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五章 女炎帝
2、光柳の受難【1】
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十代前半の光柳は、まだ世間知らずであった。
浮世からはなれた、離宮暮らしが長かったせいだろう。
多感な時期に側にいるのが母や侍女、雲嵐という限られた人間だったのもよくなかったのかもしれない。
おそらくは清らかすぎたのだ。
誰も、光柳を故意に傷つけない。悪意を向けない。
ただひとり、嫉妬と憎悪の塊である先帝の弟を除いては。
清浄な環境で育つのが、悪いわけではない。ただ、世の中は清いものを、そっとしておいてはくれない。
守ってくれる人がいなくなれば、無垢な魂はすぐに踏みつぶされる。
(だからこそ私が、光柳さまの護衛として選ばれたのだ)
何でも話せる友であり、しもべでもある。兄弟のように育った雲嵐こそが、光柳を支えられる。
その責任の重さは、雲嵐にとっては誇りでもある。
宿舎の別棟で暮らしはじめて、事件はすぐに起こった。
まず、光柳の服が消えた。
盗まれたわけではない。ずいぶんと経ってから、元の箪笥の引き出しに服は戻っていたのだから。
「ねぇ、雲嵐。なんでぼくの……えっと私の服は、洗濯から戻るのがこんなにも遅いのかな」
雲嵐の服の袖を引っぱりながら、まだ若かった光柳は不安そうな表情を浮かべた。
「不思議ですね。私のは早くに戻りますよ」
「ぼ……私は、もしかして嫌われてるのかな」
「それはないでしょう」
今からでは考えられないが。当時の光柳は、後宮内のどこを歩いてもじろじろと見られるので、相当に参っていた。
常に視線を感じるのだ。
たしかに民族の違う雲嵐も、不躾な視線を投げられることはある。けれど、光柳に対しては視線が追いかけてくるのだ。どこまでも。
「丁寧に洗ってくれているんじゃないですか」
自分で口にしながら「そんな訳はないよな」と、雲嵐は訝しんだ。
離宮にいた頃に毬で遊んでいた子供の頃ならともかく。賢い光柳が、後宮で服を土や泥で汚すわけがない。洗濯に手間がかかるとは思えない。
うーん、と雲嵐と光柳は腕を組んで唸った。
休日に、光柳と雲嵐は、洗濯に出した服がどう扱われているのかを探ることにした。
そして見つけてしまったのだ。
井戸の側で、宮女が頭から布をかぶっているのを。
側には洗濯物の入った桶が置かれている。
地面にひざまずいて、宮女は身動きもしない。
建物の陰から覗いていた光柳と雲嵐は、凍りついてしまった。
「ねぇ、あの布。ぼくの服だよ」
「そのようですね」
「どうしよう。あれって、拷問だよね。これから拷問されるんだよね」
光柳の声は震えている。
顔にかけた布に水をかける。あるいは、布を口の中に突っ込んで、水を注ぎ続ける。
どちらも簡単に窒息する。
どうしようと言われても。本当に水責めであるのなら、雲嵐に止める権限はない。
「でも……こんな場所で拷問なんて行うのでしょうか」
宮女は拘束もされていない。では、自殺だろうか。
だが、手が自由だから。窒息しかけて苦しくなれば、顔にかけた布をはぎ取ってしまうだろう。
「あー、たまらないっ。本当にかぐわしいわぁ」
布の下から、くぐもった声が聞こえてきた。
「後宮勤めなんてって、渋っていたけど。来てよかったわぁ。なんていい匂いなの」
光柳と雲嵐は、顔を見あわせた。
――もしかして、ぼくの服をかいでいるの?
――そのようでございますね。
――何のために?
――分かりかねますが。たぶん、香とかの感覚ではないですか?
――ぼく、香木じゃないよ!
この時、初めてふたりは声をほとんど出さずに会話をする術を会得した。
――あのひと、変態なの?
そうだと思いたい。たぶん、おかしなことをするのは、あの宮女ひとりだけだと。
だが、雲嵐の願望は簡単に砕け散った。
浮世からはなれた、離宮暮らしが長かったせいだろう。
多感な時期に側にいるのが母や侍女、雲嵐という限られた人間だったのもよくなかったのかもしれない。
おそらくは清らかすぎたのだ。
誰も、光柳を故意に傷つけない。悪意を向けない。
ただひとり、嫉妬と憎悪の塊である先帝の弟を除いては。
清浄な環境で育つのが、悪いわけではない。ただ、世の中は清いものを、そっとしておいてはくれない。
守ってくれる人がいなくなれば、無垢な魂はすぐに踏みつぶされる。
(だからこそ私が、光柳さまの護衛として選ばれたのだ)
何でも話せる友であり、しもべでもある。兄弟のように育った雲嵐こそが、光柳を支えられる。
その責任の重さは、雲嵐にとっては誇りでもある。
宿舎の別棟で暮らしはじめて、事件はすぐに起こった。
まず、光柳の服が消えた。
盗まれたわけではない。ずいぶんと経ってから、元の箪笥の引き出しに服は戻っていたのだから。
「ねぇ、雲嵐。なんでぼくの……えっと私の服は、洗濯から戻るのがこんなにも遅いのかな」
雲嵐の服の袖を引っぱりながら、まだ若かった光柳は不安そうな表情を浮かべた。
「不思議ですね。私のは早くに戻りますよ」
「ぼ……私は、もしかして嫌われてるのかな」
「それはないでしょう」
今からでは考えられないが。当時の光柳は、後宮内のどこを歩いてもじろじろと見られるので、相当に参っていた。
常に視線を感じるのだ。
たしかに民族の違う雲嵐も、不躾な視線を投げられることはある。けれど、光柳に対しては視線が追いかけてくるのだ。どこまでも。
「丁寧に洗ってくれているんじゃないですか」
自分で口にしながら「そんな訳はないよな」と、雲嵐は訝しんだ。
離宮にいた頃に毬で遊んでいた子供の頃ならともかく。賢い光柳が、後宮で服を土や泥で汚すわけがない。洗濯に手間がかかるとは思えない。
うーん、と雲嵐と光柳は腕を組んで唸った。
休日に、光柳と雲嵐は、洗濯に出した服がどう扱われているのかを探ることにした。
そして見つけてしまったのだ。
井戸の側で、宮女が頭から布をかぶっているのを。
側には洗濯物の入った桶が置かれている。
地面にひざまずいて、宮女は身動きもしない。
建物の陰から覗いていた光柳と雲嵐は、凍りついてしまった。
「ねぇ、あの布。ぼくの服だよ」
「そのようですね」
「どうしよう。あれって、拷問だよね。これから拷問されるんだよね」
光柳の声は震えている。
顔にかけた布に水をかける。あるいは、布を口の中に突っ込んで、水を注ぎ続ける。
どちらも簡単に窒息する。
どうしようと言われても。本当に水責めであるのなら、雲嵐に止める権限はない。
「でも……こんな場所で拷問なんて行うのでしょうか」
宮女は拘束もされていない。では、自殺だろうか。
だが、手が自由だから。窒息しかけて苦しくなれば、顔にかけた布をはぎ取ってしまうだろう。
「あー、たまらないっ。本当にかぐわしいわぁ」
布の下から、くぐもった声が聞こえてきた。
「後宮勤めなんてって、渋っていたけど。来てよかったわぁ。なんていい匂いなの」
光柳と雲嵐は、顔を見あわせた。
――もしかして、ぼくの服をかいでいるの?
――そのようでございますね。
――何のために?
――分かりかねますが。たぶん、香とかの感覚ではないですか?
――ぼく、香木じゃないよ!
この時、初めてふたりは声をほとんど出さずに会話をする術を会得した。
――あのひと、変態なの?
そうだと思いたい。たぶん、おかしなことをするのは、あの宮女ひとりだけだと。
だが、雲嵐の願望は簡単に砕け散った。
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