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六章 出会い

1、タスケテ

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 蘭淑妃が捻挫した。
 足首なので歩くのもつらそうだ。

「どうしましょう。今日は皇后娘娘ファンホウニャンニャンのお祝いの品を届けに、寿華宮じゅかきゅうに行かなければならないのに」

 翠鈴ツイリンは、椅子に座る蘭淑妃の手当てをしながら「大変ですね。延期なさるにも、知らせを立てないといけませんし」と応じた。

 皇后娘娘とは皇后陛下のことだ。
 侍女は、蘭淑妃の髪を高く結い、金で作られた花をいくつも挿している。

「皇后娘娘の体調が安定なさるまでしばらく待っていたら、寒さが厳しくなったでしょう。それに今日がいいと指定されたのよ」
「蘭淑妃さま。馬車はどうでしょう」

 侍女のひとりが提案した。

 それは目立つ。侍女の提案に、翠鈴は心中で突っ込んだ。

「馬車は仰々しいです。いっそ、輿を利用するという手もありますよ」

 それは悪目立ちしすぎる。
 未央宮びおうきゅうと、皇后の寿華宮は近いのだが。捻挫している蘭淑妃が歩いていくのは難しい

 皇后や妃嬪は、権力争いで対立することもあるが。蘭淑妃は他の妃嬪に干渉しないこともあり、特に問題はない。

「名代をお立てになっては、いかがでしょう」
「あら、いいわね」

 翠鈴の言葉に、蘭淑妃は明るい声で応じた。誰を遣わすか思案しているのだろう。あごに指をあてている。
 侍女たちは、自分が名代として選ばれるかもしれないと、緊張している。室内にいるのは、今は三人だが。その誰もが顔をこわばらせた。

「わたくしの代理を決めました」

 ぱんっ、と淑妃が手を叩く。

桃莉タオリィに行ってもらいます」
「は?」
「え?」
「どうして?」

 蘭淑妃の決定に、侍女がそれぞれ驚いた声をあげる。
 翠鈴だってびっくりだ。この部屋にはいないが、順当に侍女頭が選ばれるものだと思っていたのだから。

 ちょうどその時、扉がぎいっと開いた。

「お母さま。みてみて、あのね。タオリィ、土でおかしをつくったの」

 部屋に飛び込んできたのは、桃莉公主だ。晴れているとはいえ、冷たい風をまとわせている。長く庭にいたのだろう。頬が赤く染まっていた。

「ほら。茶湯チャータンだよ」
「茶湯、なの?」

 蘭淑妃の前に差しだされたのは、水分の多い泥と残雪、それからサルトリイバラの赤い実の入った碗だ。
 茶湯は、高粱コーリャンきびの粉を炒った粥だ。

「おいしいよ。お母さま」

 桃莉が一歩前に出ると、泥水がぽたりと床に落ちる。

「あつあつなの」

 いや、雪が載っている時点で、冷や冷やでしょうと侍女たちが突っ込みたそうな顔をしている。

 ぼたっ。ぼたっ。
 黒っぽい水が垂れる。

「そ、そうね。でも、お母さまは猫舌なの。熱いのは、ちょっと苦手かしら」

 蘭淑妃が椅子に座ったままで、翠鈴をじっと見つめてきた。その瞳が「タスケテ」と訴えている。
 本当に泥を食べないといけないと、勘違いしているみたいだ。

 おそらく蘭淑妃は、幼い頃に泥遊びなどしなかったのだろう。身分としては子供の頃の蘭淑妃よりも、桃莉公主の方が上なのだが。

 かつての蘭淑妃は、たいそうお行儀がよかったであろうし。桃莉公主はのびのびと育ち、自然に親しむのが好きなようだ。
 頼られたからには仕方がない。翠鈴は、桃莉公主の前に出た。

「桃莉さま。いちばん上に載っているのは、砂糖ですか?」
「うん、おさとう。しろくてきれいなほうの、おさとう。ちゃんと土のついてないのをつかったよ」

 翠鈴が興味を持ったことで、桃莉の笑顔がはじけた。
 どうやら桃莉公主はこだわりが強いらしい。

 草木の灰で精製する白砂糖を、雪で模したようだ。

(うーん。せっかくしもやけが治ったのに。これは再発するなぁ)

 冬でも元気に外遊びをするのがいいが。桃莉はすぐに手覆ておおいを外してしまう。

(また医局に行って、しもやけの薬を調合しないと)

 以前、しもやけが痛くてかゆいと泣いていた桃莉の姿を、翠鈴は思いだしていた。
 痛みを我慢する健気な様子は、思いだすだけでもつらい。

「でね、この赤いのがほしぶどうだよ」
「サルトリイバラの実ですね。山帰来さんきらいともいいますが」
「ちがうよ。ほしぶどうなの」

 おっといけない。これはままごとだ。翠鈴は気を引き締めた。大人になると、子供の頃の感覚をつい忘れてしまう。

「桃莉もしっかりしてきたわねぇ」

 翠鈴に意見できるようになった娘を、蘭淑妃は眩しそうに眺めている。
 今も人見知りはあるが。確かに以前よりも、桃莉公主は成長している。

「桃莉。お母さまの代わりに、皇后娘娘ファンホウニャンニャンがいらっしゃる寿華宮に行ってくださいね」
「いやっ」

 蘭淑妃のお願いは、瞬時に却下された。
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