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二章 麟美の偽者
23、阿雨
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後日。丁宇軒は、投獄された。
「私は、雨桐さまこそが麟美の名を継ぐにふさわしいと思っている。それ以外は認めない」
そう宇軒は話したという。
宇軒は、麟美が月見の宴で詩を詠じることを知ったそうだ。
おそらくは、偽者をおびき出すために、光柳が噂を広めていたのだろう。
食えない人だ。
翠鈴はため息をついた。
「雨桐さまは毎日毎日、詩を詠み続けた。誰に読まれずとも、名を知られずとも。ただ麟美の子であるという理由だけで、あの宦官が贔屓されていいはずがない。詩は芸術だ。あんなのはただの模倣だ」
宇軒の言葉には熱がこもっていたという。
だが、彼は知らない。
そのままそっくり写しとる模写ではなく、模倣がどれほど大変であるかを。
麟美の感性を美意識を、心の機微を、常に考えねばならない。
自分の感じたことの上に、麟美の感性を重ねなければならない。
それはまさに修行だ。
雨桐は、そんな宇軒の言葉を伝え聞いて涙したという。
「変わった関係でしたね」
「雨桐と宇軒のことか?」
今日もまた、翠鈴は光柳の部屋に呼びつけられた。
「宇軒は、雨桐のひたむきさに心打たれたのかもしれないな」
窗ぎわに置かれた卓の、向かいあわせの椅子に光柳と翠鈴は座っている。
窗の格子が、紫檀の卓の上に四角い影を落とす。だがすぐに深い紫檀の色にまぎれてしまった。
「偽の詩を売っていた雨桐さまは、お咎めなしですか?」
「売っていたのも宇軒だ。宋雨桐の部屋に、詩を書いた紙が山のように積んであったらしい。それを売り飛ばして、家族への仕送りに充てていたそうだ」
なるほど。翠鈴は納得した。
だから、宇軒には罪悪感がなかったのだ。
雨桐に光を当ててやりたい。雨桐が生み出す詩は、彼女にとっては放置したゴミと同じだが。金にはなる。
雨桐本人の名前では、とうてい売れなくとも。銘を偽るだけで、紙クズは高級品に化ける。
どうせ侍女や女官には、詩の違いなど分からない。宇軒はそう考えたのだろう。
(他人を舐めすぎだわ)
詩を売って得た金子も、自分で使いこむのではなく家族へ送る。故郷の家族は、むろん宇軒に感謝する。
善意に親切。厚意に思いやり。
それらで覆われてしまえば、罪の意識など生まれない。
光柳と翠鈴に、雲嵐が茶を淹れてくれた。
翠鈴は礼を述べて、澄んだお茶を口に含む。
「おいしい……」
満足な息が洩れてしまう。
遠くから桂花の香りがする。銀木犀よりも香りが高い。金木犀だろうか。
ほの甘くて、けれど後を引く甘さではない。味に品がある。
「銀木犀の花茶、ではないですよね」
「ふっ。気づいたか」
なぜか光柳が、得意げにあごを上げる。ちょっと感じが悪い。
「これは透天香という貴重な茶葉を使っている」
「天にも届く香り、ですか」
「そうだ。金木犀の香りに似ているので、黄金桂ともいう。ここに来れば、いつでも淹れよう」
さらに光柳は、したり顔をする。
淹れるのは雲嵐だけど。
「これはまず洗茶をしてから淹れるといいんですよ。お湯ですすぐことで、より香りが高くなります」
雲嵐の説明からも、とても丁寧に淹れられていることがわかる。
翠鈴は大事に透天香を飲んだ。
ひとくち。
お茶が、喉をすべり落ちていく。
まろやかで、柔らかくて。
瞼を閉じて、余韻を楽しむ。吐く息すらも芳醇だ。
天井がなければ、ほんとうに天までも届く香りだろう。
ふと見れば、碗がもうひとつ用意されている。誰か来るのだろうか。
「ああ、これか。客というほどでもないが。宋雨桐を呼んでいる」
光柳は、扉へ目を向けた。
ちょうど外から「失礼いたします」との声が聞こえた。
ゆっくりと中に入ってきたのは、雨桐だ。
ガタッ、と音がした。
光柳が椅子から立ち上がったのだ。
目を見開いて、呆然と雨桐を見つめている。その瞳が揺らいでみえた。
