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七章 毒の豆
1、松仁糖
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冬至も過ぎて、夜の長さに飽きる頃。医官の胡玲は悩んでいた。
視線を感じるのだ。主に食堂や、後宮内を歩いているときに。
じっとりと湿った視線だ。知りあいが、胡玲に気づいて見るような軽さではない。
なのに、周囲を見まわしても胡玲を睨んでいる相手はいない。おそらくは、すぐに目を逸らしているのだろう。
「おはよう。胡玲」
「おはようございます」
食堂で朝食をとっている胡玲に、翠鈴と由由が挨拶をした。
ふたりとも一仕事を終えた後だ。起床後間もない女官や宮女と比べて、すっきりとした表情をしている。
湯気の立つ豆腐脳と油条という、定番の朝の献立だ。
「顔色が悪いわ。胡玲」
胡玲の向かいの席に座った翠鈴が、声をかけてくれる。
一時期は食堂を利用する女官や宮女の数が減っていたのだが。今は、以前のように賑わっている。というか混んでいる。
「眠れないの? 目の下に隈ができてるわね」
「分かりますか?」
翠鈴は、胡玲の些細な変化にも気づいてくれる。
自分では気づかないが。胡玲の声が、普段よりも小さいのだろう。翠鈴は少し身を乗りだして聞いている。
こういう些細な心遣いが、人の心を掴むのだろうか。
同じ司燈の由由も、書令史の光柳も、桃莉公主も。翠鈴をいたく気に入っている。
翠鈴は夜中にこっそりと薬を売っているが。そんな彼女を「女炎帝」と呼んで、心酔している者もいる。
さすがに胡玲は、女炎帝の正体を口にはしないが。
(翠鈴姐が後宮に来てくれるまでは、私が過労で倒れそうになっていても、気づく人なんていなかったんだけど)
胡玲は、匙ですくったやわらかな豆腐を口に運んだ。よそってもらったばかりの翠鈴たちの豆腐脳と違い、胡玲の分は、すでに冷めてしまっている。
厨房では火にかけた鍋から、もうもうと湯気が立っている。
早々に食事を終えた人たちが、空になった食器を運んでいる。
皿を洗うカチャカチャという音や、水を使う音。波のような話し声。翠鈴と由由の他愛ない会話を、胡玲はぼんやりと聞いていた。
故郷の村にいた時。胡玲は、翠鈴を独り占めしていた。
女の子らしくない翠鈴は、男子に人気はなかった。むしろ、夢見がちで甘い雰囲気の女の子がちやほやされていた。
その目つきの鋭さを、翠鈴はよく茶化されていた。
――別に気にしなくていいわ。薬師に顔は関係ないから。
強がりではなく、翠鈴は本当に気にしていないようだった。
(みんな、わかってない。男の子なんかより、翠鈴姐のほうがすごいのに。薬の知識もあるし、勉強もしている。勇気だってある。それに優しいのに)
故郷の村にいた頃は、翠鈴が認められないことに、胡玲はもやもやした気持ちを抱いていたが。
今は逆に、翠鈴を「女炎帝」として心酔する女官や宮女ばかりで辟易する。
女炎帝の正体を知らない人がほとんどだが。中には、未央宮の司燈と知っていて、黙っている人もいる。
(翠鈴姐は何も変わっていない。昔のままなのに。場所が変わるだけで、こんなにも評価が違ってしまうなんて)
自分でも気づかぬうちに、ため息をついていたようだ。
顔を上げた胡玲は、翠鈴と目が合った。
「胡玲。これ、あげる」
翠鈴が向かいの席から手を伸ばす。胡玲のてのひらに、小さな紙の包みがふたつ載せられた。
「疲れた時は、甘いものよ」
紙を開くと、琥珀色の飴が現れた。中に松の実が入っている松仁糖だ。
松の実は滋養強壮によい。飴に入っている量では、とうてい足りないが。一日五十粒ほど食べれば、健康を保持してくれるのだ。
「あ、ありがとう。翠鈴姐」
にっこりと笑った翠鈴は、隣に座る由由にも飴をあげている。
(松の実や枸杞の実の効能に摂取量も、子供の頃に翠鈴姐と覚えたっけ)
