上 下
38 / 181
二章 麟美の偽者

15、入浴

しおりを挟む
 半月後。司衣しいたちが急いで仕立てた衣裳が、翠鈴ツイリンの元に届いた。今夜が月見の宴だ。

 短い上着と、ひだのついた長裙ちょうくん。上着と腰に結ぶ帯には、月と桂の葉が刺繍してある。

(これは。司衣の人たち、過重労働だったんじゃないのかな)

 今朝。衣裳を納めに未央宮を訪れた宮女たちは、目の下にくまができていた。しかもやつれた様子でもあった。

(困るよね。陛下の思いつきで、仕事を増やされたら)

「さぁ。お風呂に入りましょう」

 パンっと手を叩いて、朗らかに言ったのは蘭淑妃だった。

「ツイリンも、おふろー」

 つられたのか、桃莉公主も手を叩いている。

 麟美の代理は極秘事項だ。蘭淑妃の侍女も関わることはできない。なので淑妃自ら指揮を執っている。
 たぶん、密かに動くというのが楽しいのだろう。

 蘭淑妃は指示するだけなので、枇杷と無花果いちじくの葉を煮出して、風呂を沸かしてといった仕事は翠鈴が行わなければならない。

(うう。普段なら、わたしがお風呂に水を運んで沸かすなんてことないのに。午前のこの時間は休んでいられるのに)

 余分な仕事が増えすぎだ。

 きっと光柳クアンリュウは、翠鈴がただ着飾って詩を詠じればよいと考えているだけ。
 宮女が何かを命じられれば、それに伴う雑事が勢い増えることを知るはずもない。

(あの人の身分の低さは見せかけだもんなぁ)

 光柳への文句を心の中でぶちまけていた時だった。

「手伝いに参りました。私が風呂の用意をしましょう」

 背後から後光のように太陽の光を浴び、その人は告げた。
 杜雲嵐ドゥユィンランだ。

「さぁ、桶を貸してください」
「雲嵐さま。どうしてここに」

 さっそうと現れた雲嵐が、窮地に駆けつけてくれた英雄に見えた。問いかける翠鈴の声はかすれている。

「光柳さまに頼まれました。侍女や宮女は人払いをしているので、手が足りないだろう、と」
「あら。わたくしたちがおりますわ。着付けは任せてください」
「タオリィもてつだえるよ」

 入浴に関しては、まったく戦力にならない蘭淑妃が胸を張る。

「仕立て上がった衣は、今ちゃんと香を焚きしめておりますからね」

 うん。そこは重要なところじゃないな。
 翠鈴は苦い笑みを浮かべた。

 それにしても意外だった。
 光柳が気を利かせてくれるなんて。
 誤解していて、ごめんなさい。

 広々とした風呂につかるなんて、経験がない。しかも高価な薬湯だ。
 クセのある匂いと、茶色に染まった湯は、さらりとしていて肌に柔らかい。

「あったかいな」

 翠鈴が天井を見上げる。雫がぽたりと天井から落ちてきた。

(そうか。湯気が天井で冷やされて、水滴になるんだ)

 これは何かに使えないかな。たとえば葉とか枝とか木の皮を煮て、薬効のある成分を取り出すとか。
 塩水を沸騰させて、その湯気を冷やせば真水になるんだし。成分を分けることができるよね。
 でも、お酒に薬草を漬け込んで成分を溶かした方がいいかな。

 帝と蘭淑妃の前で詩を詠じるというのに。結局、翠鈴は薬草のことばかり考えている。
 それを冷静と称する人もいるが。興味の範囲が極端に狭いともいえる。
 
 風呂から上がった翠鈴を、蘭淑妃が着つけてくれる。

 長裙は、少し動くだけでさらさらとなびくように軽い。薄い布を何枚も重ねてあり、光の加減によって艶が生まれる。
 初冬ということもあって、寒さ対策も万全だ。

「まさか長裙の下に、褲子ズボンを履くとは思いませんでした」
「大丈夫。足にぴったりと添う形だから、目立たないわよ」

 蘭淑妃にとっては、当たり前のことらしい。
 なるほど。冷えは厳禁だものね。

 凍月いてづきを見るのは室内らしい。けれど、まどを開け放つので、寒いことに変わりはないそうだ。
 そうそう、と蘭淑妃は、柔らかな布を差しだした。両端に細い紐がついている。

「お腹に巻いてちょうだいね。紐を結んで留めるのよ」
「……色気もへったくれもありませんね」
「本当にそうよねぇ。でも冷えは厳禁でしょう? 薬師としては」
「仰るとおりでございます」

 心を読まれたかと思った。
 腹巻は、やたらと手触りがよい。上質な絹かもしれない。

 凍月いてづきを観賞するといえば聞こえはいいが。要は空気が冷たくて冴え渡った月を見るということなので、寒いことこの上ないだろう。

「風流とは我慢を強いるものなんでしょうか」

「そうねぇ」と、蘭淑妃は微笑んだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい

LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。 相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。 何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。 相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。 契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

離縁してくださいと言ったら、大騒ぎになったのですが?

ネコ
恋愛
子爵令嬢レイラは北の領主グレアムと政略結婚をするも、彼が愛しているのは幼い頃から世話してきた従姉妹らしい。夫婦生活らしい交流すらなく、仕事と家事を押し付けられるばかり。ある日、従姉妹とグレアムの微妙な関係を目撃し、全てを諦める。

お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。

下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。 またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。 あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。 ご都合主義の多分ハッピーエンド? 小説家になろう様でも投稿しています。

私が出て行った後、旦那様から後悔の手紙がもたらされました

新野乃花(大舟)
恋愛
ルナとルーク伯爵は婚約関係にあったが、その関係は伯爵の妹であるリリアによって壊される。伯爵はルナの事よりもリリアの事ばかりを優先するためだ。そんな日々が繰り返される中で、ルナは伯爵の元から姿を消す。最初こそ何とも思っていなかった伯爵であったが、その後あるきっかけをもとに、ルナの元に後悔の手紙を送ることとなるのだった…。

子持ちの私は、夫に駆け落ちされました

月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。

私は幼い頃に死んだと思われていた侯爵令嬢でした

さこの
恋愛
 幼い頃に誘拐されたマリアベル。保護してくれた男の人をお母さんと呼び、父でもあり兄でもあり家族として暮らしていた。  誘拐される以前の記憶は全くないが、ネックレスにマリアベルと名前が記されていた。  数年後にマリアベルの元に侯爵家の遣いがやってきて、自分は貴族の娘だと知る事になる。  お母さんと呼ぶ男の人と離れるのは嫌だが家に戻り家族と会う事になった。  片田舎で暮らしていたマリアベルは貴族の子女として学ぶ事になるが、不思議と読み書きは出来るし食事のマナーも悪くない。  お母さんと呼ばれていた男は何者だったのだろうか……? マリアベルは貴族社会に馴染めるのか……  っと言った感じのストーリーです。

処理中です...