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二章 麟美の偽者
15、入浴
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半月後。司衣たちが急いで仕立てた衣裳が、翠鈴の元に届いた。今夜が月見の宴だ。
短い上着と、ひだのついた長裙。上着と腰に結ぶ帯には、月と桂の葉が刺繍してある。
(これは。司衣の人たち、過重労働だったんじゃないのかな)
今朝。衣裳を納めに未央宮を訪れた宮女たちは、目の下に隈ができていた。しかもやつれた様子でもあった。
(困るよね。陛下の思いつきで、仕事を増やされたら)
「さぁ。お風呂に入りましょう」
パンっと手を叩いて、朗らかに言ったのは蘭淑妃だった。
「ツイリンも、おふろー」
つられたのか、桃莉公主も手を叩いている。
麟美の代理は極秘事項だ。蘭淑妃の侍女も関わることはできない。なので淑妃自ら指揮を執っている。
たぶん、密かに動くというのが楽しいのだろう。
蘭淑妃は指示するだけなので、枇杷と無花果の葉を煮出して、風呂を沸かしてといった仕事は翠鈴が行わなければならない。
(うう。普段なら、わたしがお風呂に水を運んで沸かすなんてことないのに。午前のこの時間は休んでいられるのに)
余分な仕事が増えすぎだ。
きっと光柳は、翠鈴がただ着飾って詩を詠じればよいと考えているだけ。
宮女が何かを命じられれば、それに伴う雑事が勢い増えることを知るはずもない。
(あの人の身分の低さは見せかけだもんなぁ)
光柳への文句を心の中でぶちまけていた時だった。
「手伝いに参りました。私が風呂の用意をしましょう」
背後から後光のように太陽の光を浴び、その人は告げた。
杜雲嵐だ。
「さぁ、桶を貸してください」
「雲嵐さま。どうしてここに」
さっそうと現れた雲嵐が、窮地に駆けつけてくれた英雄に見えた。問いかける翠鈴の声はかすれている。
「光柳さまに頼まれました。侍女や宮女は人払いをしているので、手が足りないだろう、と」
「あら。わたくしたちがおりますわ。着付けは任せてください」
「タオリィもてつだえるよ」
入浴に関しては、まったく戦力にならない蘭淑妃が胸を張る。
「仕立て上がった衣は、今ちゃんと香を焚きしめておりますからね」
うん。そこは重要なところじゃないな。
翠鈴は苦い笑みを浮かべた。
それにしても意外だった。
光柳が気を利かせてくれるなんて。
誤解していて、ごめんなさい。
広々とした風呂につかるなんて、経験がない。しかも高価な薬湯だ。
クセのある匂いと、茶色に染まった湯は、さらりとしていて肌に柔らかい。
「あったかいな」
翠鈴が天井を見上げる。雫がぽたりと天井から落ちてきた。
(そうか。湯気が天井で冷やされて、水滴になるんだ)
これは何かに使えないかな。たとえば葉とか枝とか木の皮を煮て、薬効のある成分を取り出すとか。
塩水を沸騰させて、その湯気を冷やせば真水になるんだし。成分を分けることができるよね。
でも、お酒に薬草を漬け込んで成分を溶かした方がいいかな。
帝と蘭淑妃の前で詩を詠じるというのに。結局、翠鈴は薬草のことばかり考えている。
それを冷静と称する人もいるが。興味の範囲が極端に狭いともいえる。
風呂から上がった翠鈴を、蘭淑妃が着つけてくれる。
長裙は、少し動くだけでさらさらとなびくように軽い。薄い布を何枚も重ねてあり、光の加減によって艶が生まれる。
初冬ということもあって、寒さ対策も万全だ。
「まさか長裙の下に、褲子を履くとは思いませんでした」
「大丈夫。足にぴったりと添う形だから、目立たないわよ」
蘭淑妃にとっては、当たり前のことらしい。
なるほど。冷えは厳禁だものね。
凍月を見るのは室内らしい。けれど、窗を開け放つので、寒いことに変わりはないそうだ。
そうそう、と蘭淑妃は、柔らかな布を差しだした。両端に細い紐がついている。
「お腹に巻いてちょうだいね。紐を結んで留めるのよ」
「……色気もへったくれもありませんね」
「本当にそうよねぇ。でも冷えは厳禁でしょう? 薬師としては」
「仰るとおりでございます」
心を読まれたかと思った。
腹巻は、やたらと手触りがよい。上質な絹かもしれない。
凍月を観賞するといえば聞こえはいいが。要は空気が冷たくて冴え渡った月を見るということなので、寒いことこの上ないだろう。
「風流とは我慢を強いるものなんでしょうか」
「そうねぇ」と、蘭淑妃は微笑んだ。
短い上着と、ひだのついた長裙。上着と腰に結ぶ帯には、月と桂の葉が刺繍してある。
(これは。司衣の人たち、過重労働だったんじゃないのかな)
今朝。衣裳を納めに未央宮を訪れた宮女たちは、目の下に隈ができていた。しかもやつれた様子でもあった。
(困るよね。陛下の思いつきで、仕事を増やされたら)
「さぁ。お風呂に入りましょう」
パンっと手を叩いて、朗らかに言ったのは蘭淑妃だった。
「ツイリンも、おふろー」
つられたのか、桃莉公主も手を叩いている。
麟美の代理は極秘事項だ。蘭淑妃の侍女も関わることはできない。なので淑妃自ら指揮を執っている。
たぶん、密かに動くというのが楽しいのだろう。
蘭淑妃は指示するだけなので、枇杷と無花果の葉を煮出して、風呂を沸かしてといった仕事は翠鈴が行わなければならない。
(うう。普段なら、わたしがお風呂に水を運んで沸かすなんてことないのに。午前のこの時間は休んでいられるのに)
余分な仕事が増えすぎだ。
きっと光柳は、翠鈴がただ着飾って詩を詠じればよいと考えているだけ。
宮女が何かを命じられれば、それに伴う雑事が勢い増えることを知るはずもない。
(あの人の身分の低さは見せかけだもんなぁ)
光柳への文句を心の中でぶちまけていた時だった。
「手伝いに参りました。私が風呂の用意をしましょう」
背後から後光のように太陽の光を浴び、その人は告げた。
杜雲嵐だ。
「さぁ、桶を貸してください」
「雲嵐さま。どうしてここに」
さっそうと現れた雲嵐が、窮地に駆けつけてくれた英雄に見えた。問いかける翠鈴の声はかすれている。
「光柳さまに頼まれました。侍女や宮女は人払いをしているので、手が足りないだろう、と」
「あら。わたくしたちがおりますわ。着付けは任せてください」
「タオリィもてつだえるよ」
入浴に関しては、まったく戦力にならない蘭淑妃が胸を張る。
「仕立て上がった衣は、今ちゃんと香を焚きしめておりますからね」
うん。そこは重要なところじゃないな。
翠鈴は苦い笑みを浮かべた。
それにしても意外だった。
光柳が気を利かせてくれるなんて。
誤解していて、ごめんなさい。
広々とした風呂につかるなんて、経験がない。しかも高価な薬湯だ。
クセのある匂いと、茶色に染まった湯は、さらりとしていて肌に柔らかい。
「あったかいな」
翠鈴が天井を見上げる。雫がぽたりと天井から落ちてきた。
(そうか。湯気が天井で冷やされて、水滴になるんだ)
これは何かに使えないかな。たとえば葉とか枝とか木の皮を煮て、薬効のある成分を取り出すとか。
塩水を沸騰させて、その湯気を冷やせば真水になるんだし。成分を分けることができるよね。
でも、お酒に薬草を漬け込んで成分を溶かした方がいいかな。
帝と蘭淑妃の前で詩を詠じるというのに。結局、翠鈴は薬草のことばかり考えている。
それを冷静と称する人もいるが。興味の範囲が極端に狭いともいえる。
風呂から上がった翠鈴を、蘭淑妃が着つけてくれる。
長裙は、少し動くだけでさらさらとなびくように軽い。薄い布を何枚も重ねてあり、光の加減によって艶が生まれる。
初冬ということもあって、寒さ対策も万全だ。
「まさか長裙の下に、褲子を履くとは思いませんでした」
「大丈夫。足にぴったりと添う形だから、目立たないわよ」
蘭淑妃にとっては、当たり前のことらしい。
なるほど。冷えは厳禁だものね。
凍月を見るのは室内らしい。けれど、窗を開け放つので、寒いことに変わりはないそうだ。
そうそう、と蘭淑妃は、柔らかな布を差しだした。両端に細い紐がついている。
「お腹に巻いてちょうだいね。紐を結んで留めるのよ」
「……色気もへったくれもありませんね」
「本当にそうよねぇ。でも冷えは厳禁でしょう? 薬師としては」
「仰るとおりでございます」
心を読まれたかと思った。
腹巻は、やたらと手触りがよい。上質な絹かもしれない。
凍月を観賞するといえば聞こえはいいが。要は空気が冷たくて冴え渡った月を見るということなので、寒いことこの上ないだろう。
「風流とは我慢を強いるものなんでしょうか」
「そうねぇ」と、蘭淑妃は微笑んだ。
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