58 / 139
三章 湯泉宮と雲嵐の過去
9、ふたつの空
しおりを挟む
初対面の日。光柳は革の毬を持っていた。
雲嵐は、てっきり大きめのお手玉代わりだと思っていたが。
どうやら蹴鞠という遊びに使う毬らしい。
男の子の遊び相手が来ると知って、用意してもらったと光柳が言っていた。
「だって。侍女は毬をけってくれないんだよ」
「でしょうね」
両手で毬を抱えて、光柳は海辺に向かう。雲嵐が毬を持とうかと提案しても、離さない。
「ぼくね、お友だちと毬で遊びたかったんだ」
碧の海に光が反射して、きらきらとまぶしい。光柳の笑顔も、きらめいている。
「杷京にいたころはね、ずっと空をながめてたんだよ。雲が流れるのが、おもしろくて。犬の絵を描いてくれた阿雨もいたけど。やっぱりお友だちがほしかった」
少年の雲嵐は宮城も知らなければ、後宮も知らない。
ただ、光柳にとってはとても寂しい場所だということは分かる。
だから「ぼくは、光柳さまの友だちじゃありませんよ」とは口にはできなかった。
毬をずっと抱えていて。いつ雲嵐に「いっしょにあそぼ」と誘おうかと、心待ちにしていた。そんな光柳の様子を想像すると、いくらでも遊んであげたい気持ちになる。
実家の兄は、サンであった雲嵐と遊ぶことはなかった。
家畜の世話や、父さんの手伝いで忙しかったから。
雲嵐は小さい頃、やはり空を眺めて過ごした。
もしかすると、光柳と同じ雲を、夕焼けを見ていたかもしれない。
ふたり分のふたつの空が、今はひとつになった。
砂浜には、淡い桃色の浜昼顔が咲いていた。うすい花弁が、ひらひらと海風に揺れている。
「行くよー。雲嵐」
光柳は毬を蹴りあげた。
これは互いに毬を地面に落とさずに、蹴り続ける遊びだ。
運動の得意な雲嵐は、的確に毬を蹴り返すけれど。光柳が蹴ると、あさっての方向に飛んでしまう。
雲嵐が走る。付き添いの侍女が走る。
光柳は、毬を追いかける雲嵐たちを楽しそうに眺めた。
春とはいえ、陽ざしは強い。走れば汗ばむ。しかも砂浜だ。足を取られて進みにくい。
なのに、雲嵐はなぜか微笑んでいた。
これまで汗をかくのは、脱走した羊を追いかけて走った時や水を運んだ時なのに。
砂のせいで足は重いのに。
まるで草原を馬で駆けた時のような爽快感だ。
(もしかして、ぼく、楽しい?)
もう数字の三ではない。新しい名前で呼ばれることにも慣れた。
(雲嵐だって)
新しい名前のことを考えると、胸がくすぐったくなる。
空を見あげれば、白い雲が綿のようにぽわぽわと浮かんでいた。
どす黒い嵐の雲の方がかっこいいなんて。
光柳は離宮の頑丈な建物で暮らしているから。草原の天幕や、簡素な小屋みたいな家を知らないから。
嵐になると雨が洩れて、床が水浸しになる生活を知らないから。
それでも、光柳が自身につけたいかっこいい名前を譲ってくれた。
それは何よりもすてきな贈り物かもしれない。
ひゅ、と冷たい風が雲嵐の頬を撫でた。
上空の雲が流されていく。
今は天気がいいけれど。じきに雨が降るかもしれない
平原の民は、雲や風を読むことに長けている。まだ少年の雲嵐もそうだ。
「雲嵐ーっ。はやくーっ」
両手を上げて、光柳が急かしている。
◇◇◇
雲嵐と出会った時は、毬はまっさらだった。
春から夏に季節は移り。毬は使いこまれて、こげ茶色に代わっていた。
その光柳のお気に入りの毬が消えてしまった。
「猿が盗んだようでございます」
「まぁ。どうしましょう。離宮に入りこんだのね」
侍女からの知らせに、母親である麟美が困ったように眉を下げる。
朝起きてから、午後になるまで。光柳は毬を探しまわっていた。
食事もろくにとらず。少し食べては、また庭に出る始末だ。
太陽が南中する頃は、地面に落ちた椰子の葉影も濃い。
雲嵐がまぶしさに目を細めると、離宮の庭は白と黒の世界に見えた。
「光柳。暑いですから、中にお入りなさい」
「うん。毬が見つかったらね」
母に声をかけられても、光柳は聞き入れない。
汗をぼたぼたと流しながら。今にも泣きそうに濃いはちみつ色の瞳を潤ませながら。繁った夏草の中や、木の根元を探している。
「新しい毬を用意いたしますよ」
侍女の提案に、光柳は首をふる。
「あれがいい。雲嵐といっしょに遊んだ毬だから」
小さな主の言葉は、雲嵐の胸を打った。
光柳が追い求めているのはただの毬ではない。春から夏のふたりの時間なのだ。
新しい遊び相手が欲しいんじゃない。雲嵐が大切なんだと、言ってもらえたように思えた。
園丁が、猿はこの辺りに生息しているから離宮の外で見つかるだろうと教えてくれた。それを聞かなければ、夜になっても庭を探し続けていただろう。
(猿ってなんだろう?)
雲嵐の話を聞いていた翠鈴は、首を傾げた。
「猿というのは動物だ。この国では温暖な南方にしか生息しないから、知らぬのも無理はない。人間の子供くらいの知能があるな。二本足で立つこともあるし、手や指を人間のようで、道具も扱える。そのくせ木登りも得意だ」
光柳が説明してくれる。
子供のころの話など、されたくもないだろうに。妙に律儀だ。
雲嵐は、てっきり大きめのお手玉代わりだと思っていたが。
どうやら蹴鞠という遊びに使う毬らしい。
男の子の遊び相手が来ると知って、用意してもらったと光柳が言っていた。
「だって。侍女は毬をけってくれないんだよ」
「でしょうね」
両手で毬を抱えて、光柳は海辺に向かう。雲嵐が毬を持とうかと提案しても、離さない。
「ぼくね、お友だちと毬で遊びたかったんだ」
碧の海に光が反射して、きらきらとまぶしい。光柳の笑顔も、きらめいている。
「杷京にいたころはね、ずっと空をながめてたんだよ。雲が流れるのが、おもしろくて。犬の絵を描いてくれた阿雨もいたけど。やっぱりお友だちがほしかった」
少年の雲嵐は宮城も知らなければ、後宮も知らない。
ただ、光柳にとってはとても寂しい場所だということは分かる。
だから「ぼくは、光柳さまの友だちじゃありませんよ」とは口にはできなかった。
毬をずっと抱えていて。いつ雲嵐に「いっしょにあそぼ」と誘おうかと、心待ちにしていた。そんな光柳の様子を想像すると、いくらでも遊んであげたい気持ちになる。
実家の兄は、サンであった雲嵐と遊ぶことはなかった。
家畜の世話や、父さんの手伝いで忙しかったから。
雲嵐は小さい頃、やはり空を眺めて過ごした。
もしかすると、光柳と同じ雲を、夕焼けを見ていたかもしれない。
ふたり分のふたつの空が、今はひとつになった。
砂浜には、淡い桃色の浜昼顔が咲いていた。うすい花弁が、ひらひらと海風に揺れている。
「行くよー。雲嵐」
光柳は毬を蹴りあげた。
これは互いに毬を地面に落とさずに、蹴り続ける遊びだ。
運動の得意な雲嵐は、的確に毬を蹴り返すけれど。光柳が蹴ると、あさっての方向に飛んでしまう。
雲嵐が走る。付き添いの侍女が走る。
光柳は、毬を追いかける雲嵐たちを楽しそうに眺めた。
春とはいえ、陽ざしは強い。走れば汗ばむ。しかも砂浜だ。足を取られて進みにくい。
なのに、雲嵐はなぜか微笑んでいた。
これまで汗をかくのは、脱走した羊を追いかけて走った時や水を運んだ時なのに。
砂のせいで足は重いのに。
まるで草原を馬で駆けた時のような爽快感だ。
(もしかして、ぼく、楽しい?)
もう数字の三ではない。新しい名前で呼ばれることにも慣れた。
(雲嵐だって)
新しい名前のことを考えると、胸がくすぐったくなる。
空を見あげれば、白い雲が綿のようにぽわぽわと浮かんでいた。
どす黒い嵐の雲の方がかっこいいなんて。
光柳は離宮の頑丈な建物で暮らしているから。草原の天幕や、簡素な小屋みたいな家を知らないから。
嵐になると雨が洩れて、床が水浸しになる生活を知らないから。
それでも、光柳が自身につけたいかっこいい名前を譲ってくれた。
それは何よりもすてきな贈り物かもしれない。
ひゅ、と冷たい風が雲嵐の頬を撫でた。
上空の雲が流されていく。
今は天気がいいけれど。じきに雨が降るかもしれない
平原の民は、雲や風を読むことに長けている。まだ少年の雲嵐もそうだ。
「雲嵐ーっ。はやくーっ」
両手を上げて、光柳が急かしている。
◇◇◇
雲嵐と出会った時は、毬はまっさらだった。
春から夏に季節は移り。毬は使いこまれて、こげ茶色に代わっていた。
その光柳のお気に入りの毬が消えてしまった。
「猿が盗んだようでございます」
「まぁ。どうしましょう。離宮に入りこんだのね」
侍女からの知らせに、母親である麟美が困ったように眉を下げる。
朝起きてから、午後になるまで。光柳は毬を探しまわっていた。
食事もろくにとらず。少し食べては、また庭に出る始末だ。
太陽が南中する頃は、地面に落ちた椰子の葉影も濃い。
雲嵐がまぶしさに目を細めると、離宮の庭は白と黒の世界に見えた。
「光柳。暑いですから、中にお入りなさい」
「うん。毬が見つかったらね」
母に声をかけられても、光柳は聞き入れない。
汗をぼたぼたと流しながら。今にも泣きそうに濃いはちみつ色の瞳を潤ませながら。繁った夏草の中や、木の根元を探している。
「新しい毬を用意いたしますよ」
侍女の提案に、光柳は首をふる。
「あれがいい。雲嵐といっしょに遊んだ毬だから」
小さな主の言葉は、雲嵐の胸を打った。
光柳が追い求めているのはただの毬ではない。春から夏のふたりの時間なのだ。
新しい遊び相手が欲しいんじゃない。雲嵐が大切なんだと、言ってもらえたように思えた。
園丁が、猿はこの辺りに生息しているから離宮の外で見つかるだろうと教えてくれた。それを聞かなければ、夜になっても庭を探し続けていただろう。
(猿ってなんだろう?)
雲嵐の話を聞いていた翠鈴は、首を傾げた。
「猿というのは動物だ。この国では温暖な南方にしか生息しないから、知らぬのも無理はない。人間の子供くらいの知能があるな。二本足で立つこともあるし、手や指を人間のようで、道具も扱える。そのくせ木登りも得意だ」
光柳が説明してくれる。
子供のころの話など、されたくもないだろうに。妙に律儀だ。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
660
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる