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三章 湯泉宮と雲嵐の過去
8、とびっきりの名前
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十数年前。十一歳の雲嵐は、杷南地方の離宮に勤めることとなった。
まだ、雲嵐の名で呼ばれる前。サンという名前だった頃のことだ。
今では、サンという名であった頃よりも、雲嵐として生きているほうが、すでに長い。
離宮での仕事は、ひとつ下の光柳の話し相手だと聞かされた。
(ど、どうしよう。お城だ。この廊下だけでも、うちの家族だけじゃなくて一族が暮らせる広さだ。一族が持ってる家畜も入るぞ)
棕櫚の木が植えられた庭には、うすくれないや黄色が鮮やかな葉子花が咲き乱れている。
春とはいえ日差しが強いせいで、離宮の中の影は濃い。
遠くから聞こえるのが波音だとは、草原育ちの雲嵐は知らなかった。
初対面の光柳の印象は「泣き虫の弱そうな子」だった。
案内された部屋の壁際には、女性がふたり椅子に座っていた。
ひとりは光柳の母である麟美、もうひとりは侍女だと後になって知った。
床の中央には、織りの緻密な敷物がしかれている。その上に置かれた軟墊を背にあてて、光柳は座っていた。ぽつんと。
まるで女の子だ。艶のある黒髪に、繊細そうな顔立ち。手には、革でできた毬を持っている。
話では、ひとつ下の男の子だと聞いていたのに。
「え? なんで」
思わず声に出してしまった。
前王朝の頃、雲嵐の先祖は奴隷として連れてこられた。けれど雲嵐は誇り高い騎馬民族の子孫だ。
(なんでぼくが話し相手なんだよ。っていうか、あの毬はお手玉の代わりじゃないだろうな)
姉のアーなら、中に豆を詰めたお手玉が得意だ。
しかも自分のように体を傷つけられることなく、話し相手になれただろう。
そうしたら、男であることを失わずにすんだのに。
(なんだ。これ。もやもやする)
自分の胸の内に込みあげてくる気持ちが、怒りであることに雲嵐は気づかない。
もともと温厚で、物静かだから。
宦官になるために売られたときも、家族を守るためだからしょうがないと、己に言い聞かせた。
雲嵐自身が、まだ守られるべき子供であるのに。
厳しい暮らしは、子供でいられる期間を短くする。
「きみが、ぼくのお友だち?」
光柳が雲嵐を見つめる。南に面した窗は開かれ、贅沢なほどに春の光が射しこんでいる。
「ぼくは光柳。きみは?」
蜂蜜をとても濃くしたような色の瞳だ。
大人になった今なら、雲嵐も光柳の瞳を「琥珀のよう」と形容できるだろうが。宝石など見たこともないし、母も祖母も持っていなかった。
祖母が「平原にいた頃は、ばあちゃんのばあちゃんは黄金と翠玉の頭飾りを持っていたらしいけど。奪われたそうだよ」と、話していたことがある。
「ぼくは、そのサン。あ、ちがう。ダストの孫で、タシュの息子のサンです」
雲嵐は姿勢を正して、自己紹介をした。
光柳は首をかしげる。
(そうか。新杷国では、姓を使うんだ)
けれど雲嵐に姓はない。
「もしかして。サンって三のこと? あ、ちがってたら、ごめんね」
怖々と言った様子で、光柳が問いかけてくる。
声の小ささも、初対面の同年代の子供におびえた様子も。どちらも仕えるべき主の気の弱さが見てとれる。
「あっています。兄がイーで姉がアー、ぼくがサン、弟がスーです」
「数字だ! なんで?」
光柳の声が弾んだ。
なんでって。生まれた順番に、この国の数字を当てはめただけだよ。とは言えなかった。
ほんとうは「サン」と名乗るのが恥ずかしかった。
一族の子たちは、ちゃんとした意味のある名前をつけてもらっているのに。
光柳は、名前が数字であることに意味を見出そうとしているのだろう。しきりに「なんで?」と問いかけてくる。
「おじいさんのダストは友情って意味で。お父さんのタシュは石って意味だけど。新杷国での暮らしには、この国の言葉を使った方がいいからって。父さんがつけたらしい……です」
「すごいね。ぼくはおじいさんもお父さんも、名前を知らないよ」
「それは……」
どう答えていいのか、雲嵐はとまどった。
光柳は「座って」と、自分の隣の場所をぱしぱしと手で叩いた。
側に控えていた侍女が、急いで軟墊を持ってくる。
ふかふかの軟墊だった。
いつも地面だったり、床だったりに座っていた。宦官になってからも、硬い椅子にしか座ったことがない。
「なんか、背中が沈みます」
「やわらかいよね」
にっこりと光柳が微笑む。そして座った雲嵐に、にじりよった。
「あのね。ぼくが名前を付けてもいい?」
「構いませんけど」
親からもらった名前とはいえ、どうせ「三」なのだ。
大事にしたいほどの思い入れもない。
「じゃあねー。雲嵐」
「どういう意味ですか?」
光柳は、敷物の上で指を走らせる。雲嵐は、読み書きは少しは習ったけれど。何を書いているのか読み取れない。
「大雨が降る前の雲だよ」
いやがらせをされているのかな? 温厚な雲嵐も、さすがに眉をひそめた。
けれど、光柳の目はきらきらしている。
「かっこいいでしょ。ここね、南で海が近いから。嵐の前にすっごい雲がもくもくってなるんだ。ぼくの名前は女の子みたいな字だから。ほんとは、ぼくが自分につけたかったんだけど。君にあげるね」
光柳はまくし立てた。
ちゃんと話を聞いてよかった。思い込みで、腹を立てずに済んだ。
主となる少年にとっては、とびっきりの上等な名前だったのだ。
まだ、雲嵐の名で呼ばれる前。サンという名前だった頃のことだ。
今では、サンという名であった頃よりも、雲嵐として生きているほうが、すでに長い。
離宮での仕事は、ひとつ下の光柳の話し相手だと聞かされた。
(ど、どうしよう。お城だ。この廊下だけでも、うちの家族だけじゃなくて一族が暮らせる広さだ。一族が持ってる家畜も入るぞ)
棕櫚の木が植えられた庭には、うすくれないや黄色が鮮やかな葉子花が咲き乱れている。
春とはいえ日差しが強いせいで、離宮の中の影は濃い。
遠くから聞こえるのが波音だとは、草原育ちの雲嵐は知らなかった。
初対面の光柳の印象は「泣き虫の弱そうな子」だった。
案内された部屋の壁際には、女性がふたり椅子に座っていた。
ひとりは光柳の母である麟美、もうひとりは侍女だと後になって知った。
床の中央には、織りの緻密な敷物がしかれている。その上に置かれた軟墊を背にあてて、光柳は座っていた。ぽつんと。
まるで女の子だ。艶のある黒髪に、繊細そうな顔立ち。手には、革でできた毬を持っている。
話では、ひとつ下の男の子だと聞いていたのに。
「え? なんで」
思わず声に出してしまった。
前王朝の頃、雲嵐の先祖は奴隷として連れてこられた。けれど雲嵐は誇り高い騎馬民族の子孫だ。
(なんでぼくが話し相手なんだよ。っていうか、あの毬はお手玉の代わりじゃないだろうな)
姉のアーなら、中に豆を詰めたお手玉が得意だ。
しかも自分のように体を傷つけられることなく、話し相手になれただろう。
そうしたら、男であることを失わずにすんだのに。
(なんだ。これ。もやもやする)
自分の胸の内に込みあげてくる気持ちが、怒りであることに雲嵐は気づかない。
もともと温厚で、物静かだから。
宦官になるために売られたときも、家族を守るためだからしょうがないと、己に言い聞かせた。
雲嵐自身が、まだ守られるべき子供であるのに。
厳しい暮らしは、子供でいられる期間を短くする。
「きみが、ぼくのお友だち?」
光柳が雲嵐を見つめる。南に面した窗は開かれ、贅沢なほどに春の光が射しこんでいる。
「ぼくは光柳。きみは?」
蜂蜜をとても濃くしたような色の瞳だ。
大人になった今なら、雲嵐も光柳の瞳を「琥珀のよう」と形容できるだろうが。宝石など見たこともないし、母も祖母も持っていなかった。
祖母が「平原にいた頃は、ばあちゃんのばあちゃんは黄金と翠玉の頭飾りを持っていたらしいけど。奪われたそうだよ」と、話していたことがある。
「ぼくは、そのサン。あ、ちがう。ダストの孫で、タシュの息子のサンです」
雲嵐は姿勢を正して、自己紹介をした。
光柳は首をかしげる。
(そうか。新杷国では、姓を使うんだ)
けれど雲嵐に姓はない。
「もしかして。サンって三のこと? あ、ちがってたら、ごめんね」
怖々と言った様子で、光柳が問いかけてくる。
声の小ささも、初対面の同年代の子供におびえた様子も。どちらも仕えるべき主の気の弱さが見てとれる。
「あっています。兄がイーで姉がアー、ぼくがサン、弟がスーです」
「数字だ! なんで?」
光柳の声が弾んだ。
なんでって。生まれた順番に、この国の数字を当てはめただけだよ。とは言えなかった。
ほんとうは「サン」と名乗るのが恥ずかしかった。
一族の子たちは、ちゃんとした意味のある名前をつけてもらっているのに。
光柳は、名前が数字であることに意味を見出そうとしているのだろう。しきりに「なんで?」と問いかけてくる。
「おじいさんのダストは友情って意味で。お父さんのタシュは石って意味だけど。新杷国での暮らしには、この国の言葉を使った方がいいからって。父さんがつけたらしい……です」
「すごいね。ぼくはおじいさんもお父さんも、名前を知らないよ」
「それは……」
どう答えていいのか、雲嵐はとまどった。
光柳は「座って」と、自分の隣の場所をぱしぱしと手で叩いた。
側に控えていた侍女が、急いで軟墊を持ってくる。
ふかふかの軟墊だった。
いつも地面だったり、床だったりに座っていた。宦官になってからも、硬い椅子にしか座ったことがない。
「なんか、背中が沈みます」
「やわらかいよね」
にっこりと光柳が微笑む。そして座った雲嵐に、にじりよった。
「あのね。ぼくが名前を付けてもいい?」
「構いませんけど」
親からもらった名前とはいえ、どうせ「三」なのだ。
大事にしたいほどの思い入れもない。
「じゃあねー。雲嵐」
「どういう意味ですか?」
光柳は、敷物の上で指を走らせる。雲嵐は、読み書きは少しは習ったけれど。何を書いているのか読み取れない。
「大雨が降る前の雲だよ」
いやがらせをされているのかな? 温厚な雲嵐も、さすがに眉をひそめた。
けれど、光柳の目はきらきらしている。
「かっこいいでしょ。ここね、南で海が近いから。嵐の前にすっごい雲がもくもくってなるんだ。ぼくの名前は女の子みたいな字だから。ほんとは、ぼくが自分につけたかったんだけど。君にあげるね」
光柳はまくし立てた。
ちゃんと話を聞いてよかった。思い込みで、腹を立てずに済んだ。
主となる少年にとっては、とびっきりの上等な名前だったのだ。
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