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五章 女炎帝
8、侵入者【2】
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翠鈴が持つ棒に当たり、地面に何かが落ちた。
見れば、陶器の鉢が転がっている。土はこぼれ、三寸ほどの小さな松が落ちている。
盆景や盆山に添える松を、形よく育てている鉢だ。
「盆栽を投げたの?」
ぎりっと翠鈴は歯を噛みしめた。
園丁が丹精込めて枝を切り、世話をしている松を投げつけるなんて。
「樹形を整えるのが、どれほど大変だと思っているの?」
なんて無神経。なんという配慮のなさ。
棒を持つ翠鈴の手に、力がこもる。
「そこのあなた! 出てきなさい」
翠鈴は声を荒げた。
むろん、返事はない。ただ、翠鈴の声が響くだけだ。
自身の宮にいる蘭淑妃に、護衛はつかない。
せめて異変を感じた者が、未央宮を覗いてくれればよいのだけれど。
不審者が隠れているのは、庭の茂みだ。腰ほどの高さの植栽で、冬でも常緑の葉で覆われている。
翠鈴は棒で茂みを突いた。力強く。
棒の先端が、鈍い音を立てて土に埋まる。まるで緑の血しぶきのように、葉が散った。
手加減はできない。相手の素性が分からぬのだから。
少しずらして、もう一度。
相手が動けば、音がするし枝葉が動く。相手を突けば、捕らえられる。
お前に逃げ場などないぞ、という牽制だ。
(見えた)
棒の先端で突かれる恐怖に負けたのだろう。侵入者が身じろぎした。ざわざわと葉が揺れる。
翠鈴は、不審者のひたいに棒の先端を当てた。
「動かないで。これは命令よ」
ひたいの奥には脳がある。少し棒をずらせばこめかみだ。つまり、目にも近い。
そのまま棒で突けば、意識を失い。ずらせば、目が潰れる。しかも、少し土が目に入っただけでも大事に至る。
湿った土のついた棒の先端を突きつけられた相手は、逃げることはできない。
騒ぎを聞きつけたのだろう。門の外から人が駆けつけてきた。
門の中には入ってこずに、遠巻きに翠鈴と不審者を眺めている。
ただの野次馬だ。苦々しい気持ちで、翠鈴は舌打ちした。
「わ……わたし、は、なにも……」
茂みから這って出てきたのは、若い宮女だった。
体は大きく、がっしりしている。荒れた手にかさついた唇。ひとつに結んだ髪はぱさぱさで、顔色も悪い。
なにか事情があるのだろう。
この宮女に、蘭淑妃や桃莉公主を害そうという考えがあるようには思えない。未央宮に逃げこんできた、というのが正解かもしれない。
だが、翠鈴は侵入者の味方となり、話を聞いてやれる立場にはない。
見ず知らずの宮女よりも、主である蘭淑妃たちの方が大事であるのは当然だ。
「どうかしたのか」
聞きなれた声に、翠鈴は顔を上げる。光柳と雲嵐が、未央宮の門をくぐるのが見えた。
さきほどの騒ぎが、よほど大きくなっていたのだろう。ふたりは人垣を割って、未央宮に入ってくる。
まるで矛のように長い棒を持って立つ翠鈴を、光柳は呆然と見つめた。
雲嵐も、集まった宮女たちも息を呑む。
傾いた太陽に照らされて、翠鈴の持つ金属の棒に光が宿った。
「未央宮の侵入者です。庭に潜んでいました」
翠鈴の説明を受けて、雲嵐が光柳の前に立つ。
確かに雲嵐は護衛なのだと、翠鈴は実感した。
どんなに不審者が弱々しかろうが。具合の悪そうな女性であろうが、見た目で人を判断しない。常に主の盾となる。
未央宮に忍び込んだ宮女は、そのまま警備の宦官に連れていかれた。
外に出た侍女が、警備の者を呼んできてくれたのだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい」と、宮女は叫ぶように謝り続けていた。
宮女の手首に、青碧のとろりとした腕輪が見えた。
すり切れた袖には、あまりにも不似合いな。深い森に満ちる、緑に染まった霧を集めたかのような美しさだった。
後日。大理寺は、彼女に重い刑を科した。
見れば、陶器の鉢が転がっている。土はこぼれ、三寸ほどの小さな松が落ちている。
盆景や盆山に添える松を、形よく育てている鉢だ。
「盆栽を投げたの?」
ぎりっと翠鈴は歯を噛みしめた。
園丁が丹精込めて枝を切り、世話をしている松を投げつけるなんて。
「樹形を整えるのが、どれほど大変だと思っているの?」
なんて無神経。なんという配慮のなさ。
棒を持つ翠鈴の手に、力がこもる。
「そこのあなた! 出てきなさい」
翠鈴は声を荒げた。
むろん、返事はない。ただ、翠鈴の声が響くだけだ。
自身の宮にいる蘭淑妃に、護衛はつかない。
せめて異変を感じた者が、未央宮を覗いてくれればよいのだけれど。
不審者が隠れているのは、庭の茂みだ。腰ほどの高さの植栽で、冬でも常緑の葉で覆われている。
翠鈴は棒で茂みを突いた。力強く。
棒の先端が、鈍い音を立てて土に埋まる。まるで緑の血しぶきのように、葉が散った。
手加減はできない。相手の素性が分からぬのだから。
少しずらして、もう一度。
相手が動けば、音がするし枝葉が動く。相手を突けば、捕らえられる。
お前に逃げ場などないぞ、という牽制だ。
(見えた)
棒の先端で突かれる恐怖に負けたのだろう。侵入者が身じろぎした。ざわざわと葉が揺れる。
翠鈴は、不審者のひたいに棒の先端を当てた。
「動かないで。これは命令よ」
ひたいの奥には脳がある。少し棒をずらせばこめかみだ。つまり、目にも近い。
そのまま棒で突けば、意識を失い。ずらせば、目が潰れる。しかも、少し土が目に入っただけでも大事に至る。
湿った土のついた棒の先端を突きつけられた相手は、逃げることはできない。
騒ぎを聞きつけたのだろう。門の外から人が駆けつけてきた。
門の中には入ってこずに、遠巻きに翠鈴と不審者を眺めている。
ただの野次馬だ。苦々しい気持ちで、翠鈴は舌打ちした。
「わ……わたし、は、なにも……」
茂みから這って出てきたのは、若い宮女だった。
体は大きく、がっしりしている。荒れた手にかさついた唇。ひとつに結んだ髪はぱさぱさで、顔色も悪い。
なにか事情があるのだろう。
この宮女に、蘭淑妃や桃莉公主を害そうという考えがあるようには思えない。未央宮に逃げこんできた、というのが正解かもしれない。
だが、翠鈴は侵入者の味方となり、話を聞いてやれる立場にはない。
見ず知らずの宮女よりも、主である蘭淑妃たちの方が大事であるのは当然だ。
「どうかしたのか」
聞きなれた声に、翠鈴は顔を上げる。光柳と雲嵐が、未央宮の門をくぐるのが見えた。
さきほどの騒ぎが、よほど大きくなっていたのだろう。ふたりは人垣を割って、未央宮に入ってくる。
まるで矛のように長い棒を持って立つ翠鈴を、光柳は呆然と見つめた。
雲嵐も、集まった宮女たちも息を呑む。
傾いた太陽に照らされて、翠鈴の持つ金属の棒に光が宿った。
「未央宮の侵入者です。庭に潜んでいました」
翠鈴の説明を受けて、雲嵐が光柳の前に立つ。
確かに雲嵐は護衛なのだと、翠鈴は実感した。
どんなに不審者が弱々しかろうが。具合の悪そうな女性であろうが、見た目で人を判断しない。常に主の盾となる。
未央宮に忍び込んだ宮女は、そのまま警備の宦官に連れていかれた。
外に出た侍女が、警備の者を呼んできてくれたのだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい」と、宮女は叫ぶように謝り続けていた。
宮女の手首に、青碧のとろりとした腕輪が見えた。
すり切れた袖には、あまりにも不似合いな。深い森に満ちる、緑に染まった霧を集めたかのような美しさだった。
後日。大理寺は、彼女に重い刑を科した。
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