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四章 猛毒草
15、どうか外へ【2】
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以前、大雪が降った日。蔡昭媛は悩んでいた。
陛下から捨ておかれた状態が、何年も続いている。
実家からは「どうか蔡家の再興のために、御子を生んでおくれ」「男の子を産むんだ。なぜ孕まぬのだ」と手紙が届いている。
蔡雪雪は、名ばかりの姫ではあったが。入内すれば、すべてうまくいくと思っていた。蔡家のかつての繁栄を取り戻せると。
けれど、このままでは後宮から追い出されてしまう。
雪がもっと降ればいい。
いっそこの雪にうずもれて、白に紛れて消えてしまいたい。
「雪雪さま。大丈夫ですよ」
傘を差した侍女の范敬が、昭媛に近づいてくる。
竹製で、貼った紙に桐油を塗った油紙傘だ。
范敬は左手に緑の束を持っていた。
芹だろうか。冬に青々と葉を茂らせる草は多くはない。
「あの意地の悪い宦官のことで、悩んでおられるのでしょう?」
「どうしたの。それは後宮には生えていないでしょう?」
「買い求めたのです。外で売っている物を、代わりに買ってきてくれる女性がいるんですよ」
宮に閉じこもりがちな蔡昭媛の知らぬことでも、范敬はよく知っている。
「大丈夫ですよ。この范敬が、呉正鳴をこらしめてやりますからね」
かつて一月七日の人日の節句に、七種類の草を入れた羹を食べる風習があった。
芹は、その七草のひとつだ。
まだ人日には早いが。もしかすると、とてもとても熱い羹を呉正鳴に食べさせるのかもしれない。
きっと口の中を火傷するだろう。痛がるだろう。
「それは、すこし楽しみかもしれないわ」
蔡昭媛の返事に、范敬は驚いたように目を見開いた。
「雪雪さま。それほどに」
ふたりの間に誤解があった。
口中を火傷させてやろうなど、范敬は甘いことを考えてはいなかった。
――あの男さえいなければ、陛下はこの永仁宮にお越しになる。これまで放置されていた他の嬪の元へも、陛下はお通いになっているではないか。うちだって、うちの姫さまだって機会はある。
あの宦官が、蔡昭媛を虐めるから。憔悴させるから。
あいつさえいなくなれば、雪雪さまはお幸せになる。
范敬にとって、姫さまの幸せはすなわち自分の幸福だ。
それは忠誠心ではないことに、彼女自身気づいていなかった。
だが、蔡昭媛は知っていた。
芹を持って帰る范敬が、傘を主には渡さなかったからだ。
その後、やって来たのが呉正鳴だった。
「これを使いなさい」
自分が持っていた傘を、呉正鳴は差しだした。
ここは永仁宮の庭。建物に入ろうと思えば、時間もかからない。
呉正鳴が帰る場所がどこなのか、蔡昭媛は知らないが。かなりの距離があるはずだ。
「いい年をして、雪玉でもつくるおつもりか? そんな子どもじみた考えでは、陛下の気を引くこともできんぞ。あなたのように情緒のない女が、好かれないのは当然だな。一緒にいてもつまらないのだから」
まるで雪と共に小石が降るかのようだ。
傘を貸す優しさと、投げつける言葉の痛さ。
呉正鳴のことを、蔡昭媛は嫌っていた。訳が分からないからだ。
だが、仕方がない。
呉正鳴もまた、自分の発言を止めることができないのだから。素直に好意を示すすべを知らないのだから。
「傘は結構です。あなたから借りたくはありません」
蔡昭媛にしては、珍しくきつい口調だった。
胃が痛い。キリキリと絞られるようだ。
普段は気にもならないのに。痛みがあると、胃が自分の位置を主張してくる。
雪はやまない。
未央宮で桃莉公主が雪玉を大量に作っているのと、同じ時刻だ。
おなじ後宮で、大雪の中で。かたや絶望に打ちひしがれ、かたや公主がはしゃぎながら遊んでいる。
たったひとりの帝の気を引けるかどうか。それだけで、人生はこうも違ってしまう。
そして自分の居場所が失われるのを焦った范敬は、行動を起こした。
雪に覆われた水辺で摘んだ大芹を、ただの芹だと偽って。
刻んだ茎と、猛毒の含有量が最も多い根茎を呉正鳴に食べさせたのだ。
「芹は、怒りっぽさを静めるそうです。イライラなさっているから、雪雪さまに当たり散らしているのではないですか?」と。
