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七章 毒の豆

3、花園【2】

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 光柳の右手が、翠鈴の頭を撫でる。
 男性にしてはたおやかに動く指。せめて優しく触れれば、翠鈴の心の隙間を埋めることができるのではないか。そんな風に考えて。

「あ、あのっ」

 翠鈴の声が裏返った。きっと悩みを訴えたくて、それでも言うべきかどうか迷っているのだろう。

(鋭い目つきに似合わず、翠鈴は健気なところがあるんだよな)

 そんなところも可愛く思える。

「青竹の幻のが過ぎゆけど みどり染みゆく 今朝がまた来る」

 光柳の口からぽつりとこぼれたのは、長歌ちょうかにもならぬ短い詩だった。

 すっと伸びたすがしい竹にも似た薬師が消えた朝。後宮という世界は、彼女の残したみどりに染まる。夢のような一瞬の夜が失せて、翠の余韻の中で人は孤独を感じるのだ。

「どこへ行っても、人に見られるのは疲れるだろう。むろん、ほとんどの女性は、君が夜更けの薬売りと気づいても黙っているだろう。だが、そうではない者もいる」

 翠鈴を薬売りと認識している者は、まだいい。
 だが彼女を女炎帝として、熱狂的に妄信する宮女もいる。
 たとえ直接翠鈴に声をかけずとも、視線が彼女を追いかける。

 大理寺卿だいりじけいであった陳天分チェンティエンフェンに宮女たちが捕まった時。宮女たちを解放したのは光柳だが。その裏で翠鈴が動いていたことは、広く知られている。

(君はただ、おいしいお茶や薬の材料を買いたいだけなのにな)

 雲嵐を気にかけるのは、光柳にとっては当然だ。兄弟同然なのだから。半分は血の繋がっている皇帝、劉傑倫リウジエルンよりも、何百倍も何千倍も近いし大切だ。

 これまで雲嵐しかいなかった至近距離に、今は翠鈴もいる。
 手を伸ばせば触れられる。呟く声ですらも聞き取れる。
 とても大事な存在だ。

「人に見られたくないなら、ここに来ればいい。後宮の裏にあり、訪れる者も少ないからな。私の隣で休んでいけばいい」

 この花園かえんは、光柳が麟美の詩を作るときによく訪れる。静かで、季節ごとの花が咲き、心が安らぐのだ。
 人には教えたくない穴場だ。だが、翠鈴なら大歓迎だ。

「あの、光柳さまっ。手、手が。頭に」
「うん。知っているぞ」

 なぜか翠鈴は、向かいに座る雲嵐に視線を向ける。
 なにゆえ彼に助けを求める?

 そう考えて、はっとした。

「あ……っ」

 光柳は、かつて翠鈴に頭を撫でられたことを思いだした。それは接吻と同じ意味を持つ。

 あの時、自分はあまりにも恥ずかしくて。熱が出たんじゃないかと思うほど、顔が火照って。耳もちぎれそうなほどに熱かったのに。

「やってしまった。どうしよう、雲嵐」
「知りませんよ。翠鈴から手を離したらどうなんです?」

 雲嵐は冷たい。

「手が、離れたくないと言っている」
「へーぇ。光柳さまの手には、口がついていらっしゃるんですか。『山海経せんがいきょう』に、王都の妖怪として記されてしまいますよ」

 やっぱり冷たい。

「言葉は通じるのに。話が通じない人がいますよね」

 ようやく光柳が手を離したので。翠鈴は、ぽつりぽつりと話しはじめた。
 自分が何に悩んでいるのか、頭の中で整理しているかのように。

「わたしは女炎帝でないことなど、当たり前のことです。薬の勉強をしてきただけの司燈しとうなんですから」

 もちろん、手荒れや医局を頼りにくい症状を助けてあげたい気持ちはある。困っている女官や宮女が、翠鈴の薬で笑顔になるのは嬉しいに違いない。それに当然、お金も入る。
 顧客も助かり、自分も助かる。

 けれど、中には翠鈴が薬を売ることに意味を見出そうとする者がいる。考察ともいえるが。

「今の時期は、肌が乾燥して荒れます。だから手荒れの紫根しこんを売るのは当然です。しもやけの薬だって、寒さが厳しい冬だからこそです」
「まぁ、そうだろうな」

 光柳は同意した。
 翠鈴とて、夏場にしもやけの薬を売ったりはしないだろう。どんなに安くしても、需要がないからだ。
 季節ごとに、客が求める物が分かるから。だから、翠鈴は事前に用意する。ただそれだけだ。

「なのに『どうして私が困っているのが分かるんですか?』『きっと薬の女神さまだからですね』『私を見守ってくださるんですね』と、買いかぶられても困るんです」

 翠鈴の目は、空を飛ぶ鳥の行方を追っている。

 陳天分は、女炎帝を妄信する集団を恐れて、女官や宮女を捕らえた。
 牢獄の中の女性たちは、翠鈴の名を出さないように「女炎帝」と言葉を選んでいた節があるが。真に狂信的な者は、仲間を作らないのではないか? 

「この花園はいいですね」

 気持ちが和らいだのか、翠鈴の声が明るくなった

「息がしやすいですね。今は冬枯れで、花が咲いているわけでもないのに。気持ちが晴れます」

 不思議ですね、と翠鈴は苦笑した。

「おそらくですが。ひとりで訪れても、あまり気は紛れないと思いますよ」

 珍しく雲嵐が、翠鈴に意見した。
 翠鈴とて鈍いわけではない。雲嵐の真意は伝わったのだろう。

「そうですね」と、翠鈴はうなずいた。
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