上 下
89 / 175
五章 女炎帝

7、侵入者【1】

しおりを挟む
 翌朝。夜更かしをしてしまった翠鈴ツイリンは、あくびが止まらなかった。
 なにしろ陳燕チェンイェンの話が長かったのだ。

 しかも夜明けに合わせて、未央宮の下げ灯籠を消して回らなければならない。

「眠そうね、翠鈴」
「うん。ちょっと頭が働かないかも」

 食堂で、由由ヨウヨウと並んで座り朝食をとる。
 油条ヨウティヤオを手で折ってどぼん。
 あれ? ふだんと音が違う。

「ちがうちがう。翠鈴。それ、鹹豆醤シェントウジャンじゃなくって、お茶」
「あー。やっちゃった」

 温かい塩味の豆乳に、酢や醤油、ネギに干した小エビを入れたのが鹹豆醤シェントウジャンだ。酢で凝固して、ほろほろとした豆乳に油条をひたすと、とてもおいしい。

 うすい茎茶を吸ってしまった油条を、翠鈴は「困ったなぁ」と眺める。
 しょうがない。今日は宮灯の掃除のついでに、座ったままでちょっと寝よう。

 午後。翠鈴はさぼっていないように見せながら、仮眠をとった。
 床に座って、自分の前には宮灯を置いておく。右手に布を持って、さも「宮灯を磨いている途中ですよー」という風を装って、目を閉じる。

 未央宮にある作業部屋には、翠鈴ひとりだけ。
 庭から桃莉公主の声が聞こえる。蘭淑妃も一緒なのだろう。桃莉タオリィ公主は軽やかにはしゃいでいる。

「桃莉。その鉢は触ってはいけませんよ」と、蘭淑妃の声が聞こえた。

 そういえば、盆山ぼんざんに使う松の盆栽があったな。てのひらに載るほどに小さいのに、樹形は風格ある松に育っている。
 未央宮に飾るために、園丁が丹精込めて手入れしている逸品だ。

 あの松は高そうだなぁ。今日も風が冷たいなぁ。桃莉公主のしもやけは、完治なさっただろうか。
 眠いので、翠鈴の思考はバラバラだ。

 火鉢はないが。まどから射しこむ陽射しで、室内は寒すぎるほどでもない。瞼がとろんと落ちるのが妙に心地いい。

 だが、眠りは妨げられた。

「早く探せ」
「どこに逃げ込んだ」

 緊迫した声が、遠くから聞こえる。
 翠鈴は跳び起きた。

 力任せに扉を開き、声のした方を確認する。右? 左? 違う。前方の門だ。
 だが、まずは皆の安全の確認を。
 翠鈴は回廊を走った。さっきまで眠っていたとは思えぬ速さだ。

「ツイリン。どうしたの?」

 侍女たちに囲まれた蘭淑妃と桃莉公主が、目を丸くする。
 さすがに淑妃の侍女は心得たもので、主たちを囲んで守っている。

「あの声は何でしょう」
「分かりません。ですが『どこに逃げ込んだ』と聞こえました。不審な者が、未央宮に侵入する可能性があります。早く中にお入りになってください」

 蘭淑妃の問いかけに、翠鈴は答えた。
 淑妃はすぐに、桃莉公主の肩を抱いて歩きはじめる。

「翠鈴。大丈夫でしょうか」

 侍女のひとりが翠鈴にすがりついてきた。声がかすれている。無理もない。四夫人に仕える侍女ともなれば、良家のお嬢さまなのだから。

「様子を見てきます。誰か、宮の外に出て人を呼んできてください。裏からなら行けるでしょう。あとは部屋に鍵を掛けて、安全が確認されるまでは開けぬように」

 翠鈴は司燈の仕事で使う、金属の棒を手にした。長い棒ならば相手の動きを封じることができる。
 薬草を摘むために、子供の頃から山野を歩いていた翠鈴は、体が鍛えられている。

「まぁ。ここが後宮っていうのだけが、幸いかもしれない」

 閉じられた世界にいるのが女性と宦官だけなのだから。さすがに翠鈴でも、筋骨たくましい男性相手だと力では敵わない。

 がさりと音がした。
 翠鈴は、棒を構えて淑妃たちを背中で隠す。

 淑妃や侍女の足音が遠ざかり、扉が閉まる音がした。もう大丈夫だ。

 首に巻いた、絹のように繊細な圍巾ウェイジンをぎゅっと握りしめる。
 どうか力を。と、ここにいない人に念じながら。

「出てきなさい」

 命じる翠鈴の声は、凍てついた氷を思わせた。

 風が起こる。翠鈴に向かって。
 棒を両手で構えなおして、顔を防御する。硬い音がして、棒に衝撃を感じた。
 湿った土のにおいが漂った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

七年間の婚約は今日で終わりを迎えます

hana
恋愛
公爵令嬢エミリアが十歳の時、第三王子であるロイとの婚約が決まった。しかし婚約者としての生活に、エミリアは不満を覚える毎日を過ごしていた。そんな折、エミリアは夜会にて王子から婚約破棄を宣言される。

旦那様に離婚を突きつけられて身を引きましたが妊娠していました。

ゆらゆらぎ
恋愛
ある日、平民出身である侯爵夫人カトリーナは辺境へ行って二ヶ月間会っていない夫、ランドロフから執事を通して離縁届を突きつけられる。元の身分の差を考え気持ちを残しながらも大人しく身を引いたカトリーナ。 実家に戻り、兄の隣国行きについていくことになったが隣国アスファルタ王国に向かう旅の途中、急激に体調を崩したカトリーナは医師の診察を受けることに。

口は禍の元・・・後悔する王様は王妃様を口説く

ひとみん
恋愛
王命で王太子アルヴィンとの結婚が決まってしまった美しいフィオナ。 逃走すら許さない周囲の鉄壁の護りに諦めた彼女は、偶然王太子の会話を聞いてしまう。 「跡継ぎができれば離縁してもかまわないだろう」「互いの不貞でも理由にすればいい」 誰がこんな奴とやってけるかっ!と怒り炸裂のフィオナ。子供が出来たら即離婚を胸に王太子に言い放った。 「必要最低限の夫婦生活で済ませたいと思います」 だが一目見てフィオナに惚れてしまったアルヴィン。 妻が初恋で絶対に別れたくない夫と、こんなクズ夫とすぐに別れたい妻とのすれ違いラブストーリー。 ご都合主義満載です!

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

十年目の離婚

杉本凪咲
恋愛
結婚十年目。 夫は離婚を切り出しました。 愛人と、その子供と、一緒に暮らしたいからと。

別に構いませんよ、離縁するので。

杉本凪咲
恋愛
父親から告げられたのは「出ていけ」という冷たい言葉。 他の家族もそれに賛同しているようで、どうやら私は捨てられてしまうらしい。 まあいいですけどね。私はこっそりと笑顔を浮かべた。

【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。

文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。 父王に一番愛される姫。 ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。 優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。 しかし、彼は居なくなった。 聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。 そして、二年後。 レティシアナは、大国の王の妻となっていた。 ※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。 小説家になろうにも投稿しています。 エールありがとうございます!

処理中です...