42 / 184
二章 麟美の偽者
19、逃げられた
しおりを挟む
「この女は嘘をついております。麟美はとうに後宮を去りました。生きていれば、五十に近いはず。このような小娘であるはずがありません」
「小娘……」
翠鈴は、少しばかり感動した。
姉の仇である石真も翠鈴のことを小娘と罵ったが。この闖入者も翠鈴を若いと侮っている。
薄布に隠された相手の顔はわからない。翠鈴は顔に垂らした紗の陰から、隣に立つ闖入者の手を見据えた。
手の甲、指の関節にしわは目立たない。節くれだってもいない。
ただ、華奢な手とは言い難い。
分かった。
「陛下。こちらの招かれざる客は麟美どころか、女性ですらありません」
翠鈴は一歩踏み出した。
歩瑶の珊瑚が、しゃらりと鳴る。驚いたように目を見開くのは帝のみ。
光柳も蘭淑妃も動じる様子はない。
「では、なんだと?」
「宦官です」
帝は、翠鈴に説明を促した。
「後宮を去ったはずの麟美が戻ってきているのなら。彼の指摘どおりに五十歳に近いでしょう。ですが、彼もまた麟美ではない証拠に、五十歳の手ではありません。しわも、少しのシミもありません」
隣に立つ偽の麟美が、あわてて自らの手を袖にひっこめる。
「私は外に出ることも少なく、日に当たることもまれです。詩を生業としているので、水仕事もしません。手が美しいのは当然です」
ふぅん。言うね。
翠鈴は目をすがめた。
「首もです。首の年齢はごまかせません」
偽の麟美は、今度は袖で首を隠した。
図星だ。
言葉にはせずとも、行動で「自分は若い」と認めている。
「宦官ですから、声は女性と間違えやすいでしょう。ですが手の大きさ、足の大きさまでは、男であった時と変わりません」
風が起こった。
袖を、長裙の裾をひるがえして、偽の麟美が逃げようとする。
「捕らえろ」
主の命を受けて、護衛が動いた。
だが、偽者は窗から飛び降りてしまった。ここは二階だというのに。
身に着けていた薄布の領巾だけが、天女の羽衣のように夜の中を舞っている。
「姿がありません」
「逃げたようです」
護衛たちは階下へと駆け下りていく。
偽の麟美は、着地の時に倒れそうになって手をついたのだろう。
大きな手形と足跡が、白砂を敷いた庭に残っている。深々と刻まれた足跡は、女性のもののように浅くない。偽の麟美が、やはり男であることを示していた。
「雲嵐。追え」
光柳の声が響いた。
次の瞬間。
雲嵐がひらりと窗から跳んだ。
冴えた月の光に照らされて。雲嵐はまるで月から降りてきたかのように、神々しく見えた。
馬が駆ける音が遠く聞こえた。
◇◇◇
観月の宴の翌日。
翠鈴は蘭淑妃にお茶に招かれた。
未央宮の侍女たちは、翠鈴が桃莉公主を毒から救ったことを知っている。
それに、医官には頼りにくい体の不調や悩みも、翠鈴に相談すれば改善してくれる。
なので、とくに疑問も抱かずに、翠鈴にお茶とお菓子を出してくれる。
花の形の酥には、花弁ひとつひとつに餡が詰められている。
さらに、元は庶民の菓子であった豌豆黄。ただし宮廷菓子ともなれば、豌豆をすりつぶした長方形の菓子も上品になる。
銀木犀の香りをつけて、紅果酪という山査子のゼリーがのせてある。
「昨日は大変だったわね。お茶もどうぞ」
「い、いいんですか? 遠慮なくいただきます」
翠鈴の目はきらきらと輝いた。
隣に座る桃莉公主は、酥の花びらをひとつひとつちぎって、口に入れている。
「ツイリン。おいしいね」
「はい。とってもおいしいですね」
笑顔の桃莉に、翠鈴もつられて微笑んだ。
豌豆黄は、かつて茶店で食べたものよりも滑らかで、甘さもすっきりとしている。
侍女が淹れてくれたお茶は、香檳茶だと教えてもらった。
白い柔毛に包まれた茶葉は、蜜の香りがする。
ひとくち飲んだ翠鈴は、静かに目を閉じて余韻を楽しんだ。
なんて、まろやか。そして香りが口の中で広がっていく。
「こんなおいしいお茶をいただけて、本当に嬉しいです」
「よかったわ。気に入ってもらえて」
蘭淑妃は目を細めた。
宮女のひと月分の給金をすべてつぎこんでも、この碗に一杯分の茶葉は買えない。
「今日はお客さまを呼んでいるのよ」
ぴくりと翠鈴は眉を動かした。
「……帰ります」
「だーめ。翠鈴にお茶のおかわりを入れてあげて」
蘭淑妃に指示された侍女が「どうぞ」と、お茶を注いでくれる。
しかも、座っている翠鈴に迫ってくるような圧がある。
これはきっと「翠鈴を部屋から出さないようにね」と、淑妃に命じられているにちがいない。
(ああ、でも。おいしい。碗に残った香りでさえも、馥郁としている)
帰らなければ。「お客さま」の目星はついている。
けれど、お茶。香檳茶を飲む機会なんて、そうそうない。
「失礼するよ。蘭淑妃」
翠鈴が帰りそびれている間に、とうとう客が来てしまった。
「小娘……」
翠鈴は、少しばかり感動した。
姉の仇である石真も翠鈴のことを小娘と罵ったが。この闖入者も翠鈴を若いと侮っている。
薄布に隠された相手の顔はわからない。翠鈴は顔に垂らした紗の陰から、隣に立つ闖入者の手を見据えた。
手の甲、指の関節にしわは目立たない。節くれだってもいない。
ただ、華奢な手とは言い難い。
分かった。
「陛下。こちらの招かれざる客は麟美どころか、女性ですらありません」
翠鈴は一歩踏み出した。
歩瑶の珊瑚が、しゃらりと鳴る。驚いたように目を見開くのは帝のみ。
光柳も蘭淑妃も動じる様子はない。
「では、なんだと?」
「宦官です」
帝は、翠鈴に説明を促した。
「後宮を去ったはずの麟美が戻ってきているのなら。彼の指摘どおりに五十歳に近いでしょう。ですが、彼もまた麟美ではない証拠に、五十歳の手ではありません。しわも、少しのシミもありません」
隣に立つ偽の麟美が、あわてて自らの手を袖にひっこめる。
「私は外に出ることも少なく、日に当たることもまれです。詩を生業としているので、水仕事もしません。手が美しいのは当然です」
ふぅん。言うね。
翠鈴は目をすがめた。
「首もです。首の年齢はごまかせません」
偽の麟美は、今度は袖で首を隠した。
図星だ。
言葉にはせずとも、行動で「自分は若い」と認めている。
「宦官ですから、声は女性と間違えやすいでしょう。ですが手の大きさ、足の大きさまでは、男であった時と変わりません」
風が起こった。
袖を、長裙の裾をひるがえして、偽の麟美が逃げようとする。
「捕らえろ」
主の命を受けて、護衛が動いた。
だが、偽者は窗から飛び降りてしまった。ここは二階だというのに。
身に着けていた薄布の領巾だけが、天女の羽衣のように夜の中を舞っている。
「姿がありません」
「逃げたようです」
護衛たちは階下へと駆け下りていく。
偽の麟美は、着地の時に倒れそうになって手をついたのだろう。
大きな手形と足跡が、白砂を敷いた庭に残っている。深々と刻まれた足跡は、女性のもののように浅くない。偽の麟美が、やはり男であることを示していた。
「雲嵐。追え」
光柳の声が響いた。
次の瞬間。
雲嵐がひらりと窗から跳んだ。
冴えた月の光に照らされて。雲嵐はまるで月から降りてきたかのように、神々しく見えた。
馬が駆ける音が遠く聞こえた。
◇◇◇
観月の宴の翌日。
翠鈴は蘭淑妃にお茶に招かれた。
未央宮の侍女たちは、翠鈴が桃莉公主を毒から救ったことを知っている。
それに、医官には頼りにくい体の不調や悩みも、翠鈴に相談すれば改善してくれる。
なので、とくに疑問も抱かずに、翠鈴にお茶とお菓子を出してくれる。
花の形の酥には、花弁ひとつひとつに餡が詰められている。
さらに、元は庶民の菓子であった豌豆黄。ただし宮廷菓子ともなれば、豌豆をすりつぶした長方形の菓子も上品になる。
銀木犀の香りをつけて、紅果酪という山査子のゼリーがのせてある。
「昨日は大変だったわね。お茶もどうぞ」
「い、いいんですか? 遠慮なくいただきます」
翠鈴の目はきらきらと輝いた。
隣に座る桃莉公主は、酥の花びらをひとつひとつちぎって、口に入れている。
「ツイリン。おいしいね」
「はい。とってもおいしいですね」
笑顔の桃莉に、翠鈴もつられて微笑んだ。
豌豆黄は、かつて茶店で食べたものよりも滑らかで、甘さもすっきりとしている。
侍女が淹れてくれたお茶は、香檳茶だと教えてもらった。
白い柔毛に包まれた茶葉は、蜜の香りがする。
ひとくち飲んだ翠鈴は、静かに目を閉じて余韻を楽しんだ。
なんて、まろやか。そして香りが口の中で広がっていく。
「こんなおいしいお茶をいただけて、本当に嬉しいです」
「よかったわ。気に入ってもらえて」
蘭淑妃は目を細めた。
宮女のひと月分の給金をすべてつぎこんでも、この碗に一杯分の茶葉は買えない。
「今日はお客さまを呼んでいるのよ」
ぴくりと翠鈴は眉を動かした。
「……帰ります」
「だーめ。翠鈴にお茶のおかわりを入れてあげて」
蘭淑妃に指示された侍女が「どうぞ」と、お茶を注いでくれる。
しかも、座っている翠鈴に迫ってくるような圧がある。
これはきっと「翠鈴を部屋から出さないようにね」と、淑妃に命じられているにちがいない。
(ああ、でも。おいしい。碗に残った香りでさえも、馥郁としている)
帰らなければ。「お客さま」の目星はついている。
けれど、お茶。香檳茶を飲む機会なんて、そうそうない。
「失礼するよ。蘭淑妃」
翠鈴が帰りそびれている間に、とうとう客が来てしまった。
45
お気に入りに追加
732
あなたにおすすめの小説

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

夫の隠し子を見付けたので、溺愛してみた。
辺野夏子
恋愛
セファイア王国王女アリエノールは八歳の時、王命を受けエメレット伯爵家に嫁いだ。それから十年、ずっと仮面夫婦のままだ。アリエノールは先天性の病のため、残りの寿命はあとわずか。日々を穏やかに過ごしているけれど、このままでは生きた証がないまま短い命を散らしてしまう。そんなある日、アリエノールの元に一人の子供が現れた。夫であるカシウスに生き写しな見た目の子供は「この家の子供になりにきた」と宣言する。これは夫の隠し子に間違いないと、アリエノールは継母としてその子を育てることにするのだが……堅物で不器用な夫と、余命わずかで卑屈になっていた妻がお互いの真実に気が付くまでの話。

私には何もありませんよ? 影の薄い末っ子王女は王の遺言書に名前が無い。何もかも失った私は―――
西東友一
恋愛
「遺言書を読み上げます」
宰相リチャードがラファエル王の遺言書を手に持つと、12人の兄姉がピリついた。
遺言書の内容を聞くと、
ある兄姉は周りに優越を見せつけるように大声で喜んだり、鼻で笑ったり・・・
ある兄姉ははしたなく爪を噛んだり、ハンカチを噛んだり・・・・・・
―――でも、みなさん・・・・・・いいじゃないですか。お父様から贈り物があって。
私には何もありませんよ?
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?
朱音ゆうひ
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!
「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」
王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。
不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。
もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた?
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)
お前など家族ではない!と叩き出されましたが、家族になってくれという奇特な騎士に拾われました
蒼衣翼
恋愛
アイメリアは今年十五歳になる少女だ。
家族に虐げられて召使いのように働かされて育ったアイメリアは、ある日突然、父親であった存在に「お前など家族ではない!」と追い出されてしまう。
アイメリアは養子であり、家族とは血の繋がりはなかったのだ。
閉じ込められたまま外を知らずに育ったアイメリアは窮地に陥るが、救ってくれた騎士の身の回りの世話をする仕事を得る。
養父母と義姉が自らの企みによって窮地に陥り、落ちぶれていく一方で、アイメリアはその秘められた才能を開花させ、救い主の騎士と心を通わせ、自らの居場所を作っていくのだった。
※小説家になろうさま・カクヨムさまにも掲載しています。

1年後に離縁してほしいと言った旦那さまが離してくれません
水川サキ
恋愛
「僕には他に愛する人がいるんだ。だから、君を愛することはできない」
伯爵令嬢アリアは政略結婚で結ばれた侯爵に1年だけでいいから妻のふりをしてほしいと頼まれる。
そのあいだ、何でも好きなものを与えてくれるし、いくらでも贅沢していいと言う。
アリアは喜んでその条件を受け入れる。
たった1年だけど、美味しいものを食べて素敵なドレスや宝石を身につけて、いっぱい楽しいことしちゃおっ!
などと気楽に考えていたのに、なぜか侯爵さまが夜の生活を求めてきて……。
いやいや、あなた私のこと好きじゃないですよね?
ふりですよね? ふり!!
なぜか侯爵さまが離してくれません。
※設定ゆるゆるご都合主義

〖完結〗愛人が離婚しろと乗り込んで来たのですが、私達はもう離婚していますよ?
藍川みいな
恋愛
「ライナス様と離婚して、とっととこの邸から出て行ってよっ!」
愛人が乗り込んで来たのは、これで何人目でしょう?
私はもう離婚していますし、この邸はお父様のものですから、決してライナス様のものにはなりません。
離婚の理由は、ライナス様が私を一度も抱くことがなかったからなのですが、不能だと思っていたライナス様は愛人を何人も作っていました。
そして親友だと思っていたマリーまで、ライナス様の愛人でした。
愛人を何人も作っていたくせに、やり直したいとか……頭がおかしいのですか?
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
全8話で完結になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる