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三章 湯泉宮と雲嵐の過去

14、目を引く

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 宿を出た先に、舟着き場があった。
 小舟だけではなく、二十人ほども乗れそうな舟もある。「どうだい? 安くしとくよ」との呼び込みの声が飛び交っている。

「大きいのは遊覧のための舟ですよ」

 珍しい光景を眺める翠鈴に、雲嵐が教えてくれた。

 川沿いの石段を下りると、水の匂いがした。水面まで垂れている柳の葉が、風にそよぐ。柳の葉の起こす波紋が、静かに川面に広がっていった。 

湯泉宮とうせんぐうまでなら、すぐに出してやるぞ。俺の腕は確かだから、着くのも早いぞ。前払いでどうだ?」

 舟頭に熱心に呼びとめられて、舟を選ぶこともできなかった。

「ほら。足下に気をつけるんだぞ」

 先に小舟に乗りこんだ光柳が、手を差し伸べてくれる。優雅なしぐさだ。
 
 夜の間に降った雨が、大気を洗ったせいだろう。空気が澄んでいる。
 対岸の長廊ちょうろうの軒に下げられた紅灯籠が、朝陽に照らされてまるで明かりがついているように見えるほどだ。

 翠鈴は視線を感じて、ふり返った。

 ちがう。皆が見ているのは、翠鈴の向こうにいる光柳だ。
 船着き場よりも高い位置にある道に、人が集まっている。

「わぁ、お芝居のようね」
「すこし絵を描かせてもらえんか?」

 女性が感嘆の息を洩らすのは分かるが。老爺までもが、紙と筆を取りだそうとしている。

「まぁ、女装を解いてもこうだ。私の美しさは、完璧だからな」

 ふっ、と光柳が鼻で笑う。

「よかったです」
「ん? 珍しいな、翠鈴。褒めてくれるのか?」

 こくりと翠鈴はうなずいた。

「光柳さまの美が、後宮だけの異質な性癖……いえ、一般的に通じる美でよかったと思います」

 これなら、麟美リンメイの詩も高く売れる。
 翠鈴は頭の中でそろばんを弾いた。

 彼女は覚えていた。
 かつて光柳が、翠鈴に宮女を辞めた後は城市まちで薬師となればいいと言っていたことを。

 あの時、翠鈴は誤解していたが。光柳は、自らが生み出す詩を売って資金にすればいいと提案してくれていた。
 とはいえ後宮は閉ざされた世界。どうしても外とは感性が違うのではないか、と危惧していたのだ。

「私が美しいことを、まるで我が事のように喜んでくれるのか」
「はいっ」

 翠鈴の声は弾んでいる。

「そうか。頭の中でだけ思い描く美は、もろいものだ。だが、詩だけではなく、生き方そのものも美しければ、それは堅牢な美となりうる」

 光柳は、感極まったように涙を浮かべた。

 ただひとり雲嵐は腕を組んで、ため息をついた。
 光柳と翠鈴の、互いの気持ちが通じているようで、すれ違っていることも。
「お芝居のよう」と称されているのが、光柳だけではなく、翠鈴も含まれていることに彼女が気づいていないことも。

 翠鈴は、顔立ちだけ見れば美女というわけではない。
 だが、佇まいは嫌でも目を引く。

 月下美人の花にたとえられる光柳と、青竹のような翠鈴。

(馬車で温泉まで行った方が、目立たなかっただろうか)

 雲嵐は思案した。

 昨日、昼食をとった茶館では、光柳は女装していた。今日の宿の客は、ほとんど男であり。光柳もまた男の姿であった。
 だから気にならなかったのだが。

(私は光柳さまと翠鈴さまに、目が慣れてしまっているからな)

 雲嵐の不安はすぐに的中した。
 翠鈴が舟に乗りこむのを躊躇したのだ。

「翠鈴。どうかしましたか?」
「舟底にほうきが置いてあります」

 雲嵐の問いかけに、翠鈴が応える。その声は明らかに警戒の色が滲んでいた。

「ああ、舟をきれいにしておきたいんだよ。ほら、ゆうべは雨が降っただろう? 泥汚れが舟に入っちまうからな」

 舟頭の言い訳をおとなしく聞いていた翠鈴だが。
 ぐいっと光柳の手首をつかんで引っ張った。

「すみませんが。他の舟をあたります」
「翠鈴?」
「どうしたんですか?」

 光柳と雲嵐が、説明を求めた。
 舟頭は「なんだよ、乗らねぇのか? 他の客を乗せちまうぞ」と焦っている。

 翠鈴の説明はまだない。しびれを切らしたのか、舟頭は次の客を呼び込んでいる。

「なるほど。杷京ほど都会ではありませんが。それでも人が集まる交通の要所ですね。気をつけるとしましょう」

 翠鈴は肩をすくめた。

「あの舟に載せてあった箒は、毒ですよ」

 往来の人に聞こえぬように、小さな声で翠鈴は告げた。
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