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五章 女炎帝
13、泣きそうな笑顔
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未央宮に侵入した宮女の刑が執行された。
足首の腱を切られ、追放されたという。
未央宮の庭で、光柳から話を聞いた翠鈴は、息を呑んだ。言葉を発することもできなかった。
「大丈夫ですか。翠鈴」
雲嵐が、気遣って声をかける。翠鈴の返事を待って、光柳は説明を続けた。
「あの宮女は、甘露宮の侍女の腕輪を盗んでいた。琅玕だ」
「翡翠の皇帝ですか」
宮女の袖から見えていたのは、よりにもよって琅玕だったのか。あまりにも価値が高く、高貴な翡翠だ。
甘露宮で、そんな腕輪を好んで使うのはただひとり。
「その琅玕は、陳燕の物ですね」
「そうだ。察しがいいな」
光柳は苦々しそうに、眉を寄せた。
未央宮の侍女や宮女たちは、光柳が現れると足を止めて、ぼうっと見惚れることが多いが。さすがに重い雰囲気なので、誰もがすぐに立ち去っている。
「重い刑ですね。歩行が困難になりますし、生活するにも苦労が伴います」
翠鈴はため息をついた。
盗みをかばうつもりはないが。貧しくなければ、そもそも窃盗などしない。宮女の給金は安く。翠鈴にしても、夜更けに薬を売る方がよほど稼ぎがいい。
空はよく晴れて、太陽は中天で白く輝いている。
外で立ち話をするにも、あまり寒さが苦にならない。昼間なので、翠鈴も今は首に圍巾を巻いていない。
だが、こんなにも背筋が寒い。
妃でもないのに、最高級の翡翠を後宮に持ちこんだ陳燕は、明らかに度を越している。
けれど、そこに宝石があるからといって、盗んでいいわけがない。
「あの宮女は、琅玕とふつうの翡翠の区別がつかなかったようだ。宮女の給金が安いので、貧しい家族に送ってやりたいと考えていたらしい」
光柳も思うところがあるのだろう。
翠鈴と接して、初めてふつうの宮女の待遇について知ったようだ。
後宮での皇后や妃嬪の暮らしは、贅を尽くしているというのに。それを支える宮女は、搾取されて当然と思われている節がある。
労働は厳しく、給金は安く。気軽に外に出ることも叶わない。
宮女はただの消耗品だ。使えなくなれば、補充すればよい。
蘭淑妃の未央宮に配属された自分は、運がよかっただけだ。
「大理寺卿は、あの宮女の両足の切断を考えていたらしい。裁判をする刑部が、罪と罰が釣り合っていないと判断したのだが」
翠鈴は喉の奥で短い悲鳴を上げた。
ありえない。なんてこと。
処置もろくに出来ない状態で、体の一部を切断して放置したら。それは死罪と変わらない。
「あまりにも行き過ぎている」と光柳は重い息をついた。
「……見逃した方が、よかったのでしょうか。けれど逆上されたら、蘭淑妃や桃莉公主の身が危険でした」
現に、侵入した宮女は翠鈴に鉢を投げた。
桃莉公主が、何事かと近寄っていたら。公主を避難させるのが遅れていれば、と考えるだけで身震いがする。
盆栽の松を植えていた鉢は重い。子供ではなく大人でも、頭に当たれば命を失う可能性が高い。
「いや、正しい判断だ。もし、あの宮女が厨房から包丁を持ち出していたら。翠鈴、君は刺されていたに違いない」
むろん、その前に君は件の宮女を抑え込んでいただろうが、と光柳は苦い笑みを浮かべた。
「わたしは強いわけではありません」
翠鈴は、こぶしを握りしめた。だが発した声は、今にも消え入りそうに小さい。
「強くあろうとしているだけです」
「そうだな。だから私は何度も言っているし、この先何度でも言い続けるだろう。翠鈴、君には私や雲嵐がついている、と」
光柳の柔らかな口調に、その言葉に。翠鈴のこぶしが解けた。
「雲嵐は私の護衛だが。こいつは、私ごと翠鈴を守ってくれるぞ。そういう奴だ」
主の言葉に、雲嵐がうなずいた。
「そうでした。わたしはもう一人ではないのでした」
なぜだろう。
自分の顔は確かに笑みを浮かべているのに。こんなにも泣きたいのは。
翠鈴は情けない笑顔になった。
足首の腱を切られ、追放されたという。
未央宮の庭で、光柳から話を聞いた翠鈴は、息を呑んだ。言葉を発することもできなかった。
「大丈夫ですか。翠鈴」
雲嵐が、気遣って声をかける。翠鈴の返事を待って、光柳は説明を続けた。
「あの宮女は、甘露宮の侍女の腕輪を盗んでいた。琅玕だ」
「翡翠の皇帝ですか」
宮女の袖から見えていたのは、よりにもよって琅玕だったのか。あまりにも価値が高く、高貴な翡翠だ。
甘露宮で、そんな腕輪を好んで使うのはただひとり。
「その琅玕は、陳燕の物ですね」
「そうだ。察しがいいな」
光柳は苦々しそうに、眉を寄せた。
未央宮の侍女や宮女たちは、光柳が現れると足を止めて、ぼうっと見惚れることが多いが。さすがに重い雰囲気なので、誰もがすぐに立ち去っている。
「重い刑ですね。歩行が困難になりますし、生活するにも苦労が伴います」
翠鈴はため息をついた。
盗みをかばうつもりはないが。貧しくなければ、そもそも窃盗などしない。宮女の給金は安く。翠鈴にしても、夜更けに薬を売る方がよほど稼ぎがいい。
空はよく晴れて、太陽は中天で白く輝いている。
外で立ち話をするにも、あまり寒さが苦にならない。昼間なので、翠鈴も今は首に圍巾を巻いていない。
だが、こんなにも背筋が寒い。
妃でもないのに、最高級の翡翠を後宮に持ちこんだ陳燕は、明らかに度を越している。
けれど、そこに宝石があるからといって、盗んでいいわけがない。
「あの宮女は、琅玕とふつうの翡翠の区別がつかなかったようだ。宮女の給金が安いので、貧しい家族に送ってやりたいと考えていたらしい」
光柳も思うところがあるのだろう。
翠鈴と接して、初めてふつうの宮女の待遇について知ったようだ。
後宮での皇后や妃嬪の暮らしは、贅を尽くしているというのに。それを支える宮女は、搾取されて当然と思われている節がある。
労働は厳しく、給金は安く。気軽に外に出ることも叶わない。
宮女はただの消耗品だ。使えなくなれば、補充すればよい。
蘭淑妃の未央宮に配属された自分は、運がよかっただけだ。
「大理寺卿は、あの宮女の両足の切断を考えていたらしい。裁判をする刑部が、罪と罰が釣り合っていないと判断したのだが」
翠鈴は喉の奥で短い悲鳴を上げた。
ありえない。なんてこと。
処置もろくに出来ない状態で、体の一部を切断して放置したら。それは死罪と変わらない。
「あまりにも行き過ぎている」と光柳は重い息をついた。
「……見逃した方が、よかったのでしょうか。けれど逆上されたら、蘭淑妃や桃莉公主の身が危険でした」
現に、侵入した宮女は翠鈴に鉢を投げた。
桃莉公主が、何事かと近寄っていたら。公主を避難させるのが遅れていれば、と考えるだけで身震いがする。
盆栽の松を植えていた鉢は重い。子供ではなく大人でも、頭に当たれば命を失う可能性が高い。
「いや、正しい判断だ。もし、あの宮女が厨房から包丁を持ち出していたら。翠鈴、君は刺されていたに違いない」
むろん、その前に君は件の宮女を抑え込んでいただろうが、と光柳は苦い笑みを浮かべた。
「わたしは強いわけではありません」
翠鈴は、こぶしを握りしめた。だが発した声は、今にも消え入りそうに小さい。
「強くあろうとしているだけです」
「そうだな。だから私は何度も言っているし、この先何度でも言い続けるだろう。翠鈴、君には私や雲嵐がついている、と」
光柳の柔らかな口調に、その言葉に。翠鈴のこぶしが解けた。
「雲嵐は私の護衛だが。こいつは、私ごと翠鈴を守ってくれるぞ。そういう奴だ」
主の言葉に、雲嵐がうなずいた。
「そうでした。わたしはもう一人ではないのでした」
なぜだろう。
自分の顔は確かに笑みを浮かべているのに。こんなにも泣きたいのは。
翠鈴は情けない笑顔になった。
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