とても親切に。まるで呉正鳴を思いやっているかのように。
陛下から捨ておかれた状態が、何年も続いている。
実家からは「どうか蔡家の再興のために、御子を生んでおくれ」「男の子を産むんだ。なぜ孕まぬのだ」と手紙が届いている。
蔡雪雪は、名ばかりの姫ではあったが。入内すれば、すべてうまくいくと思っていた。蔡家のかつての繁栄を取り戻せると。
けれど、このままでは後宮から追い出されてしまう。
雪がもっと降ればいい。
いっそこの雪にうずもれて、白に紛れて消えてしまいたい。
「雪雪さま。大丈夫ですよ」
傘を差した侍女の范敬が、昭媛に近づいてくる。
竹製で、貼った紙に桐油を塗った油紙傘だ。
范敬は左手に緑の束を持っていた。
芹だろうか。冬に青々と葉を茂らせる草は多くはない。
「あの意地の悪い宦官のことで、悩んでおられるのでしょう?」
「どうしたの。それは後宮には生えていないでしょう?」
「買い求めたのです。外で売っている物を、代わりに買ってきてくれる女性がいるんですよ」
宮に閉じこもりがちな蔡昭媛の知らぬことでも、范敬はよく知っている。
「大丈夫ですよ。この范敬が、呉正鳴をこらしめてやりますからね」
かつて一月七日の人日の節句に、七種類の草を入れた羹を食べる風習があった。
芹は、その七草のひとつだ。
まだ人日には早いが。もしかすると、とてもとても熱い羹を呉正鳴に食べさせるのかもしれない。
きっと口の中を火傷するだろう。痛がるだろう。
「それは、すこし楽しみかもしれないわ」
蔡昭媛の返事に、范敬は驚いたように目を見開いた。
「雪雪さま。それほどに」
ふたりの間に誤解があった。
口中を火傷させてやろうなど、范敬は甘いことを考えてはいなかった。
――あの男さえいなければ、陛下はこの永仁宮にお越しになる。これまで放置されていた他の嬪の元へも、陛下はお通いになっているではないか。うちだって、うちの姫さまだって機会はある。
あの宦官が、蔡昭媛を虐めるから。憔悴させるから。
あいつさえいなくなれば、雪雪さまはお幸せになる。
范敬にとって、姫さまの幸せはすなわち自分の幸福だ。
それは忠誠心ではないことに、彼女自身気づいていなかった。
だが、蔡昭媛は知っていた。
芹を持って帰る范敬が、傘を主には渡さなかったからだ。
その後、やって来たのが呉正鳴だった。
「これを使いなさい」
自分が持っていた傘を、呉正鳴は差しだした。
ここは永仁宮の庭。建物に入ろうと思えば、時間もかからない。
呉正鳴が帰る場所がどこなのか、蔡昭媛は知らないが。かなりの距離があるはずだ。
「いい年をして、雪玉でもつくるおつもりか? そんな子どもじみた考えでは、陛下の気を引くこともできんぞ。あなたのように情緒のない女が、好かれないのは当然だな。一緒にいてもつまらないのだから」
まるで雪と共に小石が降るかのようだ。
傘を貸す優しさと、投げつける言葉の痛さ。
呉正鳴のことを、蔡昭媛は嫌っていた。訳が分からないからだ。
だが、仕方がない。
呉正鳴もまた、自分の発言を止めることができないのだから。素直に好意を示すすべを知らないのだから。
「傘は結構です。あなたから借りたくはありません」
蔡昭媛にしては、珍しくきつい口調だった。
胃が痛い。キリキリと絞られるようだ。
普段は気にもならないのに。痛みがあると、胃が自分の位置を主張してくる。
雪はやまない。
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おなじ後宮で、大雪の中で。かたや絶望に打ちひしがれ、かたや公主がはしゃぎながら遊んでいる。
たったひとりの帝の気を引けるかどうか。それだけで、人生はこうも違ってしまう。
そして自分の居場所が失われるのを焦った范敬は、行動を起こした。
雪に覆われた水辺で摘んだ大芹を、ただの芹だと偽って。
刻んだ茎と、猛毒の含有量が最も多い根茎を呉正鳴に食べさせたのだ。
「芹は、怒りっぽさを静めるそうです。イライラなさっているから、雪雪さまに当たり散らしているのではないですか?」と。
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