112 / 173
六章 出会い
8、手紙【1】
しおりを挟む
「あなたは厳しく育てられたのね」
「はい?」
思わぬ皇后の言葉に、蘭淑妃は顔を上げた。てっきり罵倒されると思っていたのだ。
「でも、ここは後宮。豪奢な泥の世界よ」
皇后が、蘭淑妃に顔を寄せた。
「立ち続けなさい。折れてはだめよ。あなたなら、どんな汚泥の中でも清く咲くことができるでしょう」
蓮の花びらが一枚、葉の上にこぼれた。
蘭淑妃が皇后と親しくなった朝。そして麟美の詩を知った初めての朝だった。
皇后にとって蘭淑妃は、他の四夫人よりも近しく思えたのだろう。蘭淑妃の人柄に惹かれたのかもしれない。
実際のところ、皇后の真意は蘭淑妃には分からない。「わたくしをどうして気にかけてくださるのですか」とも問えないので、知りようもない。
それでも桃莉のことを、ご自身が可愛がっている甥の未来の嫁にと考えてくれた。
いずれ桃莉公主を手放すことになる蘭淑妃が、寂しがらないようにと。
◇◇◇
数日後。未央宮に手紙が届けられた。
施家からだという。
「ねぇねぇ。ツイリン。おてがみ、きたの」
折りたたまれた紙を手に、桃莉公主が走ってくる。
作業部屋で、宮灯に油を注していた翠鈴は、床に座ったまま顔をあげた。
「タオリィね。おてがみもらったの、はじめて」
桃莉は興奮気味で、ふだんよりも声が大きい。
もちろん、寿華宮で出会った施潔華からだろう。
「よんでー」
「いいですけど。お母さまにお見せしましたか? まずは蘭淑妃から、ですよ」
「お母さまには『みせて』っていわれたけど。『あとで』っていったよ。じゅんばんなの」
順番って。宮女が一番という順は、この世には存在しない。
とはいえ、桃莉公主も初めてできた友人のことを、母親にすべて知られることが恥ずかしいのかもしれない。
「うーん。困りましたね」
「ツイリンも、よむのむずかしい? タオリィといっしょに、おべんきょうする? タオリィね、ちょっとはもじ、かけるよ」
「読めますが。わたしが読んでいいものかどうか」
その時、扉の陰に人の気配がした。
翠鈴が視線を向けると、侍女頭の梅娜が立っていた。
「いいから、読んであげて」と、梅娜の唇が動く。
「読んだ後に、淑妃さまに教えて差しあげて」と、小さな声が届いた。
「桃莉さまに、手紙を見せてもらえなくて。淑妃さま、泣いておしまいになったのよ」
風が吹きこんで、梅娜の声が散らされたが。それでも、目もとを手で押さえるそぶりをしたので、なんとか意味は汲み取れた。
これは順番どころではない。桃莉公主は、手紙を母親に見せるつもりがないのだろう。
(桃莉さまは蘭淑妃に手紙の内容を話すのが、お恥ずかしいんだ)
母親に対して秘密ができるのを、成長だと喜んでいいのだろうか。翠鈴は公主とは親しいが、他人であるから。ちょうどよい距離感なのだろう。
とにかく責任重大だ。
「なんてかいてあるの?」
「そうですね。わたしの次に、淑妃さまに手紙を見せるとお約束してくだされば。読んでさしあげますよ」
「えーっ」
桃莉公主が頬をふくらませる。やはり、だ。
「お約束がないと、翠鈴の目は文字が読めなくなるのです」
「ずるーい、ツイリン」
「簡単ですよ。桃莉さまがお約束をして、それを守ってくださればいいだけなんですから」
確かにずるいよなぁ、と翠鈴は思った。
だが、さすがに四夫人を差し置いて、自分だけが公主の私的な事情を知るわけにはいかない。
「ああ、ほら。瞼が閉じてきました。早く約束なさってください」
「えぇー、まって。だめよ、おきて。ツイリン」
「ねむいです。桃莉さま。この哀れな翠鈴をお助けください」
もはや趣旨が代わっている。だが、まだ五歳の桃莉はそれに気づかない。必死に翠鈴の肩を揺すり、瞼に手を伸ばして開こうとする。
「わかった。お母さまにちゃんとみせるから」
ぱちっと翠鈴が目を開いた。
「では、読んでさしあげましょう」
「わぁい。よかったぁ。翠鈴の目が覚めて」
桃莉が、満面の笑みで翠鈴の首にしがみついてくる。
ちくりと翠鈴の良心が咎めた。
「はい?」
思わぬ皇后の言葉に、蘭淑妃は顔を上げた。てっきり罵倒されると思っていたのだ。
「でも、ここは後宮。豪奢な泥の世界よ」
皇后が、蘭淑妃に顔を寄せた。
「立ち続けなさい。折れてはだめよ。あなたなら、どんな汚泥の中でも清く咲くことができるでしょう」
蓮の花びらが一枚、葉の上にこぼれた。
蘭淑妃が皇后と親しくなった朝。そして麟美の詩を知った初めての朝だった。
皇后にとって蘭淑妃は、他の四夫人よりも近しく思えたのだろう。蘭淑妃の人柄に惹かれたのかもしれない。
実際のところ、皇后の真意は蘭淑妃には分からない。「わたくしをどうして気にかけてくださるのですか」とも問えないので、知りようもない。
それでも桃莉のことを、ご自身が可愛がっている甥の未来の嫁にと考えてくれた。
いずれ桃莉公主を手放すことになる蘭淑妃が、寂しがらないようにと。
◇◇◇
数日後。未央宮に手紙が届けられた。
施家からだという。
「ねぇねぇ。ツイリン。おてがみ、きたの」
折りたたまれた紙を手に、桃莉公主が走ってくる。
作業部屋で、宮灯に油を注していた翠鈴は、床に座ったまま顔をあげた。
「タオリィね。おてがみもらったの、はじめて」
桃莉は興奮気味で、ふだんよりも声が大きい。
もちろん、寿華宮で出会った施潔華からだろう。
「よんでー」
「いいですけど。お母さまにお見せしましたか? まずは蘭淑妃から、ですよ」
「お母さまには『みせて』っていわれたけど。『あとで』っていったよ。じゅんばんなの」
順番って。宮女が一番という順は、この世には存在しない。
とはいえ、桃莉公主も初めてできた友人のことを、母親にすべて知られることが恥ずかしいのかもしれない。
「うーん。困りましたね」
「ツイリンも、よむのむずかしい? タオリィといっしょに、おべんきょうする? タオリィね、ちょっとはもじ、かけるよ」
「読めますが。わたしが読んでいいものかどうか」
その時、扉の陰に人の気配がした。
翠鈴が視線を向けると、侍女頭の梅娜が立っていた。
「いいから、読んであげて」と、梅娜の唇が動く。
「読んだ後に、淑妃さまに教えて差しあげて」と、小さな声が届いた。
「桃莉さまに、手紙を見せてもらえなくて。淑妃さま、泣いておしまいになったのよ」
風が吹きこんで、梅娜の声が散らされたが。それでも、目もとを手で押さえるそぶりをしたので、なんとか意味は汲み取れた。
これは順番どころではない。桃莉公主は、手紙を母親に見せるつもりがないのだろう。
(桃莉さまは蘭淑妃に手紙の内容を話すのが、お恥ずかしいんだ)
母親に対して秘密ができるのを、成長だと喜んでいいのだろうか。翠鈴は公主とは親しいが、他人であるから。ちょうどよい距離感なのだろう。
とにかく責任重大だ。
「なんてかいてあるの?」
「そうですね。わたしの次に、淑妃さまに手紙を見せるとお約束してくだされば。読んでさしあげますよ」
「えーっ」
桃莉公主が頬をふくらませる。やはり、だ。
「お約束がないと、翠鈴の目は文字が読めなくなるのです」
「ずるーい、ツイリン」
「簡単ですよ。桃莉さまがお約束をして、それを守ってくださればいいだけなんですから」
確かにずるいよなぁ、と翠鈴は思った。
だが、さすがに四夫人を差し置いて、自分だけが公主の私的な事情を知るわけにはいかない。
「ああ、ほら。瞼が閉じてきました。早く約束なさってください」
「えぇー、まって。だめよ、おきて。ツイリン」
「ねむいです。桃莉さま。この哀れな翠鈴をお助けください」
もはや趣旨が代わっている。だが、まだ五歳の桃莉はそれに気づかない。必死に翠鈴の肩を揺すり、瞼に手を伸ばして開こうとする。
「わかった。お母さまにちゃんとみせるから」
ぱちっと翠鈴が目を開いた。
「では、読んでさしあげましょう」
「わぁい。よかったぁ。翠鈴の目が覚めて」
桃莉が、満面の笑みで翠鈴の首にしがみついてくる。
ちくりと翠鈴の良心が咎めた。
47
お気に入りに追加
704
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?
朱音ゆうひ
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!
「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」
王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。
不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。
もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた?
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる