80 / 184
四章 猛毒草
14、どうか外へ【1】
しおりを挟む
范敬は、呉正鳴を殺そうとした毒で死んだ。
医局の床で痙攣を起こして倒れ、そのまま大芹のかけらの中で絶命した。
医師や医官の救命も、無駄であった。
「蔡昭媛が後宮を出ていけば、この侍女は行き場がなくなる。後宮の外で暮らす力を、持っていなかったのだ」
光柳は、范敬の亡骸を見つめていた。
口からは泡の混じった唾液をたらし、あまりの苦しさに喉元には掻きむしった痕がある。
もはやこれまでと、大芹を口に含んだのだろう。
光柳は手帕を取りだして、范敬の顔を覆ってやった。
范敬の憧れの光柳が傍にいるのに。最後に気にかけてもらえたのに。范敬の虚ろな瞳には、もう何も映っていない。
「大芹は猛毒です。水辺に普通に生えているから、誰でも摘むことができる。間違えて口にする事故はあっても、知ったうえで食べさせるなど……まともな人間ならば考えない」
翠鈴は、苦い気持ちを飲みこむことができなかった。
范敬は呉正鳴から、主である蔡昭媛を守ろうとした。
呉正鳴は、帝から蔡昭媛を守ろうとした。
おのれの立場を確保するためと、おのれの恋心を傷つけられないようにするために。
ふたりとも蔡昭媛を思っているように見えるが。どちらも自分のことが最優先だ。
◇◇◇
後日。体調が戻った呉正鳴は、医局で話した。
「俺がたびたび永仁宮を訪れるものだから。そのたびに、范敬は陛下が、蔡昭媛と閨を共にするのかと、ぬか喜びさせてしまった」
大芹の毒は抜けたようだが。まだ寝台からは離れられない。
「俺はただ、あの人を外に出してやりたかった。誰にも摘まれることもなく、萎れるのを待つだけの花にさせたくはなかった」
そこまで話して、呉正鳴はつらそうに息をついた。
「なのに。どうしてなのだろう。陛下に摘まれれば、それは栄華となる。皇后も妃嬪も、他の側室たちも。誰もが陛下と夜を共にすることを光栄と考える」
「あなたは、蔡昭媛さまが陛下に穢されると感じたのでしょう?」
翠鈴の問いかけに、呉正鳴は目を伏せた。
猛毒から生還したばかりの、やつれた顔だ。目は落ちくぼみ、頬もこけている。
「おかしな話だ。俺のものになるはずなど、ないのに。後宮の外に出してやっても、尼寺に入るだけ。ならば、衰弱させれば蔡家に置いてもらえると、陛下が彼女を臣下に嫁がせることもなく、心安らかに過ごせるはずだと。そんなはずはないのに」
正二品の高い位であっても。それは後宮に留まる場合のこと。
子もなさず、寵愛も受けらずに出戻ったところで、居場所などありはしない。
「蔡昭媛さまのことを、お好きなんですね」
翠鈴は静かに問うた。
寝台の傍の椅子には翠鈴と、光柳が座っている。背後には雲嵐もいる。
ただ巻きこまれた蔡昭媛はいない。
彼女には、呉正鳴の気持ちは聞かせるべきではないだろう。
蔡昭媛が憎まれているから、范敬は呉正鳴に仕返しをした。その単純な関係であったほうが、蔡昭媛は苦しまない。
呉正鳴の繊細で歪んだ愛情は、きっと蔡昭媛には伝わらない。
むしろ我が身の居場所を守ろうとして罪を犯した范敬のほうが、主である昭媛を大事にしていない。
嫌味を言い続けて、精神的に蔡昭媛を追い詰めた呉正鳴のやり方は何ひとつ正しくはないし、間違いだらけだが。
「大雪の日があっただろう?」
その日は、翠鈴も光柳も杷京にはいなかった。
だから、呉正鳴の言葉にうなずくことはできなかった。
「あの日。白一色に染まるなかで、雪雪さまはひとり立っておられた」
降りしきる雪。降りやまぬ雪。
蔡昭媛の頭にも肩にも、雪は降り積もる。
――いい年をして、雪遊びか? 九嬪としての自覚もないのか。まったく愚かだな。本当にあなたは考えが足りぬ。
違う。本当は「風邪をひいてはいけません。中にお入りください」と言うつもりだった。
呉正鳴は、寝台の上で頭を抱えた。
「あの日。俺は知っていたんだ。陛下が、昭媛に興味をお持ちになっていることを」
蔡昭媛に、いっそ風邪をひいてほしかった。
いや、ただの風邪を侮ってはならない。あれは万病の元だ。
「優しくしてさしあげたいのに、それができない。陛下のお手付きにならぬようにと。彼女が悲壮感を漂わせて、魅力がなくなれば、寵愛など受けないだろうと。俺は……雪雪さまを追いこんだ」
時々、蔡昭媛のことを「雪雪」と呼んでいる。そのことに、呉正鳴は気づいていないようだ。
「嫌われてもいい。どうせ俺は男ではなくなったし、彼女を幸せにすることなどできもしない。けれど、嫌だ。百二十人以上も妻や側室を、陛下はお持ちになり。しかも愛情をかけるのは、ほんの一握り」
まだ本調子ではないので、呉正鳴は咳きこんだ。
力のない弱々しい咳だ。
「なぁ。おかしくはないか。世継ぎは確かに必要だ。だが、なんでそんなに側室がいる? 囲っておいて、若いうちから女の人生を萎れさせておいて。そのことに心も痛まない。これが反対ならどうだ? 陛下は、誰かに捨ておかれて顧みられることもないなど、一生ご存じない。これは罪ではないのか?」
翠鈴と光柳は、顔を見あわせた。
呉正鳴の指摘は正しい。
それでも貴族や名家は、娘を後宮に送りたがる。
「女は……都合のいい『物』なんですよ」
蔡昭媛と話した翠鈴にはわかる。
個人の意思など関係ない。
医局の床で痙攣を起こして倒れ、そのまま大芹のかけらの中で絶命した。
医師や医官の救命も、無駄であった。
「蔡昭媛が後宮を出ていけば、この侍女は行き場がなくなる。後宮の外で暮らす力を、持っていなかったのだ」
光柳は、范敬の亡骸を見つめていた。
口からは泡の混じった唾液をたらし、あまりの苦しさに喉元には掻きむしった痕がある。
もはやこれまでと、大芹を口に含んだのだろう。
光柳は手帕を取りだして、范敬の顔を覆ってやった。
范敬の憧れの光柳が傍にいるのに。最後に気にかけてもらえたのに。范敬の虚ろな瞳には、もう何も映っていない。
「大芹は猛毒です。水辺に普通に生えているから、誰でも摘むことができる。間違えて口にする事故はあっても、知ったうえで食べさせるなど……まともな人間ならば考えない」
翠鈴は、苦い気持ちを飲みこむことができなかった。
范敬は呉正鳴から、主である蔡昭媛を守ろうとした。
呉正鳴は、帝から蔡昭媛を守ろうとした。
おのれの立場を確保するためと、おのれの恋心を傷つけられないようにするために。
ふたりとも蔡昭媛を思っているように見えるが。どちらも自分のことが最優先だ。
◇◇◇
後日。体調が戻った呉正鳴は、医局で話した。
「俺がたびたび永仁宮を訪れるものだから。そのたびに、范敬は陛下が、蔡昭媛と閨を共にするのかと、ぬか喜びさせてしまった」
大芹の毒は抜けたようだが。まだ寝台からは離れられない。
「俺はただ、あの人を外に出してやりたかった。誰にも摘まれることもなく、萎れるのを待つだけの花にさせたくはなかった」
そこまで話して、呉正鳴はつらそうに息をついた。
「なのに。どうしてなのだろう。陛下に摘まれれば、それは栄華となる。皇后も妃嬪も、他の側室たちも。誰もが陛下と夜を共にすることを光栄と考える」
「あなたは、蔡昭媛さまが陛下に穢されると感じたのでしょう?」
翠鈴の問いかけに、呉正鳴は目を伏せた。
猛毒から生還したばかりの、やつれた顔だ。目は落ちくぼみ、頬もこけている。
「おかしな話だ。俺のものになるはずなど、ないのに。後宮の外に出してやっても、尼寺に入るだけ。ならば、衰弱させれば蔡家に置いてもらえると、陛下が彼女を臣下に嫁がせることもなく、心安らかに過ごせるはずだと。そんなはずはないのに」
正二品の高い位であっても。それは後宮に留まる場合のこと。
子もなさず、寵愛も受けらずに出戻ったところで、居場所などありはしない。
「蔡昭媛さまのことを、お好きなんですね」
翠鈴は静かに問うた。
寝台の傍の椅子には翠鈴と、光柳が座っている。背後には雲嵐もいる。
ただ巻きこまれた蔡昭媛はいない。
彼女には、呉正鳴の気持ちは聞かせるべきではないだろう。
蔡昭媛が憎まれているから、范敬は呉正鳴に仕返しをした。その単純な関係であったほうが、蔡昭媛は苦しまない。
呉正鳴の繊細で歪んだ愛情は、きっと蔡昭媛には伝わらない。
むしろ我が身の居場所を守ろうとして罪を犯した范敬のほうが、主である昭媛を大事にしていない。
嫌味を言い続けて、精神的に蔡昭媛を追い詰めた呉正鳴のやり方は何ひとつ正しくはないし、間違いだらけだが。
「大雪の日があっただろう?」
その日は、翠鈴も光柳も杷京にはいなかった。
だから、呉正鳴の言葉にうなずくことはできなかった。
「あの日。白一色に染まるなかで、雪雪さまはひとり立っておられた」
降りしきる雪。降りやまぬ雪。
蔡昭媛の頭にも肩にも、雪は降り積もる。
――いい年をして、雪遊びか? 九嬪としての自覚もないのか。まったく愚かだな。本当にあなたは考えが足りぬ。
違う。本当は「風邪をひいてはいけません。中にお入りください」と言うつもりだった。
呉正鳴は、寝台の上で頭を抱えた。
「あの日。俺は知っていたんだ。陛下が、昭媛に興味をお持ちになっていることを」
蔡昭媛に、いっそ風邪をひいてほしかった。
いや、ただの風邪を侮ってはならない。あれは万病の元だ。
「優しくしてさしあげたいのに、それができない。陛下のお手付きにならぬようにと。彼女が悲壮感を漂わせて、魅力がなくなれば、寵愛など受けないだろうと。俺は……雪雪さまを追いこんだ」
時々、蔡昭媛のことを「雪雪」と呼んでいる。そのことに、呉正鳴は気づいていないようだ。
「嫌われてもいい。どうせ俺は男ではなくなったし、彼女を幸せにすることなどできもしない。けれど、嫌だ。百二十人以上も妻や側室を、陛下はお持ちになり。しかも愛情をかけるのは、ほんの一握り」
まだ本調子ではないので、呉正鳴は咳きこんだ。
力のない弱々しい咳だ。
「なぁ。おかしくはないか。世継ぎは確かに必要だ。だが、なんでそんなに側室がいる? 囲っておいて、若いうちから女の人生を萎れさせておいて。そのことに心も痛まない。これが反対ならどうだ? 陛下は、誰かに捨ておかれて顧みられることもないなど、一生ご存じない。これは罪ではないのか?」
翠鈴と光柳は、顔を見あわせた。
呉正鳴の指摘は正しい。
それでも貴族や名家は、娘を後宮に送りたがる。
「女は……都合のいい『物』なんですよ」
蔡昭媛と話した翠鈴にはわかる。
個人の意思など関係ない。
27
お気に入りに追加
732
あなたにおすすめの小説

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

契約婚なのだから契約を守るべきでしたわ、旦那様。
よもぎ
恋愛
白い結婚を三年間。その他いくつかの決まり事。アンネリーナはその条件を呑み、三年を過ごした。そうして結婚が終わるその日になって三年振りに会った戸籍上の夫に離縁を切り出されたアンネリーナは言う。追加の慰謝料を頂きます――

結婚して5年、初めて口を利きました
宮野 楓
恋愛
―――出会って、結婚して5年。一度も口を聞いたことがない。
ミリエルと旦那様であるロイスの政略結婚が他と違う点を挙げよ、と言えばこれに尽きるだろう。
その二人が5年の月日を経て邂逅するとき

転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?
朱音ゆうひ
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!
「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」
王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。
不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。
もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた?
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)

【完】お義母様そんなに嫁がお嫌いですか?でも安心してください、もう会う事はありませんから
咲貴
恋愛
見初められ伯爵夫人となった元子爵令嬢のアニカは、夫のフィリベルトの義母に嫌われており、嫌がらせを受ける日々。
そんな中、義父の誕生日を祝うため、とびきりのプレゼントを用意する。
しかし、義母と二人きりになった時、事件は起こった……。


【完結】私、四女なんですけど…?〜四女ってもう少しお気楽だと思ったのに〜
まりぃべる
恋愛
ルジェナ=カフリークは、上に三人の姉と、弟がいる十六歳の女の子。
ルジェナが小さな頃は、三人の姉に囲まれて好きな事を好きな時に好きなだけ学んでいた。
父ヘルベルト伯爵も母アレンカ伯爵夫人も、そんな好奇心旺盛なルジェナに甘く好きな事を好きなようにさせ、良く言えば自主性を尊重させていた。
それが、成長し、上の姉達が思わぬ結婚などで家から出て行くと、ルジェナはだんだんとこの家の行く末が心配となってくる。
両親は、貴族ではあるが貴族らしくなく領地で育てているブドウの事しか考えていないように見える為、ルジェナはこのカフリーク家の未来をどうにかしなければ、と思い立ち年頃の男女の交流会に出席する事を決める。
そして、そこで皆のルジェナを想う気持ちも相まって、無事に幸せを見つける。
そんなお話。
☆まりぃべるの世界観です。現実とは似ていても違う世界です。
☆現実世界と似たような名前、土地などありますが現実世界とは関係ありません。
☆現実世界でも使うような単語や言葉を使っていますが、現実世界とは違う場合もあります。
楽しんでいただけると幸いです。

夫の隠し子を見付けたので、溺愛してみた。
辺野夏子
恋愛
セファイア王国王女アリエノールは八歳の時、王命を受けエメレット伯爵家に嫁いだ。それから十年、ずっと仮面夫婦のままだ。アリエノールは先天性の病のため、残りの寿命はあとわずか。日々を穏やかに過ごしているけれど、このままでは生きた証がないまま短い命を散らしてしまう。そんなある日、アリエノールの元に一人の子供が現れた。夫であるカシウスに生き写しな見た目の子供は「この家の子供になりにきた」と宣言する。これは夫の隠し子に間違いないと、アリエノールは継母としてその子を育てることにするのだが……堅物で不器用な夫と、余命わずかで卑屈になっていた妻がお互いの真実に気が付くまでの話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる