。
「頼んでいたもの、今日はありましたか?」
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