47 / 184
二章 麟美の偽者
24、待っています
しおりを挟む
光柳は宋雨桐を見て「阿雨」と呟いた。
「雨ちゃん」というほどの、親しい間柄の呼び名だ。しかも年長者から、年下の者への。
面識もなく、二十歳以上も年下の光柳が使う呼称ではない。
「はい……。阿雨でございますよ。光柳さま」
応じる雨桐の声は、かすれていた。
つぶらな瞳が、みるみる濡れていく。白髪交じりの髪が、窗からの陽ざしを受けてきらきらと輝いた。
「おひさしゅうございます」
雨桐は、小さく咳きこんだ。
最初に会った時から、日が経っているのに。風邪にしては長すぎではないか? 翠鈴は目を細める。
「失礼ですが。麟美さまが『阿雨』とお呼びになっていらしたんですね」
「はい。麟美さまは、私の先輩でいらしたので。かわいがっていただきました。幼い光柳さまも、私の描く絵を喜んでくださいました。紙ではなく、地面に枝で描いたものですが」
翠鈴の問いに、雨桐は答えた。
子供だった光柳は、目をキラキラと輝かせて土の上に記される犬の絵を見つめていたのだろう。
椅子に座り、お茶を勧められた雨桐は「もったいないことです」と頭を下げる。
碗に添えた指が震えている。
(なるほど。確かにこの指では、文字も絵も上手には書けないだろうな)
光柳が、雨桐に事情を説明する。
宇軒が、刑部の管理下にあることも。
「どうしても信じられません。なにかの間違いとしか思えません」
膝の上でそろえた小さな手を、雨桐は震わせている。
「宇軒は、あの子は優しい子でした。私が自分の詩を雑に扱うものですから。大事にしなさい、できないのなら自分が預かると言って管理してくれたんです」
「管理ですか」
差し出がましいかとも思ったが。翠鈴は問いかけた。
「はい。紙魚に食われぬように虫干しもしてくれていたようです。ほんとうに優しい子で。私のことを詩の才があると、事あるごとに褒めてくれるんです。おだてられると嬉しいものですね。私は以前にもまして、どんどん詩を詠むようになりました」
雨桐の表情が曇る。
彼女にとっての宇軒は親切な青年だ。だからこそ、彼が陛下に対して不敬を働いたことも、投獄されたことも納得できないのだろう。
「先日、甘露宮の侍女が私の古い詩を買ったようでしたが。あんなものは捨て売りの値段ですから。宇軒が渡してくれた売り上げも、銅貨一枚でしたよ」
光柳と翠鈴は顔を見あわせた。
それはちがう。あなたの詩は法外な高値をつけられていた。宇軒は、売り上げの九割九分以上を着服していた。
その言葉を、ふたりして飲み込む。
(たしかに宇軒にとって、雨桐は麟美だ。いくらでも詩を生み出してくれる。麟美という銘さえあれば、偽物であっても人は金子を惜しまない)
だからこそ、宇軒は雨桐を讃えた。お世辞を言い続ける間に、自分でも雨桐こそが最高の詩人であると錯覚したのだろう。
質がいいか悪いかではない。宇軒の考えでは、お金になる詩がよい詩なのだ。
――雨桐さま。あなたは騙されています。
そう言えれば、どんなにか楽だろう。
けれど雨桐にとって、宇軒はたったひとりの理解者だ。
――あの男は詐欺を働いています。あなたを金づるとしてしか見ていません。
その事実を伝えれば、雨桐はさらに傷ついてしまう。
正しさは、時に毒となる。嘘の方が薬になる場合もあるのだ。
「誰が私の詩に、毒を塗ったのやら。光柳さま。宇軒はいつ釈放されますか?」
雨桐は問うた。
「観月の宴に乱入した件は、軽々しく許せるものではない。大理寺の調査を受けて、刑部はそう判断したのだろう」
ぬるくなってしまった透天香のお茶を、光柳は飲み干した。
雨桐を見る目が、つらそうに歪んでいる。
いま彼が飲みたいのは、お茶ではなく酒だろう。
宇軒が光柳に用いた毒は、命までは奪わない。
けれど。光柳はまぎれもなく帝の血縁だ。それは帝に、この王朝に仇なすことに他ならない。
いずれ宇軒に処罰が下る。
光柳の血筋は公表はされていない。ならば、処刑まではされない可能性がある。重くて流刑か、軽ければ鞭打ち。
ただ鞭といっても用いられるの竹や棒だ。重犯罪ともなれば、鞭打つ回数に制限はなく、命を落とす者もいる。
もう宇軒は戻ってはこないだろう。
翠鈴も光柳も、宇軒の未来が想像できる。
だから口にではできない。
室内の空気が重く澱んだ気がした。
「大丈夫ですよ」
妙に軽やかな声が聞こえた。
「私は宇軒が釈放される日を待っていますよ。待つのは得意なんです」
雨桐は微笑んだ。湿った咳をしながら。
「雨ちゃん」というほどの、親しい間柄の呼び名だ。しかも年長者から、年下の者への。
面識もなく、二十歳以上も年下の光柳が使う呼称ではない。
「はい……。阿雨でございますよ。光柳さま」
応じる雨桐の声は、かすれていた。
つぶらな瞳が、みるみる濡れていく。白髪交じりの髪が、窗からの陽ざしを受けてきらきらと輝いた。
「おひさしゅうございます」
雨桐は、小さく咳きこんだ。
最初に会った時から、日が経っているのに。風邪にしては長すぎではないか? 翠鈴は目を細める。
「失礼ですが。麟美さまが『阿雨』とお呼びになっていらしたんですね」
「はい。麟美さまは、私の先輩でいらしたので。かわいがっていただきました。幼い光柳さまも、私の描く絵を喜んでくださいました。紙ではなく、地面に枝で描いたものですが」
翠鈴の問いに、雨桐は答えた。
子供だった光柳は、目をキラキラと輝かせて土の上に記される犬の絵を見つめていたのだろう。
椅子に座り、お茶を勧められた雨桐は「もったいないことです」と頭を下げる。
碗に添えた指が震えている。
(なるほど。確かにこの指では、文字も絵も上手には書けないだろうな)
光柳が、雨桐に事情を説明する。
宇軒が、刑部の管理下にあることも。
「どうしても信じられません。なにかの間違いとしか思えません」
膝の上でそろえた小さな手を、雨桐は震わせている。
「宇軒は、あの子は優しい子でした。私が自分の詩を雑に扱うものですから。大事にしなさい、できないのなら自分が預かると言って管理してくれたんです」
「管理ですか」
差し出がましいかとも思ったが。翠鈴は問いかけた。
「はい。紙魚に食われぬように虫干しもしてくれていたようです。ほんとうに優しい子で。私のことを詩の才があると、事あるごとに褒めてくれるんです。おだてられると嬉しいものですね。私は以前にもまして、どんどん詩を詠むようになりました」
雨桐の表情が曇る。
彼女にとっての宇軒は親切な青年だ。だからこそ、彼が陛下に対して不敬を働いたことも、投獄されたことも納得できないのだろう。
「先日、甘露宮の侍女が私の古い詩を買ったようでしたが。あんなものは捨て売りの値段ですから。宇軒が渡してくれた売り上げも、銅貨一枚でしたよ」
光柳と翠鈴は顔を見あわせた。
それはちがう。あなたの詩は法外な高値をつけられていた。宇軒は、売り上げの九割九分以上を着服していた。
その言葉を、ふたりして飲み込む。
(たしかに宇軒にとって、雨桐は麟美だ。いくらでも詩を生み出してくれる。麟美という銘さえあれば、偽物であっても人は金子を惜しまない)
だからこそ、宇軒は雨桐を讃えた。お世辞を言い続ける間に、自分でも雨桐こそが最高の詩人であると錯覚したのだろう。
質がいいか悪いかではない。宇軒の考えでは、お金になる詩がよい詩なのだ。
――雨桐さま。あなたは騙されています。
そう言えれば、どんなにか楽だろう。
けれど雨桐にとって、宇軒はたったひとりの理解者だ。
――あの男は詐欺を働いています。あなたを金づるとしてしか見ていません。
その事実を伝えれば、雨桐はさらに傷ついてしまう。
正しさは、時に毒となる。嘘の方が薬になる場合もあるのだ。
「誰が私の詩に、毒を塗ったのやら。光柳さま。宇軒はいつ釈放されますか?」
雨桐は問うた。
「観月の宴に乱入した件は、軽々しく許せるものではない。大理寺の調査を受けて、刑部はそう判断したのだろう」
ぬるくなってしまった透天香のお茶を、光柳は飲み干した。
雨桐を見る目が、つらそうに歪んでいる。
いま彼が飲みたいのは、お茶ではなく酒だろう。
宇軒が光柳に用いた毒は、命までは奪わない。
けれど。光柳はまぎれもなく帝の血縁だ。それは帝に、この王朝に仇なすことに他ならない。
いずれ宇軒に処罰が下る。
光柳の血筋は公表はされていない。ならば、処刑まではされない可能性がある。重くて流刑か、軽ければ鞭打ち。
ただ鞭といっても用いられるの竹や棒だ。重犯罪ともなれば、鞭打つ回数に制限はなく、命を落とす者もいる。
もう宇軒は戻ってはこないだろう。
翠鈴も光柳も、宇軒の未来が想像できる。
だから口にではできない。
室内の空気が重く澱んだ気がした。
「大丈夫ですよ」
妙に軽やかな声が聞こえた。
「私は宇軒が釈放される日を待っていますよ。待つのは得意なんです」
雨桐は微笑んだ。湿った咳をしながら。
43
お気に入りに追加
732
あなたにおすすめの小説

