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三章 湯泉宮と雲嵐の過去
10、ぼくのあるじ
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子供だけで、離宮から出ることはできない。
けれど、侍女や宮女たちをつれて、毬を探しに行くのも申し訳ない。
子供であった光柳には、大人に内緒にするほうが問題になるという考えはなかった。
「光柳さま。勝手に外に出ちゃダメですよ」
慎重な雲嵐は、さすがに無謀なことはしない。
庭を突っきって門から出ようとする光柳の腕を掴んだ。
「すぐに戻るから大丈夫だって。晩ごはんに間にあえば、問題ないんだから」
「そんなにすぐに見つかりますか? 相手は猿ですよ」
「だーいじょうぶ」
どこに根拠があるのか。光柳は胸を張る。
(自信満々に大丈夫と言われても、困るんだけど)
本当は光柳の行動を止めるのが一番だ。
けれど、この小さな主は頑固でもある。
無理に止めたところで、きっと大人や雲嵐の目を盗んで外に出るだろう。
(だったら、ぼくがついていった方が、まだマシなんだろうな)
雲嵐は机においてある筆を手にした。
光柳の母親の麟美が詩を詠むからだろうか。離宮のあちこちに紙や筆、硯も置かれている。
文字はすこしなら書ける。宦官として生きていくために、読み書きは必要だから教育された。
――くぁんりゅうさま まり さがしに そとにいてきます ゆぃんらん ついていきます
「これでいいかな」
湿った墨のにおいが立つ。遠くから「いくぞー、雲嵐」と呼ぶ声が聞こえた。
雲嵐は知らなかった。
紙は、文鎮で押さえておかないとすぐに風にさらわれてしまうことを。
棕櫚の大きな葉が、バサバサと風に揺れている。橙色の凌霄花が、離宮の塀からこぼれそうに咲き乱れていた。
「おまちください、光柳さま」
雲嵐はふんだんに花が咲き乱れる庭をつっきった。鳥のさえずりと、遠い波の音が聞こえる。
見上げれば、空の果てに黒い雲がかかっていた。
(急がないと。きっと雨が降るぞ)
雲嵐は、門番に出かける旨と、書き置きを残したことを告げた。
光柳はあてもなく「まりー、どこー」と辺りをきょろきょろしている。毬が応えるはずもないのに。
杷京の宮城の地面には石が敷かれているが。離宮やその周辺は土のままの地面だ。
目を凝らせば、かろうじて猿の足跡がわかる。
「光柳さま。こっちですよ」
お坊ちゃま育ちでのんびりした光柳と違い、苦労してきた雲嵐は、目に入る情報からさまざまなものを読み解くことができる。
「うわ、カニがつぶれてるよ」
「それ。たぶん猿が石でカニの殻を割って食べたんですよ」
道の真ん中でしゃがみこむ光柳に、雲嵐が説明した。海に近い離宮で暮らすまで、カニは川や池にいるものだと思っていた。
まだ離宮の塀沿いなので、遠くまでは行っていない。
「ほら、カニの殻が点々と落ちてるでしょ。猿はあっちに行ったんですよ」
蟻のたかった殻を眺めている光柳を、雲嵐は引っぱった。
「猿はカニを、生で食べるものなの?」
「ゆでないと思いますよ」
「ゆでたらおいしいのに」
夏とは思えぬ冷たい風が吹いた。午後によく降るにわか雨の時間が近い。
(いったん離宮に戻った方がいいかな。このまま行ってもまにあうかな)
きっと雲嵐がおとなだったら、戻る方を選んだだろう。
だが、当時の彼はまだ十一歳の少年だ。物事を楽観的に考えすぎた。
「あ、猿です。いました」
雲嵐の視界に、毬を持った猿が入ったのもまずかった。
金の猿は森へと入っていった。雲嵐は猿を追って、大きな葉をかきわけて森へ進む。
きつい太陽に照らされて、緑のにおいがむっとする。
あと少し。雲嵐は手を伸ばす。
金色の猿のしっぽが、しなる鞭のように左右に揺れる。届かない。
(早くしないと、雨が降るのに)
雲嵐は走った。
足もとが悪い。つるつるした芭蕉の葉が落ちていて、転びそうになる。
(光柳さまのお気に入りの毬なのに。ぼくと遊ぶために用意なさったのに)
もし、これがただのおもちゃなら。雲嵐もそこまで必死にはならなかっただろう。
都から遠い離宮で、おとなに囲まれた孤独な子と。家族に売られて、体を損なった哀れな子。
主従ではあるけれど。ふたりは友達でもあった。
ぽつり、と雨が雲嵐の頬をぬらした。
「つかまえたっ」
雲嵐は猿の手から毬を奪った。
これは大事なもの。光柳さまが、雲嵐と仲よくなるために用意したもの。
絶対にだれにも渡さない。
毬が消えたというだけで、光柳はあんなにも必死に探していたじゃないか。
明るすぎて世界が白く見える日中。毬を求める背中を見るのはつらかった。
(光柳さまが、ぼくとの思い出を守ろうとしてくれるのなら。ぼくは光柳さまの大事なものを守るんだ)
ぼくの主なんだから。たったひとりの主なんだから。
キーィ! と怒った猿が、雲嵐を引っ搔こうとする。その前足を避けたとき。
雲嵐は落っこちた。毬と共に。
けれど、侍女や宮女たちをつれて、毬を探しに行くのも申し訳ない。
子供であった光柳には、大人に内緒にするほうが問題になるという考えはなかった。
「光柳さま。勝手に外に出ちゃダメですよ」
慎重な雲嵐は、さすがに無謀なことはしない。
庭を突っきって門から出ようとする光柳の腕を掴んだ。
「すぐに戻るから大丈夫だって。晩ごはんに間にあえば、問題ないんだから」
「そんなにすぐに見つかりますか? 相手は猿ですよ」
「だーいじょうぶ」
どこに根拠があるのか。光柳は胸を張る。
(自信満々に大丈夫と言われても、困るんだけど)
本当は光柳の行動を止めるのが一番だ。
けれど、この小さな主は頑固でもある。
無理に止めたところで、きっと大人や雲嵐の目を盗んで外に出るだろう。
(だったら、ぼくがついていった方が、まだマシなんだろうな)
雲嵐は机においてある筆を手にした。
光柳の母親の麟美が詩を詠むからだろうか。離宮のあちこちに紙や筆、硯も置かれている。
文字はすこしなら書ける。宦官として生きていくために、読み書きは必要だから教育された。
――くぁんりゅうさま まり さがしに そとにいてきます ゆぃんらん ついていきます
「これでいいかな」
湿った墨のにおいが立つ。遠くから「いくぞー、雲嵐」と呼ぶ声が聞こえた。
雲嵐は知らなかった。
紙は、文鎮で押さえておかないとすぐに風にさらわれてしまうことを。
棕櫚の大きな葉が、バサバサと風に揺れている。橙色の凌霄花が、離宮の塀からこぼれそうに咲き乱れていた。
「おまちください、光柳さま」
雲嵐はふんだんに花が咲き乱れる庭をつっきった。鳥のさえずりと、遠い波の音が聞こえる。
見上げれば、空の果てに黒い雲がかかっていた。
(急がないと。きっと雨が降るぞ)
雲嵐は、門番に出かける旨と、書き置きを残したことを告げた。
光柳はあてもなく「まりー、どこー」と辺りをきょろきょろしている。毬が応えるはずもないのに。
杷京の宮城の地面には石が敷かれているが。離宮やその周辺は土のままの地面だ。
目を凝らせば、かろうじて猿の足跡がわかる。
「光柳さま。こっちですよ」
お坊ちゃま育ちでのんびりした光柳と違い、苦労してきた雲嵐は、目に入る情報からさまざまなものを読み解くことができる。
「うわ、カニがつぶれてるよ」
「それ。たぶん猿が石でカニの殻を割って食べたんですよ」
道の真ん中でしゃがみこむ光柳に、雲嵐が説明した。海に近い離宮で暮らすまで、カニは川や池にいるものだと思っていた。
まだ離宮の塀沿いなので、遠くまでは行っていない。
「ほら、カニの殻が点々と落ちてるでしょ。猿はあっちに行ったんですよ」
蟻のたかった殻を眺めている光柳を、雲嵐は引っぱった。
「猿はカニを、生で食べるものなの?」
「ゆでないと思いますよ」
「ゆでたらおいしいのに」
夏とは思えぬ冷たい風が吹いた。午後によく降るにわか雨の時間が近い。
(いったん離宮に戻った方がいいかな。このまま行ってもまにあうかな)
きっと雲嵐がおとなだったら、戻る方を選んだだろう。
だが、当時の彼はまだ十一歳の少年だ。物事を楽観的に考えすぎた。
「あ、猿です。いました」
雲嵐の視界に、毬を持った猿が入ったのもまずかった。
金の猿は森へと入っていった。雲嵐は猿を追って、大きな葉をかきわけて森へ進む。
きつい太陽に照らされて、緑のにおいがむっとする。
あと少し。雲嵐は手を伸ばす。
金色の猿のしっぽが、しなる鞭のように左右に揺れる。届かない。
(早くしないと、雨が降るのに)
雲嵐は走った。
足もとが悪い。つるつるした芭蕉の葉が落ちていて、転びそうになる。
(光柳さまのお気に入りの毬なのに。ぼくと遊ぶために用意なさったのに)
もし、これがただのおもちゃなら。雲嵐もそこまで必死にはならなかっただろう。
都から遠い離宮で、おとなに囲まれた孤独な子と。家族に売られて、体を損なった哀れな子。
主従ではあるけれど。ふたりは友達でもあった。
ぽつり、と雨が雲嵐の頬をぬらした。
「つかまえたっ」
雲嵐は猿の手から毬を奪った。
これは大事なもの。光柳さまが、雲嵐と仲よくなるために用意したもの。
絶対にだれにも渡さない。
毬が消えたというだけで、光柳はあんなにも必死に探していたじゃないか。
明るすぎて世界が白く見える日中。毬を求める背中を見るのはつらかった。
(光柳さまが、ぼくとの思い出を守ろうとしてくれるのなら。ぼくは光柳さまの大事なものを守るんだ)
ぼくの主なんだから。たったひとりの主なんだから。
キーィ! と怒った猿が、雲嵐を引っ搔こうとする。その前足を避けたとき。
雲嵐は落っこちた。毬と共に。
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