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五章 女炎帝
4、光柳の受難【3】
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(なにかあったのか)
雲嵐は急いで、まだ若い主の元に駆けつけた。
ネズミが出た、くらいならばまだいい。もしや毒を盛ろうと何者かが忍び込んだのか。
小部屋は、発酵した漬物と干した野菜の乾いた匂いに満ちていた。
そこに女が座りこんでいた。
見るんじゃなかった。いや、見ない方がよくはないが。
すぐに光柳の目もとを、雲嵐は手で覆った。
背後から抱えられて、視界もふさがれているのに。光柳は抵抗しなかった。
目撃してしまったからだ。光柳よりもずいぶんと年上の宮女が、彼の箸に口をつけているのを。
残り物を食べているわけではない。
箸を口に含むことで、間接的に光柳と接吻しているのだ。
小部屋は暗いのに。宮女の表情が、恍惚としているのがわかった。
それほどに宮女は、とろけそうだった。
「ああ。光柳さま」
まるで恋人に接吻されたかのように、うっとりとした声を宮女はこぼした。
「あんなにも気品に溢れて、健気な少年がいるなんて。そこいらのガキとは大違いだわ。早く成長なさって。わたしは、ずっとあなたにお仕えするわ」
耳にまとわりつくような声だった。
そして、宮女は箸で自分の頬を撫でる。身を震わせて。まるでそれが、光柳の指であるかのように。
ガクガクと、光柳の膝が震えた。
――大丈夫です。光柳さまは、最近は箸を使っていらっしゃらなかったでしょう?
――もしかしたら、と思ったんだ。前の宮女が辞めて、洗濯物が普通に戻ってくるから。でも、ぼくの箸は……湿っていることが多くて。なんでだろうって思って。
たぶん、光柳のぶんの箸だけ、洗うのが遅くなったのだろう。だから次の食事までに、乾ききらなかった。
雲嵐の箸は乾いているのに、光柳の箸だけは常に湿っている。
配膳をする宮女は、そのことに気づいていなかったようだ。
――だから、手召し上がって上がっていらしてたんですね。
光柳はうなずいた。
行儀の悪さも、品のなさも承知の上で。光柳は、自分の尊厳を守ったのだ。
声を出さぬ会話をしながら、雲嵐は光柳を厨房の外に出した。
「もう何も信じられない」
光柳の声はかすれていた。
明るい陽の下で、光柳の琥珀色の目が潤んでいる。
「きっと、ぼくの箸をべろべろと舐めたんだ」
「さすがにそれは……」
だが、雲嵐にも否定できるだけの自信はなかった。あの宮女ならやりかねない。
「なんで、いっつもぼくだけ狙われるの? 離宮に帰りたい……もう、いやだ」
光柳は、神々しいほどに美しい。なのに見かけの身分は低い。だからだろうか。宮女たちは、彼に何をしてもいいと考えたのだろう。
「おんなのひと……こわい」
「怖くない女性もいると思いますよ」
本気で脅えている主の慰めにもならないけれど。
雲嵐は「大丈夫です。きっと大丈夫」と、地面にしゃがんだ光柳を抱きしめた。
それ以来、宮女は別棟に立ち入り禁止となった。狼藉を働いたふたりだけではなく、どの宮女も光柳と雲嵐の住まいには入れない。
食事は、宦官のための料理を作る厨房に任せている。
「あ、雲嵐。焦げるぞ」
光柳に指摘されて、雲嵐の意識は今に戻って来た。
火鉢を挟んで、大人になった光柳が年糕を睨みつけている。
「召し上がり上がりますか?」
「あるだけ全部」
「太ったら、どうなさるんですか」
「むっ」
美と健康、それとおいしさを秤にかけているようだ。
(箸の宮女のせいで、一時はろくに食事も召し上がらなかったものな。まぁ、いいか。甘い年糕でも、食べたいという気持ちが大事だ)
蒸したままの年糕よりも、こうして表面を焼いた方を、光柳は好むから。
つい、主の嗜好を優先させてしまう自分のことを「甘いな」と、雲嵐は苦笑した。
だが、年糕は玉子をつけて焼いた方が、絶対に栄養があると思う。翠鈴もそちらを推奨するはずだ。
(あれほどに女嫌いでいらしたのに。翠鈴だけは、特別なんですね)
女官であれ宮女であれ。大人になった光柳はふつうに接することができる。だが、それは表面だけのこと。女性に心を許すことはなかったのに。
「どうした? 雲嵐。にやけているぞ」
「失礼ですよ。私はにやけてなど、おりません」
「そうかなぁ」と、光柳が雲嵐の顔を覗きこんでくる。
少ししつこい。
だが、どうしても口もとが緩んでしまうのは、しょうがない。
雲嵐は急いで、まだ若い主の元に駆けつけた。
ネズミが出た、くらいならばまだいい。もしや毒を盛ろうと何者かが忍び込んだのか。
小部屋は、発酵した漬物と干した野菜の乾いた匂いに満ちていた。
そこに女が座りこんでいた。
見るんじゃなかった。いや、見ない方がよくはないが。
すぐに光柳の目もとを、雲嵐は手で覆った。
背後から抱えられて、視界もふさがれているのに。光柳は抵抗しなかった。
目撃してしまったからだ。光柳よりもずいぶんと年上の宮女が、彼の箸に口をつけているのを。
残り物を食べているわけではない。
箸を口に含むことで、間接的に光柳と接吻しているのだ。
小部屋は暗いのに。宮女の表情が、恍惚としているのがわかった。
それほどに宮女は、とろけそうだった。
「ああ。光柳さま」
まるで恋人に接吻されたかのように、うっとりとした声を宮女はこぼした。
「あんなにも気品に溢れて、健気な少年がいるなんて。そこいらのガキとは大違いだわ。早く成長なさって。わたしは、ずっとあなたにお仕えするわ」
耳にまとわりつくような声だった。
そして、宮女は箸で自分の頬を撫でる。身を震わせて。まるでそれが、光柳の指であるかのように。
ガクガクと、光柳の膝が震えた。
――大丈夫です。光柳さまは、最近は箸を使っていらっしゃらなかったでしょう?
――もしかしたら、と思ったんだ。前の宮女が辞めて、洗濯物が普通に戻ってくるから。でも、ぼくの箸は……湿っていることが多くて。なんでだろうって思って。
たぶん、光柳のぶんの箸だけ、洗うのが遅くなったのだろう。だから次の食事までに、乾ききらなかった。
雲嵐の箸は乾いているのに、光柳の箸だけは常に湿っている。
配膳をする宮女は、そのことに気づいていなかったようだ。
――だから、手召し上がって上がっていらしてたんですね。
光柳はうなずいた。
行儀の悪さも、品のなさも承知の上で。光柳は、自分の尊厳を守ったのだ。
声を出さぬ会話をしながら、雲嵐は光柳を厨房の外に出した。
「もう何も信じられない」
光柳の声はかすれていた。
明るい陽の下で、光柳の琥珀色の目が潤んでいる。
「きっと、ぼくの箸をべろべろと舐めたんだ」
「さすがにそれは……」
だが、雲嵐にも否定できるだけの自信はなかった。あの宮女ならやりかねない。
「なんで、いっつもぼくだけ狙われるの? 離宮に帰りたい……もう、いやだ」
光柳は、神々しいほどに美しい。なのに見かけの身分は低い。だからだろうか。宮女たちは、彼に何をしてもいいと考えたのだろう。
「おんなのひと……こわい」
「怖くない女性もいると思いますよ」
本気で脅えている主の慰めにもならないけれど。
雲嵐は「大丈夫です。きっと大丈夫」と、地面にしゃがんだ光柳を抱きしめた。
それ以来、宮女は別棟に立ち入り禁止となった。狼藉を働いたふたりだけではなく、どの宮女も光柳と雲嵐の住まいには入れない。
食事は、宦官のための料理を作る厨房に任せている。
「あ、雲嵐。焦げるぞ」
光柳に指摘されて、雲嵐の意識は今に戻って来た。
火鉢を挟んで、大人になった光柳が年糕を睨みつけている。
「召し上がり上がりますか?」
「あるだけ全部」
「太ったら、どうなさるんですか」
「むっ」
美と健康、それとおいしさを秤にかけているようだ。
(箸の宮女のせいで、一時はろくに食事も召し上がらなかったものな。まぁ、いいか。甘い年糕でも、食べたいという気持ちが大事だ)
蒸したままの年糕よりも、こうして表面を焼いた方を、光柳は好むから。
つい、主の嗜好を優先させてしまう自分のことを「甘いな」と、雲嵐は苦笑した。
だが、年糕は玉子をつけて焼いた方が、絶対に栄養があると思う。翠鈴もそちらを推奨するはずだ。
(あれほどに女嫌いでいらしたのに。翠鈴だけは、特別なんですね)
女官であれ宮女であれ。大人になった光柳はふつうに接することができる。だが、それは表面だけのこと。女性に心を許すことはなかったのに。
「どうした? 雲嵐。にやけているぞ」
「失礼ですよ。私はにやけてなど、おりません」
「そうかなぁ」と、光柳が雲嵐の顔を覗きこんでくる。
少ししつこい。
だが、どうしても口もとが緩んでしまうのは、しょうがない。
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