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)


契約婚なのだから契約を守るべきでしたわ、旦那様。
よもぎ
恋愛
白い結婚を三年間。その他いくつかの決まり事。アンネリーナはその条件を呑み、三年を過ごした。そうして結婚が終わるその日になって三年振りに会った戸籍上の夫に離縁を切り出されたアンネリーナは言う。追加の慰謝料を頂きます――
お前など家族ではない!と叩き出されましたが、家族になってくれという奇特な騎士に拾われました
蒼衣翼
恋愛
アイメリアは今年十五歳になる少女だ。
家族に虐げられて召使いのように働かされて育ったアイメリアは、ある日突然、父親であった存在に「お前など家族ではない!」と追い出されてしまう。
アイメリアは養子であり、家族とは血の繋がりはなかったのだ。
閉じ込められたまま外を知らずに育ったアイメリアは窮地に陥るが、救ってくれた騎士の身の回りの世話をする仕事を得る。
養父母と義姉が自らの企みによって窮地に陥り、落ちぶれていく一方で、アイメリアはその秘められた才能を開花させ、救い主の騎士と心を通わせ、自らの居場所を作っていくのだった。
※小説家になろうさま・カクヨムさまにも掲載しています。

夫の隠し子を見付けたので、溺愛してみた。
辺野夏子
恋愛
セファイア王国王女アリエノールは八歳の時、王命を受けエメレット伯爵家に嫁いだ。それから十年、ずっと仮面夫婦のままだ。アリエノールは先天性の病のため、残りの寿命はあとわずか。日々を穏やかに過ごしているけれど、このままでは生きた証がないまま短い命を散らしてしまう。そんなある日、アリエノールの元に一人の子供が現れた。夫であるカシウスに生き写しな見た目の子供は「この家の子供になりにきた」と宣言する。これは夫の隠し子に間違いないと、アリエノールは継母としてその子を育てることにするのだが……堅物で不器用な夫と、余命わずかで卑屈になっていた妻がお互いの真実に気が付くまでの話。
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

愛人をつくればと夫に言われたので。
まめまめ
恋愛
"氷の宝石”と呼ばれる美しい侯爵家嫡男シルヴェスターに嫁いだメルヴィーナは3年間夫と寝室が別なことに悩んでいる。
初夜で彼女の背中の傷跡に触れた夫は、それ以降別室で寝ているのだ。
仮面夫婦として過ごす中、ついには夫の愛人が選んだ宝石を誕生日プレゼントに渡される始末。
傷つきながらも何とか気丈に振る舞う彼女に、シルヴェスターはとどめの一言を突き刺す。
「君も愛人をつくればいい。」
…ええ!もう分かりました!私だって愛人の一人や二人!
あなたのことなんてちっとも愛しておりません!
横暴で冷たい夫と結婚して以降散々な目に遭うメルヴィーナは素敵な愛人をゲットできるのか!?それとも…?なすれ違い恋愛小説です。
※感想欄では読者様がせっかく気を遣ってネタバレ抑えてくれているのに、作者がネタバレ返信しているので閲覧注意でお願いします…

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる