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二章 麟美の偽者
19、逃げられた
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「この女は嘘をついております。麟美はとうに後宮を去りました。生きていれば、五十に近いはず。このような小娘であるはずがありません」
「小娘……」
翠鈴は、少しばかり感動した。
姉の仇である石真も翠鈴のことを小娘と罵ったが。この闖入者も翠鈴を若いと侮っている。
薄布に隠された相手の顔はわからない。翠鈴は顔に垂らした紗の陰から、隣に立つ闖入者の手を見据えた。
手の甲、指の関節にしわは目立たない。節くれだってもいない。
ただ、華奢な手とは言い難い。
分かった。
「陛下。こちらの招かれざる客は麟美どころか、女性ですらありません」
翠鈴は一歩踏み出した。
歩瑶の珊瑚が、しゃらりと鳴る。驚いたように目を見開くのは帝のみ。
光柳も蘭淑妃も動じる様子はない。
「では、なんだと?」
「宦官です」
帝は、翠鈴に説明を促した。
「後宮を去ったはずの麟美が戻ってきているのなら。彼の指摘どおりに五十歳に近いでしょう。ですが、彼もまた麟美ではない証拠に、五十歳の手ではありません。しわも、少しのシミもありません」
隣に立つ偽の麟美が、あわてて自らの手を袖にひっこめる。
「私は外に出ることも少なく、日に当たることもまれです。詩を生業としているので、水仕事もしません。手が美しいのは当然です」
ふぅん。言うね。
翠鈴は目をすがめた。
「首もです。首の年齢はごまかせません」
偽の麟美は、今度は袖で首を隠した。
図星だ。
言葉にはせずとも、行動で「自分は若い」と認めている。
「宦官ですから、声は女性と間違えやすいでしょう。ですが手の大きさ、足の大きさまでは、男であった時と変わりません」
風が起こった。
袖を、長裙の裾をひるがえして、偽の麟美が逃げようとする。
「捕らえろ」
主の命を受けて、護衛が動いた。
だが、偽者は窗から飛び降りてしまった。ここは二階だというのに。
身に着けていた薄布の領巾だけが、天女の羽衣のように夜の中を舞っている。
「姿がありません」
「逃げたようです」
護衛たちは階下へと駆け下りていく。
偽の麟美は、着地の時に倒れそうになって手をついたのだろう。
大きな手形と足跡が、白砂を敷いた庭に残っている。深々と刻まれた足跡は、女性のもののように浅くない。偽の麟美が、やはり男であることを示していた。
「雲嵐。追え」
光柳の声が響いた。
次の瞬間。
雲嵐がひらりと窗から跳んだ。
冴えた月の光に照らされて。雲嵐はまるで月から降りてきたかのように、神々しく見えた。
馬が駆ける音が遠く聞こえた。
◇◇◇
観月の宴の翌日。
翠鈴は蘭淑妃にお茶に招かれた。
未央宮の侍女たちは、翠鈴が桃莉公主を毒から救ったことを知っている。
それに、医官には頼りにくい体の不調や悩みも、翠鈴に相談すれば改善してくれる。
なので、とくに疑問も抱かずに、翠鈴にお茶とお菓子を出してくれる。
花の形の酥には、花弁ひとつひとつに餡が詰められている。
さらに、元は庶民の菓子であった豌豆黄。ただし宮廷菓子ともなれば、豌豆をすりつぶした長方形の菓子も上品になる。
銀木犀の香りをつけて、紅果酪という山査子のゼリーがのせてある。
「昨日は大変だったわね。お茶もどうぞ」
「い、いいんですか? 遠慮なくいただきます」
翠鈴の目はきらきらと輝いた。
隣に座る桃莉公主は、酥の花びらをひとつひとつちぎって、口に入れている。
「ツイリン。おいしいね」
「はい。とってもおいしいですね」
笑顔の桃莉に、翠鈴もつられて微笑んだ。
豌豆黄は、かつて茶店で食べたものよりも滑らかで、甘さもすっきりとしている。
侍女が淹れてくれたお茶は、香檳茶だと教えてもらった。
白い柔毛に包まれた茶葉は、蜜の香りがする。
ひとくち飲んだ翠鈴は、静かに目を閉じて余韻を楽しんだ。
なんて、まろやか。そして香りが口の中で広がっていく。
「こんなおいしいお茶をいただけて、本当に嬉しいです」
「よかったわ。気に入ってもらえて」
蘭淑妃は目を細めた。
宮女のひと月分の給金をすべてつぎこんでも、この碗に一杯分の茶葉は買えない。
「今日はお客さまを呼んでいるのよ」
ぴくりと翠鈴は眉を動かした。
「……帰ります」
「だーめ。翠鈴にお茶のおかわりを入れてあげて」
蘭淑妃に指示された侍女が「どうぞ」と、お茶を注いでくれる。
しかも、座っている翠鈴に迫ってくるような圧がある。
これはきっと「翠鈴を部屋から出さないようにね」と、淑妃に命じられているにちがいない。
(ああ、でも。おいしい。碗に残った香りでさえも、馥郁としている)
帰らなければ。「お客さま」の目星はついている。
けれど、お茶。香檳茶を飲む機会なんて、そうそうない。
「失礼するよ。蘭淑妃」
翠鈴が帰りそびれている間に、とうとう客が来てしまった。
「小娘……」
翠鈴は、少しばかり感動した。
姉の仇である石真も翠鈴のことを小娘と罵ったが。この闖入者も翠鈴を若いと侮っている。
薄布に隠された相手の顔はわからない。翠鈴は顔に垂らした紗の陰から、隣に立つ闖入者の手を見据えた。
手の甲、指の関節にしわは目立たない。節くれだってもいない。
ただ、華奢な手とは言い難い。
分かった。
「陛下。こちらの招かれざる客は麟美どころか、女性ですらありません」
翠鈴は一歩踏み出した。
歩瑶の珊瑚が、しゃらりと鳴る。驚いたように目を見開くのは帝のみ。
光柳も蘭淑妃も動じる様子はない。
「では、なんだと?」
「宦官です」
帝は、翠鈴に説明を促した。
「後宮を去ったはずの麟美が戻ってきているのなら。彼の指摘どおりに五十歳に近いでしょう。ですが、彼もまた麟美ではない証拠に、五十歳の手ではありません。しわも、少しのシミもありません」
隣に立つ偽の麟美が、あわてて自らの手を袖にひっこめる。
「私は外に出ることも少なく、日に当たることもまれです。詩を生業としているので、水仕事もしません。手が美しいのは当然です」
ふぅん。言うね。
翠鈴は目をすがめた。
「首もです。首の年齢はごまかせません」
偽の麟美は、今度は袖で首を隠した。
図星だ。
言葉にはせずとも、行動で「自分は若い」と認めている。
「宦官ですから、声は女性と間違えやすいでしょう。ですが手の大きさ、足の大きさまでは、男であった時と変わりません」
風が起こった。
袖を、長裙の裾をひるがえして、偽の麟美が逃げようとする。
「捕らえろ」
主の命を受けて、護衛が動いた。
だが、偽者は窗から飛び降りてしまった。ここは二階だというのに。
身に着けていた薄布の領巾だけが、天女の羽衣のように夜の中を舞っている。
「姿がありません」
「逃げたようです」
護衛たちは階下へと駆け下りていく。
偽の麟美は、着地の時に倒れそうになって手をついたのだろう。
大きな手形と足跡が、白砂を敷いた庭に残っている。深々と刻まれた足跡は、女性のもののように浅くない。偽の麟美が、やはり男であることを示していた。
「雲嵐。追え」
光柳の声が響いた。
次の瞬間。
雲嵐がひらりと窗から跳んだ。
冴えた月の光に照らされて。雲嵐はまるで月から降りてきたかのように、神々しく見えた。
馬が駆ける音が遠く聞こえた。
◇◇◇
観月の宴の翌日。
翠鈴は蘭淑妃にお茶に招かれた。
未央宮の侍女たちは、翠鈴が桃莉公主を毒から救ったことを知っている。
それに、医官には頼りにくい体の不調や悩みも、翠鈴に相談すれば改善してくれる。
なので、とくに疑問も抱かずに、翠鈴にお茶とお菓子を出してくれる。
花の形の酥には、花弁ひとつひとつに餡が詰められている。
さらに、元は庶民の菓子であった豌豆黄。ただし宮廷菓子ともなれば、豌豆をすりつぶした長方形の菓子も上品になる。
銀木犀の香りをつけて、紅果酪という山査子のゼリーがのせてある。
「昨日は大変だったわね。お茶もどうぞ」
「い、いいんですか? 遠慮なくいただきます」
翠鈴の目はきらきらと輝いた。
隣に座る桃莉公主は、酥の花びらをひとつひとつちぎって、口に入れている。
「ツイリン。おいしいね」
「はい。とってもおいしいですね」
笑顔の桃莉に、翠鈴もつられて微笑んだ。
豌豆黄は、かつて茶店で食べたものよりも滑らかで、甘さもすっきりとしている。
侍女が淹れてくれたお茶は、香檳茶だと教えてもらった。
白い柔毛に包まれた茶葉は、蜜の香りがする。
ひとくち飲んだ翠鈴は、静かに目を閉じて余韻を楽しんだ。
なんて、まろやか。そして香りが口の中で広がっていく。
「こんなおいしいお茶をいただけて、本当に嬉しいです」
「よかったわ。気に入ってもらえて」
蘭淑妃は目を細めた。
宮女のひと月分の給金をすべてつぎこんでも、この碗に一杯分の茶葉は買えない。
「今日はお客さまを呼んでいるのよ」
ぴくりと翠鈴は眉を動かした。
「……帰ります」
「だーめ。翠鈴にお茶のおかわりを入れてあげて」
蘭淑妃に指示された侍女が「どうぞ」と、お茶を注いでくれる。
しかも、座っている翠鈴に迫ってくるような圧がある。
これはきっと「翠鈴を部屋から出さないようにね」と、淑妃に命じられているにちがいない。
(ああ、でも。おいしい。碗に残った香りでさえも、馥郁としている)
帰らなければ。「お客さま」の目星はついている。
けれど、お茶。香檳茶を飲む機会なんて、そうそうない。
「失礼するよ。蘭淑妃」
翠鈴が帰りそびれている間に、とうとう客が来てしまった。
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