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五章 女炎帝

17、待っていたから

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「ふぐっ、ぐ」

 縛られた両手を、宦官は振りまわす。
 翠鈴はしゃがんで、相手の背中に膝を置いた。そのまま体重をかける。

 足も縛った方がいい。けれど、紐はもうない。

(早く……お願いだから。早く)

 翠鈴が心の内で呼ぶのは、あの人しかいない。

「お手伝いします」

 女官が声を張りあげた。

「無理はしないで」
「いいえ。女炎帝さまだって、無理をなさってるじゃないですか」

 さっきまで脅えていたのに。今も指が震えているのに。女官は果敢にも、倒れた宦官の背中を両手で押さえる。
 だが、宦官は足をバタバタと動かした。力が強い。
 下手をすれば蹴られてしまう。

 もうこれ以上は無理だ。乱れる自分の髪で、翠鈴は視界が効かない。
 宦官の足が、翠鈴の肩にあたった。痛みは、衝撃から遅れてやってきた。

「女炎帝さまっ」

 女官の叫びに、待っていた声が重なった。確かに「翠鈴」と聞こえた。

 崩れそうになる翠鈴の体を支える手があった。しなやかなのに力強い手だ。
 ぐいっと引っ張られて、その人の腕に閉じ込められる。

「雲嵐。そいつを逃がすなよ」
「承知いたしました」

 立ち上がろうとしたした警備の宦官を、雲嵐が捕らえた。あまりにも呆気なく。
 翠鈴の力ではどうにもならなかったのに。

「ふふっ」と、自分でも気づかぬ内に笑いがこぼれていた。
 女炎帝と噂されて、いい気になっているわけではない。けれど、後宮に暮らす女性たちが抱える密かな悩みや体の不調を、いくらかは救えていると思っていた。

(わたしはこんなにも無力なのに)

 たった一人の女官を守ることすら、難しいのに。

 光柳と雲嵐は、口から菖蒲の葉を吐きだした宦官を、可哀想なものを見る目で眺めていた。

「光柳さま。こいつはどうしましょうか。この時間は大理寺には誰もいませんよね」
「いや。夜中に、この池に集まる女官や宮女を牢獄に放りこんでいるのだ。誰か待機しているだろう」

「では先に参ります」と、雲嵐は警備の宦官を立たせた。

 雲嵐が歩きはじめた、その時。翠鈴の足の力が抜けた。ぺたりとその場に座りこんでしまう。

「あれ? おかしいな」

 立てない。こんなみっともない姿をさらすわけにはいかないのに。

「おかしくはないさ。緊張が解けて、力が入らないんだろう」

 光柳が、橋の上でしゃがんだ翠鈴に手を差し伸べる。
 強い力でぐいっと引きあげられた。

「そうですよ。無理をなさったんですから」

 女官が翠鈴の背中に手を添えた。彼女の方が、身分は上だというのに。優しくいたわる手つきで、翠鈴の体を支えてくれる。

(本当にそうだ。わたしはひとりで何とかしようとして。でも、結局は光柳さまと雲嵐さまを待っていた)

 強くあらねばと考えていた。強くあることを望まれていた。
 でも、光柳と女官のふたりに支えられなければ、立つこともままならない。

「翠鈴」

 握った手を離さないままで、光柳に名を呼ばれた。怒りをこらえたような、低い声だ。

「しばらくこの池には来ないようにと、言ったはずだよな」
「……はい」
「どうして君は、私の忠告に耳を貸さないんだ」

 あ、これはお説教が長くなる。

「今日は薬を持っていないのだから、商売ではないだろうが。それでもだな、君を捕らえるために大理寺は動いているんだ。危険だという認識はあるはずだよな」

 翠鈴はうなずいた。確かに光柳に念押しをされていた。それを忘れていたわけではないが。

「お待ちください。女炎帝さまは、私を救うために来てくださったんです」

 果敢にも女官が、光柳に意見した。
 ほとんどの女性が彼を目にすれば、ぽわんと夢見心地になるというのに。

「最近は女官と宮女の数が減ってしまって。原因が大理寺にあるなんて、知らなくて。でも、女炎帝さまはすべてご存じの上で、私を助けてくださったんです」

 勢い込んで訴えるものだから。女官は咳きこんでしまった。
 まぁ。「すべてご存じ」だったのは、そこで説教している光柳に注意されたからだけど。

「あなたの言いたいことは分かった。翠鈴が私の言いつけを守らなかったのも、理解できる。だが、ひとりで行動するな」
「光柳さまが、いらしてくださると信じていたから。だから動いたんです。これ以上、女官や宮女が苦しい目に遭わないように」
「うっ」

 翠鈴の言葉に、光柳は声を詰まらせた。

「私を……信じて。そうか、私を信じていたのか」

 どうやらその言葉が、光柳の心の奥にある柔らかい部分に触れたらしい。
 無事、お説教は終わった。
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