107 / 184
六章 出会い
3、たどり着くのか?
しおりを挟む
侍女たちが、桃莉の手を洗い、髪を梳かして着替えさせた。
前で合わせる衿の部分に花模様の刺繍を施した、おしゃれな衣裳だ。
さっきまで泥で遊んでいたとは思えぬほどに、清楚で愛らしい。
皇后の宮に同行するのは、侍女頭の梅娜と翠鈴だ。二十代半ばの梅娜は、いつもは落ち着いているのだが。今日はそわそわとしている。
未央宮の門を出るまで、桃莉公主はなんどもふり返って、蘭淑妃に手をふっていた。
「迷子にならないようにね、桃莉」
「だいじょうぶ。タオリィ、しっかりさんだから」
「皇后娘娘へのご挨拶は覚えたわね」
「うん。タオリィ、おりこうさんだから」
頼れる言葉に、蘭淑妃をはじめ未央宮の侍女たちが「おおっ」と歓声をあげる。
誰もが口々に「いってらっしゃいませ。公主さま」「ご武運を」などと言うものだから。
付き添いの翠鈴も、まるで今から出征するような気分になってしまう。
「あのー。失礼があっても、手打ちになんてなりませんよね」
梅娜の耳もとで、翠鈴は問うた。
左手は、桃莉とつないでいるので。彼女には聞こえないように小声だ。
「大丈夫よ。杷国の皇太后で、それはもう恐ろしいお方がいらっしゃったけど。それは昔のことだからね」
「どれくらい恐ろしいんですか?」
「訊いちゃったわね」
梅娜はにたぁと暗い笑みを浮かべた。
「あ、今のナシで」
薬師だから、病に伏した人や怪我をした人を見る頻度は高い。だが、翠鈴の本能がその先を知るのを拒否した。
おそらく猟奇的な罰を下したのだろう。
だとしたら、就いたばかりの大理寺卿を降ろされた陳天分は、悪い意味での懐古主義者だったのかもしれない。
「ほら、公主もいらっしゃいますから」
「それもそうね。姫さまの耳に入ってはいけないわね」
小声で話す翠鈴と梅娜を、桃莉公主が見あげた。
「ちゃんとついてくるのよ、メイナー、ツイリン」
小さな主は、大役を任されたこともあって勇ましい。
だが、それも一瞬のことだった。
まだ春には遠いというのに。越冬中に迷い出てしまったのだろう。黄色い蝶がふわふわと飛んでいる。
「わぁ、ちょうちょだぁ」
桃莉が翠鈴の手を離して走り出した。
「いけません。桃莉さま」
慌てた翠鈴が、桃莉の腰の部分を持って抱きあげる。空中に上げられても、桃莉は手を足を動かしていた。
両足をバタバタさせる桃莉。両腕で桃莉を抱える翠鈴。
あまりにも目立つ。
後宮内を歩いている宦官が「うわ、誘拐か」と身構えたが。翠鈴の側に立つ侍女頭の梅娜を見て、胸をなでおろす。
「桃莉さま。暴れては危ないですよ」
「だって、ツイリン。ちょうちょだよ。ほら、いっちゃうよ」
「行ってしまった方がいいんです。まだ冬ですからね。冷たい風を避けることのできる場所を探しているんです」
「びおうきゅうなら、あったかいよ」
うーん、想像できるぞ。
きっと火鉢で温かくなった部屋で。桃莉公主は、黄色い蝶を相手に「はい、お花のみつですよ。たっぷりのんでね」と、庭の水鉢に張った氷の薄いかけらを差しだすのだろう。
「また春に出てきてくれますから。ちょうちょさん、またねって手をふりましょうね」
「ちょうちょさん、タオリィのこと、おぼえてる?」
「はい。こんなにも愛らしい桃莉さまのことを、どうして忘れることができましょう。あの黄色い蝶は、春まで桃莉さまの夢を見て眠るんですよ。温かくなれば、本当の桃莉さまに会いに来てくれるでしょう」
翠鈴の言葉に、梅娜がうっとりとした表情を浮かべる。その瞳が「素敵ねぇ」と語っている。
(いけない。光柳さまといることが多いから。つい、麟美さまの詩みたいに話してしまった)
詩心なんて、これっぽっちもないのに。
通りを歩く大人たちが、どんどん翠鈴たちを追い越していく。
「そのうち亀にでも抜かれそうね」
「否定はできません」
梅娜と翠鈴は、顔を見合わせて苦笑した。
「桃莉さま。重要なお務めをお忘れではないですか?」
「はっ。そうだった!」
梅娜に声をかけられて、桃莉はようやく何をすべきか思いだしたようだ。
(これは、寿華宮に着くまで、手を離さない方がいいね)
公主の小さな右手を、翠鈴はぎゅっと握りしめた。
前で合わせる衿の部分に花模様の刺繍を施した、おしゃれな衣裳だ。
さっきまで泥で遊んでいたとは思えぬほどに、清楚で愛らしい。
皇后の宮に同行するのは、侍女頭の梅娜と翠鈴だ。二十代半ばの梅娜は、いつもは落ち着いているのだが。今日はそわそわとしている。
未央宮の門を出るまで、桃莉公主はなんどもふり返って、蘭淑妃に手をふっていた。
「迷子にならないようにね、桃莉」
「だいじょうぶ。タオリィ、しっかりさんだから」
「皇后娘娘へのご挨拶は覚えたわね」
「うん。タオリィ、おりこうさんだから」
頼れる言葉に、蘭淑妃をはじめ未央宮の侍女たちが「おおっ」と歓声をあげる。
誰もが口々に「いってらっしゃいませ。公主さま」「ご武運を」などと言うものだから。
付き添いの翠鈴も、まるで今から出征するような気分になってしまう。
「あのー。失礼があっても、手打ちになんてなりませんよね」
梅娜の耳もとで、翠鈴は問うた。
左手は、桃莉とつないでいるので。彼女には聞こえないように小声だ。
「大丈夫よ。杷国の皇太后で、それはもう恐ろしいお方がいらっしゃったけど。それは昔のことだからね」
「どれくらい恐ろしいんですか?」
「訊いちゃったわね」
梅娜はにたぁと暗い笑みを浮かべた。
「あ、今のナシで」
薬師だから、病に伏した人や怪我をした人を見る頻度は高い。だが、翠鈴の本能がその先を知るのを拒否した。
おそらく猟奇的な罰を下したのだろう。
だとしたら、就いたばかりの大理寺卿を降ろされた陳天分は、悪い意味での懐古主義者だったのかもしれない。
「ほら、公主もいらっしゃいますから」
「それもそうね。姫さまの耳に入ってはいけないわね」
小声で話す翠鈴と梅娜を、桃莉公主が見あげた。
「ちゃんとついてくるのよ、メイナー、ツイリン」
小さな主は、大役を任されたこともあって勇ましい。
だが、それも一瞬のことだった。
まだ春には遠いというのに。越冬中に迷い出てしまったのだろう。黄色い蝶がふわふわと飛んでいる。
「わぁ、ちょうちょだぁ」
桃莉が翠鈴の手を離して走り出した。
「いけません。桃莉さま」
慌てた翠鈴が、桃莉の腰の部分を持って抱きあげる。空中に上げられても、桃莉は手を足を動かしていた。
両足をバタバタさせる桃莉。両腕で桃莉を抱える翠鈴。
あまりにも目立つ。
後宮内を歩いている宦官が「うわ、誘拐か」と身構えたが。翠鈴の側に立つ侍女頭の梅娜を見て、胸をなでおろす。
「桃莉さま。暴れては危ないですよ」
「だって、ツイリン。ちょうちょだよ。ほら、いっちゃうよ」
「行ってしまった方がいいんです。まだ冬ですからね。冷たい風を避けることのできる場所を探しているんです」
「びおうきゅうなら、あったかいよ」
うーん、想像できるぞ。
きっと火鉢で温かくなった部屋で。桃莉公主は、黄色い蝶を相手に「はい、お花のみつですよ。たっぷりのんでね」と、庭の水鉢に張った氷の薄いかけらを差しだすのだろう。
「また春に出てきてくれますから。ちょうちょさん、またねって手をふりましょうね」
「ちょうちょさん、タオリィのこと、おぼえてる?」
「はい。こんなにも愛らしい桃莉さまのことを、どうして忘れることができましょう。あの黄色い蝶は、春まで桃莉さまの夢を見て眠るんですよ。温かくなれば、本当の桃莉さまに会いに来てくれるでしょう」
翠鈴の言葉に、梅娜がうっとりとした表情を浮かべる。その瞳が「素敵ねぇ」と語っている。
(いけない。光柳さまといることが多いから。つい、麟美さまの詩みたいに話してしまった)
詩心なんて、これっぽっちもないのに。
通りを歩く大人たちが、どんどん翠鈴たちを追い越していく。
「そのうち亀にでも抜かれそうね」
「否定はできません」
梅娜と翠鈴は、顔を見合わせて苦笑した。
「桃莉さま。重要なお務めをお忘れではないですか?」
「はっ。そうだった!」
梅娜に声をかけられて、桃莉はようやく何をすべきか思いだしたようだ。
(これは、寿華宮に着くまで、手を離さない方がいいね)
公主の小さな右手を、翠鈴はぎゅっと握りしめた。
35
お気に入りに追加
732
あなたにおすすめの小説

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

夫の隠し子を見付けたので、溺愛してみた。
辺野夏子
恋愛
セファイア王国王女アリエノールは八歳の時、王命を受けエメレット伯爵家に嫁いだ。それから十年、ずっと仮面夫婦のままだ。アリエノールは先天性の病のため、残りの寿命はあとわずか。日々を穏やかに過ごしているけれど、このままでは生きた証がないまま短い命を散らしてしまう。そんなある日、アリエノールの元に一人の子供が現れた。夫であるカシウスに生き写しな見た目の子供は「この家の子供になりにきた」と宣言する。これは夫の隠し子に間違いないと、アリエノールは継母としてその子を育てることにするのだが……堅物で不器用な夫と、余命わずかで卑屈になっていた妻がお互いの真実に気が付くまでの話。
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

私には何もありませんよ? 影の薄い末っ子王女は王の遺言書に名前が無い。何もかも失った私は―――
西東友一
恋愛
「遺言書を読み上げます」
宰相リチャードがラファエル王の遺言書を手に持つと、12人の兄姉がピリついた。
遺言書の内容を聞くと、
ある兄姉は周りに優越を見せつけるように大声で喜んだり、鼻で笑ったり・・・
ある兄姉ははしたなく爪を噛んだり、ハンカチを噛んだり・・・・・・
―――でも、みなさん・・・・・・いいじゃないですか。お父様から贈り物があって。
私には何もありませんよ?

〖完結〗愛人が離婚しろと乗り込んで来たのですが、私達はもう離婚していますよ?
藍川みいな
恋愛
「ライナス様と離婚して、とっととこの邸から出て行ってよっ!」
愛人が乗り込んで来たのは、これで何人目でしょう?
私はもう離婚していますし、この邸はお父様のものですから、決してライナス様のものにはなりません。
離婚の理由は、ライナス様が私を一度も抱くことがなかったからなのですが、不能だと思っていたライナス様は愛人を何人も作っていました。
そして親友だと思っていたマリーまで、ライナス様の愛人でした。
愛人を何人も作っていたくせに、やり直したいとか……頭がおかしいのですか?
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
全8話で完結になります。

転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?
朱音ゆうひ
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!
「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」
王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。
不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。
もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた?
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)

【完】お義母様そんなに嫁がお嫌いですか?でも安心してください、もう会う事はありませんから
咲貴
恋愛
見初められ伯爵夫人となった元子爵令嬢のアニカは、夫のフィリベルトの義母に嫌われており、嫌がらせを受ける日々。
そんな中、義父の誕生日を祝うため、とびきりのプレゼントを用意する。
しかし、義母と二人きりになった時、事件は起こった……。

幸せな番が微笑みながら願うこと
矢野りと
恋愛
偉大な竜王に待望の番が見つかったのは10年前のこと。
まだ幼かった番は王宮で真綿に包まれるように大切にされ、成人になる16歳の時に竜王と婚姻を結ぶことが決まっていた。幸せな未来は確定されていたはずだった…。
だが獣人の要素が薄い番の扱いを周りは間違えてしまう。…それは大切に想うがあまりのすれ違いだった。
竜王の番の心は少しづつ追いつめられ蝕まれていく。
※設定はゆるいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる