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二章 麟美の偽者
20、優しさで成り立つ嘘
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「やぁ」と右手を上げながら、光柳が部屋に入って来た。背後には雲嵐が控えている。
昨夜。あれほど派手に二階から跳んだのに。月光だけを頼りに馬を駆けさせたのに。
雲嵐は、今日も静かなたたずまいだ。
光柳は椅子に腰を下ろした。
蘭淑妃と翠鈴が、机を挟んで対面する席。光柳は翠鈴の隣の椅子に座っている。
「早速本題に入りたい。結局、偽者は捕まえられなかった」
「はぁ」
ああ、せっかくのお茶の時間が。香檳茶は、ゆっくりと落ち着いて楽しみたいのに。
桃莉公主は、新たな客から逃げるように翠鈴の陰に隠れる。
「大丈夫ですよ」
「そうよ。桃莉。ご挨拶をしましょうね」
翠鈴と母親の淑妃にうながされて、桃莉公主はおずおずと前に出た。t小さく頭を下げて「こんにちは」と、光柳に挨拶をする。
「あの人見知りの桃莉が」
「ちゃんとご挨拶できましたね」
我が子の成長に、蘭淑妃が感極まったように声を震わせる。つられて翠鈴も感動した。
「陸翠鈴。昨夜の偽者のことだが。砂の上に残った足跡は、確かに女性の大きさではなかった。宦官で間違いなさそうだ」
「そうですね。彼がまとっていた衣裳は、甘露宮の侍女のものですよ」
「なぜ分かる?」
茶を注がれた碗を、光柳は手に取った。
熱くはないかと、少し口につけてからゆっくりと飲む。
さすがに一気飲みはしない。学習したようだ。
「甘露宮の陳燕が、衣裳が盗まれたと騒いでいたことがありました」
「陳家の娘か。確か三大商家だな」
「見せびらかすためなのか知りませんが。勤め先に、大事な物を持ってきてはいけませんね」
翠鈴の言葉に、光柳がうなずいた。
難しい話が始まってしまったので、桃莉公主は淑妃の膝にのった。
どうやら眠くなってしまったようだ。
蘭淑妃は、膝に座った娘の背を撫でている。
「なぜ宦官が陳家の娘を狙う? 他にも良家の娘はいるぞ」
光柳は声をひそめた。
侍女がいるからというよりも、桃莉公主が眠ってしまったからのようだ。
知り得た情報を外に流すような口の軽い侍女を、蘭淑妃は雇わないのだろう。
言葉はきついのだが、光柳は意外と優しい。
「陳燕は、偽の麟美から詩を買いましたからね。詩は相当な高値のはずです。それを簡単に手に入れたので、犯人に目をつけられたのでしょう」
「なるほど。確かに宦官が女物の服を仕立てるのは難しい」
「服は盗めるでしょう。ですがいくら華奢でも、女物の沓は履けません」
しかも陳燕は、踵の高い花盆沓を好んでいた。
足の大きさが合うはずもないけれど。万が一、履けたと仮定して。慣れていなければ、花盆沓では歩くどころか足を踏みだしただけで転んでしまうだろう。
「光柳さまの詩に、毒をしみこませていたのも件の宦官ですよ」
革の手覆越しだったとはいえ、毒に触れたことを思いだしたのだろう。
光柳は眉をひそめた。
「陳燕が買った偽の詩に毒を塗ったのも。光柳さまの毒も。どちらもあの宦官のしたことです」
「何のために?」
問われた翠鈴は、指を二本立てた。
「陳燕に対しては、噂が広まるように。麟美の詩に毒、となれば嫌でも目立ちます。光柳さまに対しては、警告です」
本物の麟美がもういないことなど、誰もが気づいてはいることだ。
それでも人は夢を見たい。いつも後宮にいて、自分たちの気持ちを代弁する詩を詠んでくれる人がいると。
甘くて切なくて。
誰もが、心に浮かんだ淡い気持ちを言葉にできるわけではない。
――大丈夫。あなたの気持ちは分かっているわ。つらかったわね、切なかったわね。
そんな風に、麟美の詩は後宮の女性たちに寄り添ってくれる。
優しさで成り立つ嘘の世界。
それが麟美の詩だ。
代々の妃嬪も侍女も女官も宮女も。嘘と知りながら、優しく儚い言葉のつらなりを大事にしている。
麟美の詩を朗じれば、穏やかに眠れる。空の果てにいる大事な人に、思いをはせることができる。
それなのに。
繊細な美を解さない愚か者が現れた。「それは嘘だ。騙されるな」と正義を振りかざして乱入してきた。
「正しいことがすべてなんて、余計なおせっかいよ」
翠鈴の吐きだした言葉は、苦々しい。
「では、偽の麟美は単に正義感から無謀な行動に出たと?」
光柳はあごに手をあてて考え込んでいる。
納得できない、という風に。
すでにお茶は冷めて、湯気も立たない。
「いえ」
翠鈴はまっすぐに光柳を見据えた。
「偽の麟美はふたりいます」
昨夜。あれほど派手に二階から跳んだのに。月光だけを頼りに馬を駆けさせたのに。
雲嵐は、今日も静かなたたずまいだ。
光柳は椅子に腰を下ろした。
蘭淑妃と翠鈴が、机を挟んで対面する席。光柳は翠鈴の隣の椅子に座っている。
「早速本題に入りたい。結局、偽者は捕まえられなかった」
「はぁ」
ああ、せっかくのお茶の時間が。香檳茶は、ゆっくりと落ち着いて楽しみたいのに。
桃莉公主は、新たな客から逃げるように翠鈴の陰に隠れる。
「大丈夫ですよ」
「そうよ。桃莉。ご挨拶をしましょうね」
翠鈴と母親の淑妃にうながされて、桃莉公主はおずおずと前に出た。t小さく頭を下げて「こんにちは」と、光柳に挨拶をする。
「あの人見知りの桃莉が」
「ちゃんとご挨拶できましたね」
我が子の成長に、蘭淑妃が感極まったように声を震わせる。つられて翠鈴も感動した。
「陸翠鈴。昨夜の偽者のことだが。砂の上に残った足跡は、確かに女性の大きさではなかった。宦官で間違いなさそうだ」
「そうですね。彼がまとっていた衣裳は、甘露宮の侍女のものですよ」
「なぜ分かる?」
茶を注がれた碗を、光柳は手に取った。
熱くはないかと、少し口につけてからゆっくりと飲む。
さすがに一気飲みはしない。学習したようだ。
「甘露宮の陳燕が、衣裳が盗まれたと騒いでいたことがありました」
「陳家の娘か。確か三大商家だな」
「見せびらかすためなのか知りませんが。勤め先に、大事な物を持ってきてはいけませんね」
翠鈴の言葉に、光柳がうなずいた。
難しい話が始まってしまったので、桃莉公主は淑妃の膝にのった。
どうやら眠くなってしまったようだ。
蘭淑妃は、膝に座った娘の背を撫でている。
「なぜ宦官が陳家の娘を狙う? 他にも良家の娘はいるぞ」
光柳は声をひそめた。
侍女がいるからというよりも、桃莉公主が眠ってしまったからのようだ。
知り得た情報を外に流すような口の軽い侍女を、蘭淑妃は雇わないのだろう。
言葉はきついのだが、光柳は意外と優しい。
「陳燕は、偽の麟美から詩を買いましたからね。詩は相当な高値のはずです。それを簡単に手に入れたので、犯人に目をつけられたのでしょう」
「なるほど。確かに宦官が女物の服を仕立てるのは難しい」
「服は盗めるでしょう。ですがいくら華奢でも、女物の沓は履けません」
しかも陳燕は、踵の高い花盆沓を好んでいた。
足の大きさが合うはずもないけれど。万が一、履けたと仮定して。慣れていなければ、花盆沓では歩くどころか足を踏みだしただけで転んでしまうだろう。
「光柳さまの詩に、毒をしみこませていたのも件の宦官ですよ」
革の手覆越しだったとはいえ、毒に触れたことを思いだしたのだろう。
光柳は眉をひそめた。
「陳燕が買った偽の詩に毒を塗ったのも。光柳さまの毒も。どちらもあの宦官のしたことです」
「何のために?」
問われた翠鈴は、指を二本立てた。
「陳燕に対しては、噂が広まるように。麟美の詩に毒、となれば嫌でも目立ちます。光柳さまに対しては、警告です」
本物の麟美がもういないことなど、誰もが気づいてはいることだ。
それでも人は夢を見たい。いつも後宮にいて、自分たちの気持ちを代弁する詩を詠んでくれる人がいると。
甘くて切なくて。
誰もが、心に浮かんだ淡い気持ちを言葉にできるわけではない。
――大丈夫。あなたの気持ちは分かっているわ。つらかったわね、切なかったわね。
そんな風に、麟美の詩は後宮の女性たちに寄り添ってくれる。
優しさで成り立つ嘘の世界。
それが麟美の詩だ。
代々の妃嬪も侍女も女官も宮女も。嘘と知りながら、優しく儚い言葉のつらなりを大事にしている。
麟美の詩を朗じれば、穏やかに眠れる。空の果てにいる大事な人に、思いをはせることができる。
それなのに。
繊細な美を解さない愚か者が現れた。「それは嘘だ。騙されるな」と正義を振りかざして乱入してきた。
「正しいことがすべてなんて、余計なおせっかいよ」
翠鈴の吐きだした言葉は、苦々しい。
「では、偽の麟美は単に正義感から無謀な行動に出たと?」
光柳はあごに手をあてて考え込んでいる。
納得できない、という風に。
すでにお茶は冷めて、湯気も立たない。
「いえ」
翠鈴はまっすぐに光柳を見据えた。
「偽の麟美はふたりいます」
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