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二章 麟美の偽者

16、巻物の毒

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 午後には雲が空を覆い、月が見えるかどうか危ぶまれた。
 だが、上空の風が強いのだろう。夕暮れには雲も散って、空は茜やすみれ色、朱色に染まっている。

「雲がないってことは、これから寒くなるってことですよね」
「そうなのか?」

 すでに着替えを済ませた翠鈴ツイリンの側に、光柳クアンリュウが立っている。
 ふたりがいるのは観月楼の表だ。二階建ての楼の東には池が、南には白砂の庭がある。
 池も白砂も、月の光を映すためのものだ。

 楼の入り口近くに、鞍をつけた馬がつないであった。

「昼間の温かい熱が、空へと逃げていくんですよ。雲があれば、熱がそこで止まるみたいですよ」

 翠鈴は空を指さした。
 ふたりともふわふわの毛皮の上着を羽織っている。翠鈴は、蘭淑妃から勧められた褲子ズボンと絹の腹巻なければ、震えていただろう。

 光柳はしなやかな革の手覆ておおいをはめて、圍巾ウェイジンという襟巻を巻いている。
 親指とそれ以外に分かれた手覆が気に入ったようだ。

 光柳の圍巾ウェイジンは、あまりにも細い山羊の毛糸で織られているので。一見すると絹のように光沢がある。
 身に着けているものが、いちいち高価そうだ。

 ちなみに背後に立つ雲嵐ユィンランは、もこもこではない。服装も、すっきりとした褲子ズボンに、ふくらはぎ辺りまである革製の長靴ちょうかを履いている。

「これが今夜、君が読みあげる詩だ」

 手に持っていた巻物を、光柳が開いた。淡い黄緑色の竹紙ちくしだ。

「不思議だ。湿っている」

 光柳の言葉に、翠鈴が目を見開いた。
 紙の両端のシミ。左右の手を置く場所だ。覚えがある。

「触れないでくださいっ」

 パシンと、光柳の手首を払う。竹紙が風にさらわれて、地面に落ちた。

「手覆は外さないで」

 何事かと問うこともできずに、光柳は呆然としている。

「毒が塗られています」

 翠鈴はしゃがみこんで、紙を確認した。

「真か?」
「はい。最近も麟美の偽の詩に塗られていたものと同じだと思います。おそらくは秋明菊の茎の汁でしょう」
「秋明菊? あの清楚な花か」

 問いかける光柳の声は、かすれていた。

「革の手覆をはめていて、よかったですね。素手だと、皮膚がかぶれたり水疱ができます。もし間違って口に入れば、胃腸炎を起こします」

 秋明菊も花金鳳花はなきんぽうげも、同じような種類の花だ。これらは全草の液汁に毒を含む。
 間違って犬や猫が秋明菊の葉や茎を齧って、苦しむことも多い。

「なぜ私を狙うんだ?」
「それは先帝の御子でいらっしゃるからではないでしょうか」

 口を挟んだのは、雲嵐だった。

 そうかな? 翠鈴はあごに手をあてて考えた。

 確かに雲嵐は護衛として、常に光柳の側にいる。
 まだ陛下に東宮はお生まれではないが。それでも陛下の弟は何人もいらっしゃる。

 女官のままで嬪にはならなかった麟美リンメイの息子は、皇位の継承からは遠い。

(光柳は、明らかに書令史の身分ではないと、誰もがうっすらと分かっている。なのに敢えて指摘する者はいない。彼は『特別な存在』なのだと、悟っているからだ)

 聡明で才ある麟美の忘れ形見の光柳。
 親子関係までは知らずとも、光柳の醸しだす雰囲気や佇まいは清冽な水のようだ。汚すことをためらうほどに、澄んで美しい。

「わたしは、光柳さまが麟美さまでいらっしゃるから、狙われたのだと思います」
「麟美は表に出ない。狙われる理由がわからない」

 光柳は、地面に落ちた詩を呆然と眺めている。

 月が昇りはじめたのだろう。月光を反射した白砂が、冴えた光を宿す。
 草むらから虫の音が、リリリと聞こえた。

「今から、麟美は表に出ますよ」

 翠鈴は、光柳を見上げた。

「事情をご存じの陛下と蘭淑妃の前ですが。他にも人はおります」

 貴人には必ず付き人がいる。護衛であったり、侍女であったり。
 光柳がそうであるように。

 この観月楼にも酒や宴の準備で、すでに何人もの宮女や宦官が入っている。

「残念ですが。その紙はわたしは持てません。この場で暗記してしまいましょう」

 落ちた紙にしたためられた詩を、翠鈴は見つめた。
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