「阿雨」
思わずといった風に、光柳の口から言葉が溢れた。溢れてこぼれ落ちた。
「私は、雨桐さまこそが麟美の名を継ぐにふさわしいと思っている。それ以外は認めない」
そう宇軒は話したという。
宇軒は、麟美が月見の宴で詩を詠じることを知ったそうだ。
おそらくは、偽者をおびき出すために、光柳が噂を広めていたのだろう。
食えない人だ。
翠鈴はため息をついた。
「雨桐さまは毎日毎日、詩を詠み続けた。誰に読まれずとも、名を知られずとも。ただ麟美の子であるという理由だけで、あの宦官が贔屓されていいはずがない。詩は芸術だ。あんなのはただの模倣だ」
宇軒の言葉には熱がこもっていたという。
だが、彼は知らない。
そのままそっくり写しとる模写ではなく、模倣がどれほど大変であるかを。
麟美の感性を美意識を、心の機微を、常に考えねばならない。
自分の感じたことの上に、麟美の感性を重ねなければならない。
それはまさに修行だ。
雨桐は、そんな宇軒の言葉を伝え聞いて涙したという。
「変わった関係でしたね」
「雨桐と宇軒のことか?」
今日もまた、翠鈴は光柳の部屋に呼びつけられた。
「宇軒は、雨桐のひたむきさに心打たれたのかもしれないな」
窗ぎわに置かれた卓の、向かいあわせの椅子に光柳と翠鈴は座っている。
窗の格子が、紫檀の卓の上に四角い影を落とす。だがすぐに深い紫檀の色にまぎれてしまった。
「偽の詩を売っていた雨桐さまは、お咎めなしですか?」
「売っていたのも宇軒だ。宋雨桐の部屋に、詩を書いた紙が山のように積んであったらしい。それを売り飛ばして、家族への仕送りに充てていたそうだ」
なるほど。翠鈴は納得した。
だから、宇軒には罪悪感がなかったのだ。
雨桐に光を当ててやりたい。雨桐が生み出す詩は、彼女にとっては放置したゴミと同じだが。金にはなる。
雨桐本人の名前では、とうてい売れなくとも。銘を偽るだけで、紙クズは高級品に化ける。
どうせ侍女や女官には、詩の違いなど分からない。宇軒はそう考えたのだろう。
(他人を舐めすぎだわ)
詩を売って得た金子も、自分で使いこむのではなく家族へ送る。故郷の家族は、むろん宇軒に感謝する。
善意に親切。厚意に思いやり。
それらで覆われてしまえば、罪の意識など生まれない。
光柳と翠鈴に、雲嵐が茶を淹れてくれた。
翠鈴は礼を述べて、澄んだお茶を口に含む。
「おいしい……」
満足な息が洩れてしまう。
遠くから桂花の香りがする。銀木犀よりも香りが高い。金木犀だろうか。
ほの甘くて、けれど後を引く甘さではない。味に品がある。
「銀木犀の花茶、ではないですよね」
「ふっ。気づいたか」
なぜか光柳が、得意げにあごを上げる。ちょっと感じが悪い。
「これは透天香という貴重な茶葉を使っている」
「天にも届く香り、ですか」
「そうだ。金木犀の香りに似ているので、黄金桂ともいう。ここに来れば、いつでも淹れよう」
さらに光柳は、したり顔をする。
淹れるのは雲嵐だけど。
「これはまず洗茶をしてから淹れるといいんですよ。お湯ですすぐことで、より香りが高くなります」
雲嵐の説明からも、とても丁寧に淹れられていることがわかる。
翠鈴は大事に透天香を飲んだ。
ひとくち。
お茶が、喉をすべり落ちていく。
まろやかで、柔らかくて。
瞼を閉じて、余韻を楽しむ。吐く息すらも芳醇だ。
天井がなければ、ほんとうに天までも届く香りだろう。
ふと見れば、碗がもうひとつ用意されている。誰か来るのだろうか。
「ああ、これか。客というほどでもないが。宋雨桐を呼んでいる」
光柳は、扉へ目を向けた。
ちょうど外から「失礼いたします」との声が聞こえた。
ゆっくりと中に入ってきたのは、雨桐だ。
ガタッ、と音がした。
光柳が椅子から立ち上がったのだ。
目を見開いて、呆然と雨桐を見つめている。その瞳が揺らいでみえた。
「阿雨」
思わずといった風に、光柳の口から言葉が溢れた。溢れてこぼれ落ちた。
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