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五章 女炎帝

5、夜更けの薬売り

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「じゃあ、ちょっと行ってくるわ。由由ヨウヨウ

 すでに消灯時間を過ぎている。宮女の宿舎は、しんと静まり返っていた。
 これからが翠鈴の稼ぎ時だ。

「うーん。遅くならないようにねぇ」

 由由も慣れたもので、翠鈴が夜に出かけても気にしない。布団の中から手を出して、ひらひらと振った。
 由由は知らない。翠鈴は司燈としてよりも、薬師としての稼ぎが多いことを。

 冬になり、皿洗いや洗濯、掃除をする宮女は手が荒れる。それを見越して、翠鈴は紫草むらさきを秋から入手していたのだ。 
 紫草むらさきの根を紫根しこんという。その名の通り濃い紫色をしている。
 後宮は広い。都である杷京の中心部なのに、手つかずの場所では山野草も生えている。

 紫草は日当たりのよい場所に自生するので。翠鈴は休みの日に紫根を集めて、油に浸けておいた。紫色の根ではあるが。成分が抽出された油は、鮮やかに澄んだ赤に染まる。

「さて、行くか」

 宿舎を出た翠鈴は、後宮の中にある池へと向かう。池には橋が架かっており。眠れぬ女官や宮女が、夜に散歩をしていることも多い。

「影が落ちてる」

 夜更けだというのに、道におぼろげな影が見える。

 そうか、満月なんだ。
 翠鈴が見あげれば、中天に満月が煌々と輝いていた。白く冴えた冬の月だ。

 夜露が降りたのだろうか。立ち並ぶ殿舎の屋根が、濡れた光を宿している。
 こんな明るい夜は稼ぎ時だ。

 翠鈴の足取りは軽い。首に巻いた圍巾ウェイジンという襟巻で、鼻や口元までを隠す。

 夜中の薬売りが翠鈴だと知っている者も、何人かいるが。できる限り、一般にはばれない方がいい。
 勤務時間に美央宮や、勤務後の宿舎の部屋に押しかけられては困るからだ。

 未央宮の皆さんや、疲れて休んでいる宮女たちに迷惑をかけてはいけない。
 副業はおとなしく、迷惑のかからぬ範囲で。それが長く続けるコツのようだ。

「あの、もしや女炎帝じょえんていですか?」

 か細い声で、女性が問いかけてきた。
 おそらくは宮女だろう。
 侍女であれば顔立ちがもっと派手で、質の良い服をまとっている。女官であれば鋭気に満ちた目をしているものだ。

「女炎帝とは、炎帝の娘の女神のことですよね」

 翠鈴は問うた。そういえばかつて、食堂でそんな話を耳にしたことがある。

「はい。神農炎帝しんのうえんていの末の娘です。薬の神さまである神農炎帝を追いかけて、海に沈んだ女神です」

 その女性は、きらきらした目で翠鈴を見つめた。
 まるで人目を避けて、逢引きでもするかのように。

「薬の女神さまのことでもありますよね」

 女炎帝が薬の女神とは、聞いたことがない。

 翠鈴は首を傾げた。もちろん神農炎帝しんのうえんていは知っているし、女炎帝も知識としては知っている。

 たしか女炎帝は自分を沈めた海を憎み、小鳥に生まれ変わっても海を埋めようとしたのではなかったか?
 女炎帝に関しては、目的を達成するために、諦めない精神が称えられるが。薬とは関係ないと思う。

「噂は本当だったんですね。苦しんでいるうちらの元に、夜になれば降臨してくださると」

 いえ、降臨もなにも。ただ宿舎から歩いてきただけですが。
 翠鈴は混乱した。

 いつ現れるか分からない、夜が更けてからの謎の薬売り。
 明らかに不審なのに。人はそこに意味と神秘を見出すようだ。

「わたしは女炎帝ではありませんよ」
「ああ、はい。分かります。真の身分は明かせませんよね。うち、ちゃんと内緒にしますから」

 翠鈴は事実を語ったが。女性は勝手に真実を捻じ曲げて解釈した。

(怖いなぁ。ちゃんと違うって言ってるのに。なんで信じないんだろ)

 それでも薬は売れる。
 宮女は立ち去り、翠鈴は商売を始めた。
 手荒れを見越して作っていた紫根の油は、持参した分はすべて売り切れた。
 やはり明るい夜はいい。橋の真ん中で待っていると、次々と客がやって来るのだ。

 冬の乾燥には、悩まされる人が多いのに。わざわざ医局に行くほどでもない。誰かに頼んで、外で薬を買ってきてもらうのも簡単ではない。
 だからこそ翠鈴の薬は重宝される。

「あの……」
「あ、すみません。手荒れの薬は売り切れてしまったんです。しもやけの薬でしたら、残っているんですが」

 声をかけられた翠鈴は、圍巾ウェイジンの下で口をぽかんと開いた。
 背後に立っていたのは、翠鈴につっかかってきていた陳燕チェンイェンだった。
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