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五章 女炎帝

10、光柳の圍巾

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 向かいの席に座る光柳クアンリュウは、翠鈴ツイリンをじっと見つめた。
 音がしない。雲嵐ユィンランも微動だにしない。

 遠くから、微かに鳥の鳴く声が聞こえる。火鉢の炭が崩れたのだろう。まどから射す午後の光に、灰が軽く舞うのが見えた。
 
「翠鈴。今回は侵入者が反撃してこなかったから、問題はなかったが。あの宮女が、君に襲い掛かってくる可能性もあった」

 相手が身動きできないように、ひたいに棒の先端を押し当てていたのだが。
 翠鈴はその言葉を飲みこんだ。湯圓タンユェンの薔薇の香りとともに。

 たまたま不審者がひとりであっただけだ。背後にもうひとり隠れていたなら。翠鈴の方がやられていたに違いない。

「何でもひとりで解決しようとするな。抱え込まずに、私や雲嵐に相談してくれ」
「光柳さまのおっしゃる通りです」

 雲嵐が言葉を添えた。とても静かな声だった。

「わたしは……」

 なんて答えていいのか、翠鈴は分からなかった。
 女性扱いしてもらっている? それもあるかもしれないが。もっと深い部分で、光柳から大事に思ってもらっているのが伝わってくる。

 蘭淑妃や桃莉タオリィ公主を守ったことを褒められるのは嬉しい。でも、侵入者に立ち向かった自分を案じてくれると。背中がもぞもぞするし、胸の奥がほわっと温かくなる。

 湯泉宮とうせんぐうへ行く途中。舟を乗り降りするときに光柳は翠鈴に手を差し伸べてくれた。
 確かに一人でも舟には乗れる。それでも光柳が手を取ってくれたことを、翠鈴は時々思い出す。

 翠鈴は、碗を手に取りお茶をひとくち飲んだ。
 薔薇の香気を邪魔しないように、薄めの緑茶だ。

「騒ぎが大きくなって、人は集まってきました」
「ああ、そうだったな」

 光柳も碗を手にした。

「ですが、何事かと遠巻きに眺める人ばかりで。わざわざ介入してくる人はいませんでした」

 それはつまり、見物人にとっては翠鈴がどうなろうが関わるつもりはないということだ。
 警備の宦官は来てくれた。それでも侍女の一人が勇気を出して、未央宮の裏から助けを呼びに行ってくれたから。

「光柳さまと雲嵐さまがいらしてくださって、よかったです」

 翠鈴は心からそう思った。

 その言葉に、座っている光柳と立っている雲嵐が顔を見合わせる。
 ふたりの表情が緩んだ。まだ遠い春の花がほころぶように。

「私の圍巾ウェイジンを使ってくれているのだな」

 光柳の言葉に、翠鈴はうなずいた。
 圍巾ウェイジンは、たたんで膝に載せているから。卓の陰になって、光柳の位置からは見えないはずだ。
 けれど、気づいていたのだろう。光柳の圍巾を、翠鈴が首に巻いていたことに。

 あれは湯泉宮から帰ってすぐのことだった。
 夜明け前に回廊の灯を消していた翠鈴の元に、光柳がやって来たのだ。

 雲嵐はいないので。起床時間の前に、自室を抜け出したのだろう。

(あまり勝手に動かれては、雲嵐さまもお困りなんじゃないのかなぁ)

 白い息を吐きながら、翠鈴は仕事の手を止めた。
 回廊から庭に降りると、足の裏でさくりと霜柱がはかなく崩れた。

「まだ杷京はきょうは寒いからな。これを使うといい」

 そう言って、光柳は首に巻いていた圍巾を外した。
 外して、ぬくもりの残る襟巻を翠鈴の首にかけたのだ。ついでにぐるぐる巻きにされた。

「どうだ? 暖かいだろう。薄いが保温性は抜群だ」

 光柳は得意げにあごを上げた。
 だが、すぐに寒そうに身を震わせる。

 首と顔の半分を圍巾ウェイジンで巻かれた翠鈴は「何をするんですか」と言いそうになったが。あまりの温かさに、思わず瞼を閉じてしまった。

 いけない。これは布団よりも心地いい。
 ほわほわの綿雲に包まれたら、こんな感じなのだろうか。首と口元だけに、春が訪れたかのようだ。

 瞼の裏に、黄色く咲き乱れるいちめんの菜の花畑が見える。ミツバチの翅音が聞こえたような気がした。
 ぬくもりに、溶けてしまいそう。

「……暖かいです」
「そうだろう? この圍巾を私と思って大事にするがいい」
「大事にするなら、宿舎の竹籠に入れてしまっておきます」
「あ、いや。そうではなく」

 光柳は、腕を組んで「うーん」と唸った。

「冗談です。ありがたく使わせていただきます」

 翠鈴は微笑んだ。
 それから毎日、仕事の時は圍巾ウェイジンを巻いている。寒さ対策だけではなく、説明はしにくいが、気持ちがほっとする。
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