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五章 女炎帝
12、弱みは見せられない
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「え?」
陳燕の体がぐらついた。
何かにつかまろうとしたが。大理寺の前の、ただ開けた場所だ。陳燕の手は、空を掻いた。
「え? え?」
叔父さま。どうして?
陳燕の体は地面に叩きつけられた。痛みよりも先に、右頬に熱を感じた。すりむいたようだ。
立とうとすると、足首に激痛が走った。
「ほら。そんなおかしな底の高い沓を履くから。まともに歩くことも、危機を避けることもできないんだ。普段から花盆沓を履いているのか? まさか、それで仕事をしているんじゃないだろうな」
陳燕を見おろす叔父の顔には、薄笑いが浮かんでいた。
そうだ。思いだした。
叔父は陳燕のことを嫌っていたのだ。
生まれてからこのかた、陳燕は叔父に「阿燕」と呼ばれたことがない。
「ちゃん」づけで呼ぶほどの親しさを、叔父は感じてくれていないのだ。
「普段から、よく転んでいるのか?」
平坦な声で、陳天分は問うた。
「侍女としてまともに働けないのでは、陳家の恥さらしだな。文官か武官にでも下賜されて、嫁入りした方がいいだろうな」
まだ陳燕は立ち上がれない。
大理寺に出入りする官吏が、彼女を一瞥しては去っていく。
陳燕は、ぎりっと歯ぎしりした。
後宮なら、貴妃の侍女である自分はこんな非道な扱いを受けない。大商家の令嬢と、一目置かれることも多い。
(未央宮の司燈は、生意気でわたくしに盾突くけれど)
けれど、陸翠鈴は毒から陳燕を守ってくれた。
いや、あんな下位の宮女のことを思いだすなんてどうかしている。
「叔父さま……助けて」
「立てないのか?」
冷ややかに問われて、陳燕はこくりとうなずいた。きれいに結っていた髪は乱れ、土にまみれている。
「その珍妙な沓を脱げば、立てるだろう? 裸足で後宮まで戻ればいい」
「甘露宮は、後宮でも奥にあるんです。ご存じでしょう」
「じゃあ、宦官にでもおぶってもらえばいい」
陳燕が転んだのを眺めていた、通りすがりの宦官は、両手を前に出して振った。全力の拒否だ。
「よかったな。その沓が外を歩くのに向いていないと、分かったじゃないか。身をもって知ることは大切だ。生きた教育だな」
叔父の長い話は続いた。
衣裳を盗まれたのは、高価なものを後宮に持ちこんだお前が悪いのだ、と。
親族とはいえ、自分に迷惑のかかるようなことはしないでくれ、と。
(わたくしは、ただお祝いを言いたかっただけなのに。そのために許可を取って、後宮から外廷にまで出てきたのに)
純粋な好意を悪意で返されるなんて。
まだにへたり込んだままの陳燕は、爪で地面を引っ掻いた。
美しく整った、艶のある爪の中に土が入る。
では、仕事があるのでと陳天分は姪に背を向けた。
◇◇◇
叔父の陳天分に、あれほどコケにされて陳燕は悔しい思いをしたのに。
ほんの数日経っただけで。また貴重品が盗まれた。
実家から持ってきた翡翠の腕環だ。
しかも琅玕といわれる最高品質のものだ。翡翠の皇帝とも称される。
「どうして、ないのよ。ちゃんと大事に保管していたのに」
琅玕の腕輪は、宴で馬貴妃の供をするときに、必ずつけている。失くすはずがない。
「どうしたらいいのよぉぉぉぉ!」
陳燕の叫びが、壁に天井に反響する。
四人の侍女が「どうしたの」と、部屋に飛び込んできた。
侍女たちは、夜着の上からあわてて上着をはおった様子だ。すでに就寝時間であることに、陳燕はようやく気付いた。
「ごめんなさい。ちょっと足が痛んだだけよ」
弱みは見せられない。
みな令嬢で、入内前の馬貴妃に仕えていた者もいる。陳燕よりも家柄がいい。
「それなら明日にでも医局に行った方がいいわ」
「立てる? 手を貸しましょうか?」
優しい言葉が、鬱陶しい。
もうひとりの侍女は、床に散らかった陳燕の衣を拾って畳んでくれた。
(もうやめてよ。わたくしは、あなた達に優しくしたことなんてないわ)
弱みなんて見せたくない。見せられない。
けれど。陳燕には頼れる人もいない。
陳燕の体がぐらついた。
何かにつかまろうとしたが。大理寺の前の、ただ開けた場所だ。陳燕の手は、空を掻いた。
「え? え?」
叔父さま。どうして?
陳燕の体は地面に叩きつけられた。痛みよりも先に、右頬に熱を感じた。すりむいたようだ。
立とうとすると、足首に激痛が走った。
「ほら。そんなおかしな底の高い沓を履くから。まともに歩くことも、危機を避けることもできないんだ。普段から花盆沓を履いているのか? まさか、それで仕事をしているんじゃないだろうな」
陳燕を見おろす叔父の顔には、薄笑いが浮かんでいた。
そうだ。思いだした。
叔父は陳燕のことを嫌っていたのだ。
生まれてからこのかた、陳燕は叔父に「阿燕」と呼ばれたことがない。
「ちゃん」づけで呼ぶほどの親しさを、叔父は感じてくれていないのだ。
「普段から、よく転んでいるのか?」
平坦な声で、陳天分は問うた。
「侍女としてまともに働けないのでは、陳家の恥さらしだな。文官か武官にでも下賜されて、嫁入りした方がいいだろうな」
まだ陳燕は立ち上がれない。
大理寺に出入りする官吏が、彼女を一瞥しては去っていく。
陳燕は、ぎりっと歯ぎしりした。
後宮なら、貴妃の侍女である自分はこんな非道な扱いを受けない。大商家の令嬢と、一目置かれることも多い。
(未央宮の司燈は、生意気でわたくしに盾突くけれど)
けれど、陸翠鈴は毒から陳燕を守ってくれた。
いや、あんな下位の宮女のことを思いだすなんてどうかしている。
「叔父さま……助けて」
「立てないのか?」
冷ややかに問われて、陳燕はこくりとうなずいた。きれいに結っていた髪は乱れ、土にまみれている。
「その珍妙な沓を脱げば、立てるだろう? 裸足で後宮まで戻ればいい」
「甘露宮は、後宮でも奥にあるんです。ご存じでしょう」
「じゃあ、宦官にでもおぶってもらえばいい」
陳燕が転んだのを眺めていた、通りすがりの宦官は、両手を前に出して振った。全力の拒否だ。
「よかったな。その沓が外を歩くのに向いていないと、分かったじゃないか。身をもって知ることは大切だ。生きた教育だな」
叔父の長い話は続いた。
衣裳を盗まれたのは、高価なものを後宮に持ちこんだお前が悪いのだ、と。
親族とはいえ、自分に迷惑のかかるようなことはしないでくれ、と。
(わたくしは、ただお祝いを言いたかっただけなのに。そのために許可を取って、後宮から外廷にまで出てきたのに)
純粋な好意を悪意で返されるなんて。
まだにへたり込んだままの陳燕は、爪で地面を引っ掻いた。
美しく整った、艶のある爪の中に土が入る。
では、仕事があるのでと陳天分は姪に背を向けた。
◇◇◇
叔父の陳天分に、あれほどコケにされて陳燕は悔しい思いをしたのに。
ほんの数日経っただけで。また貴重品が盗まれた。
実家から持ってきた翡翠の腕環だ。
しかも琅玕といわれる最高品質のものだ。翡翠の皇帝とも称される。
「どうして、ないのよ。ちゃんと大事に保管していたのに」
琅玕の腕輪は、宴で馬貴妃の供をするときに、必ずつけている。失くすはずがない。
「どうしたらいいのよぉぉぉぉ!」
陳燕の叫びが、壁に天井に反響する。
四人の侍女が「どうしたの」と、部屋に飛び込んできた。
侍女たちは、夜着の上からあわてて上着をはおった様子だ。すでに就寝時間であることに、陳燕はようやく気付いた。
「ごめんなさい。ちょっと足が痛んだだけよ」
弱みは見せられない。
みな令嬢で、入内前の馬貴妃に仕えていた者もいる。陳燕よりも家柄がいい。
「それなら明日にでも医局に行った方がいいわ」
「立てる? 手を貸しましょうか?」
優しい言葉が、鬱陶しい。
もうひとりの侍女は、床に散らかった陳燕の衣を拾って畳んでくれた。
(もうやめてよ。わたくしは、あなた達に優しくしたことなんてないわ)
弱みなんて見せたくない。見せられない。
けれど。陳燕には頼れる人もいない。
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