干した枸杞の実がおいしくて。食べ過ぎて大人に怒られたこともあった。
視線を感じるのだ。主に食堂や、後宮内を歩いているときに。
じっとりと湿った視線だ。知りあいが、胡玲に気づいて見るような軽さではない。
なのに、周囲を見まわしても胡玲を睨んでいる相手はいない。おそらくは、すぐに目を逸らしているのだろう。
「おはよう。胡玲」
「おはようございます」
食堂で朝食をとっている胡玲に、翠鈴と由由が挨拶をした。
ふたりとも一仕事を終えた後だ。起床後間もない女官や宮女と比べて、すっきりとした表情をしている。
湯気の立つ豆腐脳と油条という、定番の朝の献立だ。
「顔色が悪いわ。胡玲」
胡玲の向かいの席に座った翠鈴が、声をかけてくれる。
一時期は食堂を利用する女官や宮女の数が減っていたのだが。今は、以前のように賑わっている。というか混んでいる。
「眠れないの? 目の下に隈ができてるわね」
「分かりますか?」
翠鈴は、胡玲の些細な変化にも気づいてくれる。
自分では気づかないが。胡玲の声が、普段よりも小さいのだろう。翠鈴は少し身を乗りだして聞いている。
こういう些細な心遣いが、人の心を掴むのだろうか。
同じ司燈の由由も、書令史の光柳も、桃莉公主も。翠鈴をいたく気に入っている。
翠鈴は夜中にこっそりと薬を売っているが。そんな彼女を「女炎帝」と呼んで、心酔している者もいる。
さすがに胡玲は、女炎帝の正体を口にはしないが。
(翠鈴姐が後宮に来てくれるまでは、私が過労で倒れそうになっていても、気づく人なんていなかったんだけど)
胡玲は、匙ですくったやわらかな豆腐を口に運んだ。よそってもらったばかりの翠鈴たちの豆腐脳と違い、胡玲の分は、すでに冷めてしまっている。
厨房では火にかけた鍋から、もうもうと湯気が立っている。
早々に食事を終えた人たちが、空になった食器を運んでいる。
皿を洗うカチャカチャという音や、水を使う音。波のような話し声。翠鈴と由由の他愛ない会話を、胡玲はぼんやりと聞いていた。
故郷の村にいた時。胡玲は、翠鈴を独り占めしていた。
女の子らしくない翠鈴は、男子に人気はなかった。むしろ、夢見がちで甘い雰囲気の女の子がちやほやされていた。
その目つきの鋭さを、翠鈴はよく茶化されていた。
――別に気にしなくていいわ。薬師に顔は関係ないから。
強がりではなく、翠鈴は本当に気にしていないようだった。
(みんな、わかってない。男の子なんかより、翠鈴姐のほうがすごいのに。薬の知識もあるし、勉強もしている。勇気だってある。それに優しいのに)
故郷の村にいた頃は、翠鈴が認められないことに、胡玲はもやもやした気持ちを抱いていたが。
今は逆に、翠鈴を「女炎帝」として心酔する女官や宮女ばかりで辟易する。
女炎帝の正体を知らない人がほとんどだが。中には、未央宮の司燈と知っていて、黙っている人もいる。
(翠鈴姐は何も変わっていない。昔のままなのに。場所が変わるだけで、こんなにも評価が違ってしまうなんて)
自分でも気づかぬうちに、ため息をついていたようだ。
顔を上げた胡玲は、翠鈴と目が合った。
「胡玲。これ、あげる」
翠鈴が向かいの席から手を伸ばす。胡玲のてのひらに、小さな紙の包みがふたつ載せられた。
「疲れた時は、甘いものよ」
紙を開くと、琥珀色の飴が現れた。中に松の実が入っている松仁糖だ。
松の実は滋養強壮によい。飴に入っている量では、とうてい足りないが。一日五十粒ほど食べれば、健康を保持してくれるのだ。
「あ、ありがとう。翠鈴姐」
にっこりと笑った翠鈴は、隣に座る由由にも飴をあげている。
(松の実や枸杞の実の効能に摂取量も、子供の頃に翠鈴姐と覚えたっけ)
干した枸杞の実がおいしくて。食べ過ぎて大人に怒られたこともあった。
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