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三章 湯泉宮と雲嵐の過去
4、出立
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出発の頃には、すでに霧は晴れていた。
「あらぁ。宵柳さま。しばらく翠鈴をよろしくお願いしますね」
翠鈴と光柳の見送りに、なぜか蘭淑妃が現れた。
事前に話を聞いていたのだろう。女装した光柳を宵柳と呼んでいる。
侍女たちは困惑したような表情を浮かべている。
それはそうだろう。
どこの誰とも知らぬ美女官が、司燈の宮女を連れていくのだから。
(あちらは、どなた?)
(淑妃さまと親しいようだから、上級女官?)
(でも、お見かけしない方よね)
侍女たちは目と目で問いかけている。そして誰も正解を知らない。
正体がばれないのが楽しいのか、光柳が「ほほほ」と、とってつけたように笑う。
南の離宮に向かう女官というのが、名目だ。
「宵柳。くれぐれも翠鈴をよろしく頼みますよ」
「言われずとも……いえ、淑妃さまの御心配には及びません」
なぜか蘭淑妃と光柳は睨みあっている。
バチバチとかわす視線が音を立てそうだ。
大人の事情など関係のない桃莉公主が、翠鈴の腰の辺りにしがみついている。
「ツイリン。タオリィも、いっしょにおでかけしたーい」
「本当ですね。わたしも桃莉さまとお出かけしとうございます」
その方が、よっぽど楽しい。
「由由。しばらく仕事をお願いね。大変だけど大丈夫?」
「平気よ。まかせて。それに手伝ってくれる人もいるから」
由由に話しかけると、桃莉公主は翠鈴の後ろに隠れてしまった。
「タオリィもひとりでもだいじょうぶだよ」
「そうですね。桃莉さまはお強いですからね」
だいじょうぶと言いながらも、桃莉公主は翠鈴の服の裾を掴んでいる。
(出かけたくないなぁ)
そう思えるほどに、自分は未央宮になじんでいるのだろう。
翠鈴が乗ったことのあるのは荷馬車だ。しかも収穫した麦や綿花を積んだ荷台に乗せたもらった程度でしかない。
移動は徒歩か舟が多い。
人が乗る部分の艙は、陛下や皇后や妃が乗るものは、金銀の細工や漆で華やかな絵が描かれているが。
光柳の馬車は飾り気のない素朴なものだった。
「翠鈴。今日はおとなしいな」
「さすがに緊張します」
「そうかな? ふつうの馬車だぞ?」
光柳は、雲嵐と顔を見あわせた。
三人で並んで座れるほどには、艙の中は広くはない。雲嵐は、光柳の向かいの席に座っている。翠鈴は光柳の隣だ。
開いた窗の外では、城市の景色が流れていく。
杷京に住んで一年になるのに。翠鈴は、城市の様子をほとんど知らない。
後宮とは違い、どの家も屋根が低い。通りを歩く人は、服の色彩も少ない。
侍女や女官が、いかに立派な衣裳をまとっているのかが、よくわかる。
「荷馬車ほど揺れないんですね」
「それはそうだろう。というか、積み荷と一緒に乗るのか」
「収穫後の麦とか、綿花の入った袋と一緒に、です。光柳さまは、経験がおありではないでしょうね」
「そうだな」と、光柳はうなずいた。
「翠鈴。そなたと出会ってから、私は知らないことが多いことに気づいた」
まだ女装のままだからだろうか。
今日の光柳は、いつもと感じが違う。
冬枯れと、寒風が吹いているせいもあって、街の景色は薄い灰色の幕をかけたように見える。
隣に座る光柳だけが、まるで光を宿しているかのように思えた。
翡翠のように、しっとりとした濡れた光だ。
なにがこの人に光を与えているのだろう。
司燈として働いている翠鈴は知っている。いくら油があろうとも、種火がなければ火は燃えないことを。
品よく育っても、心が満たされていなければ上品さは醸し出せない。
詩かな? 麟美の代理の。
けれど、光柳自身は切ない恋の詩よりも、雄大な自然を詠みたいと語っていたことがある。
「ん? どうした」
翠鈴の視線に気づいたのか、光柳が問いかけてくる。
「いえ。なんでもありません」
「私のことを見ていたではないか」
追求されて、翠鈴は「いえ、その」と口ごもってしまった。
先日、光柳に言われた言葉が今も気になっている。
ふだんの彼ならば、翠鈴のことを「射殺しそうな目だ」と言うのに。
あの時は「射貫かれそうな目だ」と告げた。
射貫いても、殺すのと変わりないんじゃないかな?
あれは、どういう意味だったんだろう。
目の前にいる本人に尋ねればいいのに。
どうしても口にすることができない。
(おかしいな。光柳さまが女性の姿をしているからかな。いや、単に後宮から出たからかな)
翠鈴の頭の中で、考えがぐるぐると渦巻いていた。
「あらぁ。宵柳さま。しばらく翠鈴をよろしくお願いしますね」
翠鈴と光柳の見送りに、なぜか蘭淑妃が現れた。
事前に話を聞いていたのだろう。女装した光柳を宵柳と呼んでいる。
侍女たちは困惑したような表情を浮かべている。
それはそうだろう。
どこの誰とも知らぬ美女官が、司燈の宮女を連れていくのだから。
(あちらは、どなた?)
(淑妃さまと親しいようだから、上級女官?)
(でも、お見かけしない方よね)
侍女たちは目と目で問いかけている。そして誰も正解を知らない。
正体がばれないのが楽しいのか、光柳が「ほほほ」と、とってつけたように笑う。
南の離宮に向かう女官というのが、名目だ。
「宵柳。くれぐれも翠鈴をよろしく頼みますよ」
「言われずとも……いえ、淑妃さまの御心配には及びません」
なぜか蘭淑妃と光柳は睨みあっている。
バチバチとかわす視線が音を立てそうだ。
大人の事情など関係のない桃莉公主が、翠鈴の腰の辺りにしがみついている。
「ツイリン。タオリィも、いっしょにおでかけしたーい」
「本当ですね。わたしも桃莉さまとお出かけしとうございます」
その方が、よっぽど楽しい。
「由由。しばらく仕事をお願いね。大変だけど大丈夫?」
「平気よ。まかせて。それに手伝ってくれる人もいるから」
由由に話しかけると、桃莉公主は翠鈴の後ろに隠れてしまった。
「タオリィもひとりでもだいじょうぶだよ」
「そうですね。桃莉さまはお強いですからね」
だいじょうぶと言いながらも、桃莉公主は翠鈴の服の裾を掴んでいる。
(出かけたくないなぁ)
そう思えるほどに、自分は未央宮になじんでいるのだろう。
翠鈴が乗ったことのあるのは荷馬車だ。しかも収穫した麦や綿花を積んだ荷台に乗せたもらった程度でしかない。
移動は徒歩か舟が多い。
人が乗る部分の艙は、陛下や皇后や妃が乗るものは、金銀の細工や漆で華やかな絵が描かれているが。
光柳の馬車は飾り気のない素朴なものだった。
「翠鈴。今日はおとなしいな」
「さすがに緊張します」
「そうかな? ふつうの馬車だぞ?」
光柳は、雲嵐と顔を見あわせた。
三人で並んで座れるほどには、艙の中は広くはない。雲嵐は、光柳の向かいの席に座っている。翠鈴は光柳の隣だ。
開いた窗の外では、城市の景色が流れていく。
杷京に住んで一年になるのに。翠鈴は、城市の様子をほとんど知らない。
後宮とは違い、どの家も屋根が低い。通りを歩く人は、服の色彩も少ない。
侍女や女官が、いかに立派な衣裳をまとっているのかが、よくわかる。
「荷馬車ほど揺れないんですね」
「それはそうだろう。というか、積み荷と一緒に乗るのか」
「収穫後の麦とか、綿花の入った袋と一緒に、です。光柳さまは、経験がおありではないでしょうね」
「そうだな」と、光柳はうなずいた。
「翠鈴。そなたと出会ってから、私は知らないことが多いことに気づいた」
まだ女装のままだからだろうか。
今日の光柳は、いつもと感じが違う。
冬枯れと、寒風が吹いているせいもあって、街の景色は薄い灰色の幕をかけたように見える。
隣に座る光柳だけが、まるで光を宿しているかのように思えた。
翡翠のように、しっとりとした濡れた光だ。
なにがこの人に光を与えているのだろう。
司燈として働いている翠鈴は知っている。いくら油があろうとも、種火がなければ火は燃えないことを。
品よく育っても、心が満たされていなければ上品さは醸し出せない。
詩かな? 麟美の代理の。
けれど、光柳自身は切ない恋の詩よりも、雄大な自然を詠みたいと語っていたことがある。
「ん? どうした」
翠鈴の視線に気づいたのか、光柳が問いかけてくる。
「いえ。なんでもありません」
「私のことを見ていたではないか」
追求されて、翠鈴は「いえ、その」と口ごもってしまった。
先日、光柳に言われた言葉が今も気になっている。
ふだんの彼ならば、翠鈴のことを「射殺しそうな目だ」と言うのに。
あの時は「射貫かれそうな目だ」と告げた。
射貫いても、殺すのと変わりないんじゃないかな?
あれは、どういう意味だったんだろう。
目の前にいる本人に尋ねればいいのに。
どうしても口にすることができない。
(おかしいな。光柳さまが女性の姿をしているからかな。いや、単に後宮から出たからかな)
翠鈴の頭の中で、考えがぐるぐると渦巻いていた。
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