後宮の隠れ薬師は、ため息をつく~花果根茎に毒は有り~

絹乃

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二章 麟美の偽者

26、もう孤独ではありませんよ

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「わたしももう失礼させていただきます」

 翠鈴が椅子から立ち上がろうとしたとき。光柳に手首をつかまれた。

「……もう少し」

 光柳の声に力はなかった。

「しょうがありませんね」

 翠鈴は光柳の側に立った。

 椅子を動かすには重すぎる。以前、食堂で由由が椅子ごと移動していたけれど。
 あれは簡素で軽い椅子だから、できたことだ。
 この部屋の調度品は、どれも細工が凝っている。

「光柳さまは、かなりの甘えん坊でいらっしゃいますね」
「悪いか?」

 座った状態の光柳が、拗ねたような顔で翠鈴を見上げる。

「悪いかどうかとは、申しておりません。事実を述べたまでです」
「君は、私には手心を加えないのだな」

 光柳は口を尖らせるが。もう声は弱々しくはなかった。

 彼の手の甲に、翠鈴はそっと手を重ねる。
 ひんやりとした体温が、てのひらに伝わってきた。

 一瞬、光柳の手に緊張が走ったのが分かる。
 それでも、すぐに彼は手の力を抜いた。

「大丈夫ですよ。光柳さまが心配なさらずとも、雨桐さまは大人でいらっしゃいます」
「私が『阿雨アーユィ』と呼んでも、彼女は恥ずかしがることもなかった」

「嬉しさが勝ったのでしょうね」

 きっと光柳には想像もできないのだろう。
 一度は外に出てしまった幼い子が、戻ってきてもなお自分との思い出を覚えていてくれる。その喜びを。

 雨桐にとって光柳に絵を描いてあげたことは、水晶の粒のようにきらきらと煌めいた記憶に違いない。
 だからこそ、雨桐は桃莉公主にも絵を描いてあげた。

「雨桐さまのことを、心配なさっているのですね。光柳さまは、本当はお優しいですね」
「……君は嫌いだ」

 ぽつりと光柳が呟いた。
 夕暮れの柔らかな橙色に溶けてしまいそうな、小さな声だ。

「私の心まで読んでしまうのだから」

 翠鈴が、書令史の部屋を出ていこうとしたとき。
 上衣の裾が引っぱられた。

「またですか?」
「またです」

 光柳がそっぽを向いた状態で、翠鈴の服をつまんでいた。
 どうしてこの人は、こうも子供っぽいのだろう。
 翠鈴は肩をすくめた。

(でも、しょうがないのかもしれない。本当の身分も麟美の代理であることも隠して、ずっと暮らしているのだから)

 きっと光柳は気づいていない。
 自分が孤独であったことに。

 翠鈴と出会ったことで、ようやく光柳は自分が寂しい子供で会ったことを認識したのだろう。

「光柳さま。翠鈴はそろそろ仕事の時間です。あまりお引き留めになっては……」

 さすがに見かねたのだろう。雲嵐が声をかけてくれた。
 綿繭の紙を貼った窗から射す光は、すでに弱くなっている。格子の影もおぼろげで、にじんで見えた。

「そうだな。分かっている」

 だが、光柳は手を離さない。

「理解はしているのだが。手が『イヤ』だと言っている」

 困った人だ。
 雲嵐も、そんな主の姿は初めて見るのだろう。啞然と口を開いた。

「しょうがありませんね」

 翠鈴は、光柳の頭に手を置いた。
 そっと撫でてあげる。

 大丈夫、あなたはもう孤独ではありませんよ、と心を込めて。
 だが。光柳は顔をまっ赤にした。耳もだ。覗き見れば、首まで赤い。

(え? なんで? 急に発熱?)

 珍しく翠鈴はおろおろした。光柳もだ。

「あの、翠鈴。故郷では大人が大人の頭を撫でるのを、目にしたことがありますか? その異性で」

 見るに見かねたのだろう。雲嵐が声をかけてきた。

「ない。見たこと、ない」

 あまりにも驚きすぎて、翠鈴の言葉はたどたどしい。
 もはや片言だ。

「大人になってから、頭を撫でられたことは?」
「ない。一度も、ない」

 医官の胡玲フーリンの頭を撫でたことはあるが。撫でられたことはない。
 しかも胡玲に関しては、子供の頃からのクセだから。

(はっ。もしかして子供扱いしてしまったから。光柳さまは怒ってしまった?)

 浅慮だった。浅はかだった。
 どうすれば大人の男性が喜ぶかなんて、これまで培った知識にはない。

 雲嵐が、すすっと横歩きで翠鈴に近づく。そして耳もとに口を寄せた。

「ご存じないようですが。大人が異性から頭を撫でられるのは、接吻されるのと似たようなものなのです」
「せっ!」

 翠鈴の声が裏返った。

「接吻の説明をいたしましょうか」
「いたしてくださらなくて、結構ですっ!」

 明らかに雲嵐は、翠鈴をからかっている。

 けれど、雲嵐の目が笑っていることに翠鈴は気づかない。焦って動揺してしまっているからだ。
 光柳と言えば、両手で顔を覆ってうつむいてしまっている。
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