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二章 麟美の偽者
17、凍月
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凍月の宴が始まった。
窗辺の近くに設けられた席に、皇帝と蘭淑妃が座っている。
淑妃の背後には侍女。壁際には、影に溶けるように護衛が立っていた。
月明りに照らされた部屋は、灯りを最小限にしてある。
聞こえてくるのは、哀愁を帯びた二胡の音色。
陛下と淑妃の会話を邪魔しないように、夜のしじまに溶けるほどに幽かな音だ。
「今宵は麟美に来てもらっているのだ。詩を詠じてもらおうと思ってな」
「まぁぁ。本当ですか? 陛下は、わたくしを驚かせるのがお上手ですね」
盃に入った澄んだ酒に月を映す、蘭淑妃の声は弾んでいる。
「先帝が愛した麟美を、我が妃も愛するとは。まったくどういうことだか」
「伝説の麟美さまですもの。誰だって夢中になります。きっと一生の思い出になりますわ」
「そうかそうか」
陛下は満足そうな笑みを浮かべる。
我があるじは、とんだ狸だ。翠鈴は唸った。
(すごいよね。淑妃は、わたしの着付けを手伝ってくださったのに。まったく素知らぬふりができるなんて)
蘭淑妃は、表情に一点の曇りもなく、心から喜んでいるように見える。
(四夫人となるには、家柄や品格、美しさに教養も必要だけれど)
子をなすことと同列で重要なのは、立ち回りのうまさかもしれない。
二胡の音が途切れた。
麟美の出番だ。
翠鈴は深呼吸をして、控えの間から姿を現した。
顔の前に薄い紗の布を垂らしてある。視界はかなり閉ざされるが、宦官や侍女たちもいるので顔がばれないようにだ。
冬青花の白い小花と紅の実が刺繍された沓で、一歩踏みだす。
冴えた月の光が、すっと立つ翠鈴を照らした。
「これが麟美……」
うわ言のように、帝が声を洩らした。
「すてき」と、蘭淑妃が感嘆の息をつく。
控えている護衛や宦官たちも、翠鈴を見つめている。
翠鈴が歩くたびに、月の光がこぼれ落ちる。艶やかな黒髪に、繊細な衣裳に。
長い手足も、珊瑚の珠が連なる歩瑶の簪も、胸元を彩る金と赤瑪瑙の瓔珞も。
すべてが息を呑むほどに美しい。
まるで夜にかぐわしい香りを放つ、月下美人の花を思わせた。
「女神のようですわ」
蘭淑妃が言葉を発するまで、陛下は呆然としていた。
控えの間から行儀悪く覗いている光柳は、満足そうに「どうだ」と言わんばかりだ。
「麟美でございます。今宵、蘭淑妃さまに詩を捧げとうございます」
翠鈴が一礼すると、髪に射した珊瑚の珠がしゃらりと鳴る。
珍しく、翠鈴の手は小刻みに震えた。
(うっわ。さすがに緊張する。蘭淑妃、面白がってるんじゃないかなぁ)
紗の布越しでは、淑妃の細かな表情までは分からない。
けれど、まっすぐに翠鈴を見つめている。
「凍月に見えし背は、また雲に隠る あなただと風が告げる、夜露が告げる 顔は消え、声も消え、我は月を眺め続ける 月光の中にあなたがいないかと 求めても求めても、もういないのに」
玲瓏とした声が響きわたった。
詩を詠じ終わっても、誰も言葉を発しない。
ただ、庭に植えられた竹の葉が、さわさわと風に吹かれる音が聞こえるばかり。
ことり。皇帝の手から、盃が落ちた。
「お会いしとうございました。陛下」
自然と翠鈴の口が開いた。
そんな言葉を発するつもりはなかったのに。
涙が頬を伝う。熱い。目頭が熱くてたまらない。
(これは麟美の想いだ。自ら後宮を去った麟美の寂しさだ。目の前におられるのは先帝ではない。それでも気持ちは残っている)
息子である光柳は、間違えることなく麟美の悲しさも苦しさも、切なさも拾いあげている。
その時だった。
静寂を切りさくように、声が響いたのは。
「それは麟美ではありません。偽者です」
窗辺の近くに設けられた席に、皇帝と蘭淑妃が座っている。
淑妃の背後には侍女。壁際には、影に溶けるように護衛が立っていた。
月明りに照らされた部屋は、灯りを最小限にしてある。
聞こえてくるのは、哀愁を帯びた二胡の音色。
陛下と淑妃の会話を邪魔しないように、夜のしじまに溶けるほどに幽かな音だ。
「今宵は麟美に来てもらっているのだ。詩を詠じてもらおうと思ってな」
「まぁぁ。本当ですか? 陛下は、わたくしを驚かせるのがお上手ですね」
盃に入った澄んだ酒に月を映す、蘭淑妃の声は弾んでいる。
「先帝が愛した麟美を、我が妃も愛するとは。まったくどういうことだか」
「伝説の麟美さまですもの。誰だって夢中になります。きっと一生の思い出になりますわ」
「そうかそうか」
陛下は満足そうな笑みを浮かべる。
我があるじは、とんだ狸だ。翠鈴は唸った。
(すごいよね。淑妃は、わたしの着付けを手伝ってくださったのに。まったく素知らぬふりができるなんて)
蘭淑妃は、表情に一点の曇りもなく、心から喜んでいるように見える。
(四夫人となるには、家柄や品格、美しさに教養も必要だけれど)
子をなすことと同列で重要なのは、立ち回りのうまさかもしれない。
二胡の音が途切れた。
麟美の出番だ。
翠鈴は深呼吸をして、控えの間から姿を現した。
顔の前に薄い紗の布を垂らしてある。視界はかなり閉ざされるが、宦官や侍女たちもいるので顔がばれないようにだ。
冬青花の白い小花と紅の実が刺繍された沓で、一歩踏みだす。
冴えた月の光が、すっと立つ翠鈴を照らした。
「これが麟美……」
うわ言のように、帝が声を洩らした。
「すてき」と、蘭淑妃が感嘆の息をつく。
控えている護衛や宦官たちも、翠鈴を見つめている。
翠鈴が歩くたびに、月の光がこぼれ落ちる。艶やかな黒髪に、繊細な衣裳に。
長い手足も、珊瑚の珠が連なる歩瑶の簪も、胸元を彩る金と赤瑪瑙の瓔珞も。
すべてが息を呑むほどに美しい。
まるで夜にかぐわしい香りを放つ、月下美人の花を思わせた。
「女神のようですわ」
蘭淑妃が言葉を発するまで、陛下は呆然としていた。
控えの間から行儀悪く覗いている光柳は、満足そうに「どうだ」と言わんばかりだ。
「麟美でございます。今宵、蘭淑妃さまに詩を捧げとうございます」
翠鈴が一礼すると、髪に射した珊瑚の珠がしゃらりと鳴る。
珍しく、翠鈴の手は小刻みに震えた。
(うっわ。さすがに緊張する。蘭淑妃、面白がってるんじゃないかなぁ)
紗の布越しでは、淑妃の細かな表情までは分からない。
けれど、まっすぐに翠鈴を見つめている。
「凍月に見えし背は、また雲に隠る あなただと風が告げる、夜露が告げる 顔は消え、声も消え、我は月を眺め続ける 月光の中にあなたがいないかと 求めても求めても、もういないのに」
玲瓏とした声が響きわたった。
詩を詠じ終わっても、誰も言葉を発しない。
ただ、庭に植えられた竹の葉が、さわさわと風に吹かれる音が聞こえるばかり。
ことり。皇帝の手から、盃が落ちた。
「お会いしとうございました。陛下」
自然と翠鈴の口が開いた。
そんな言葉を発するつもりはなかったのに。
涙が頬を伝う。熱い。目頭が熱くてたまらない。
(これは麟美の想いだ。自ら後宮を去った麟美の寂しさだ。目の前におられるのは先帝ではない。それでも気持ちは残っている)
息子である光柳は、間違えることなく麟美の悲しさも苦しさも、切なさも拾いあげている。
その時だった。
静寂を切りさくように、声が響いたのは。
「それは麟美ではありません。偽者です」
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